三章 馬車 Ch3. Un carrosse
太陽が頭上高く昇り、西へと降り始めた。
照りつく日差しが地面を焦がし、冷たい北風が木枯らしとなってそよぐ矛盾した天気。
つまりこの季節ならば、いつも通りということだ。
ブランシュ・クラリヴァントは北方向へと街道を進むが、ドレスを蹴り続けている。
目深に被った漆黒のツバ広帽子をいじりつつ、その奥で頬を膨らます。
風に立ち向かうようにレ・アルを目指して北上を続ける中、後ろのシリルが何度目かの口を開いた。
「ブランシュ様、そろそろ機嫌を直して頂けませんか。それとも、またなにか演技をされているのですか」
大人にならなければならない。それは分かっているのだが、せっかくなので初めての反抗期とやらを堪能してみる。
「……平民の鎧を着るのをやめて欲しい、あなたにそう言ったでしょ。
だから私だって二人きりの時は、帝室の仮面はもう着けないって決めたのよ」
「うぐっ。つまり、本気で憤慨されているということですね……」
「そうよ。まさか、あの感動的な誓いの直後に……」
歩みを止めることなく振り返ると、荷物まみれの従者がいた。
「クラリヴァント家の全財産……私たちが玉座を買うための軍資金が入った鞄をまるごと忘れて、またあの惨劇の山道を登り直す羽目になるだなんてね」
あの時、どうりで足音が軽いと思った。とはいえ、こちらにも非があるので責めにくく、ただ苛立つこととなった。
では少し趣向を変えよう。
「まぁいいわ。私だって気付かなかったのだから、自業自得よね。そんなことよりも聞きたいことがあるのよ」
「おぉ。許して下さるのですね、ありがとうございます。それで、どういったご用件でしょうか?」
そんなの決まっている。大きな失言のせいでうやむやになったが、まだ未解決である黄金の謎だ。
「どうして助けに来るのに、あんなに時間がかかったの? 殺されちゃうかと思ったわ」
「ふむ……」
いいところを突けたようだ。言い訳を聞こうではないか。
ここは今から、簡易的な軍事法廷だ。被告人の発言を許可する。
「それは戦略として答えれば良いのでしょうか。それとも戦術としてでしょうか」
「えっ? どういうこと? 任せるわよ」
なんだろう、どうぞ。
「ではまずは戦略から。
ブランシュ様が反対側に跳んだことで見事に挟撃することができましたが、自分の殲滅力が及ばず、危険な目に遭わせてしまいました」
分かっているではないか。さすが祖父から戦闘を叩き込まれた男。対多数戦も当然に想定できているようだ。
「やっぱりそうよね? 私、凄く頑張ったのよ!
あなたにはこれからはもっともっと、お祖父様よりも強くなってもらわないと――」
「戦術の観点から見ますと……」
なんだ、戦術だと。戦術は確か、大跳躍したあと――
「ブランシュ様が後方跳びを繰り返されたことで戦線が延びてしまい、せっかく挟んだ敵を圧縮殲滅できませんでした。
結果として、自分は逃げ惑う敵を一人ずつ全力疾走で斬り捨てながら進む羽目になり、到着が遅れたのです」
「……あっ……」
しまった、そうだった。二人の動きがまったく噛み合っていない。
シリルの長剣がいかに巨大でも、これではまとめて斬ることができない。遅れて当然だ。
まずい。なにか、なんでもいいから効果的な反論ができる言い訳を考えねば。主人の威厳を保たねば――。
「それでも、この騎士の力を信じて頂けたことは誇りに思っております。次こそは必ず守り抜いてみせましょう!」
あぁ。そんなことをせずとも、彼の方から進んで、主人の顔を立ててくれた。
この一年間悩み続けていたことが、嘘みたいだ。被告人、無罪。
従者はこちらを追い抜き、前を歩き始める。
これからはこの明るいもう一つの太陽を、もっと頼っていいのだ。彼の背中に情けなく隠れても、見捨てられることに怯えなくてもいい。
あぁ、あの時本音を言ってよかった。けれども、こんなに小さくともその器だけは、ワイン樽のように大きいことだけは示さなければ。
「よ、よろしくね。それと、その……重い物を持ってくれるあなたのお陰でこうして旅に出られた。とても頼もしいわ、ありがとう」
「光栄の極みです。お気になさらずとも問題ありません。
しかし、街道に出たことで人の往来が増えてきました、お気を付けください」
それはその通りだ。雑談はそろそろ終わりにしよう。形勢もずいぶんと不利であったし、ちょうどいい。
「そうね。私が都度、善人か悪人かをハンドサインで示すから、警戒態勢に入るかはそれで判断してね」
「御意に」
この右眼に宿るクラリヴァントの魔眼があれば、善人か悪人かを看破できる。
シリルの心は純白の己とはまた違うが、その忠誠色に染まった心は尊い。
レ・アルから南の帝都へ向かう馬車に乗っている者は、多くが一目で分かるほど悪人寄りだった。彼がいなければどうなっていたかを考えると、感謝しかない。
やはり帝都は腐っている。一体どういう状況なのだろうか。
そんな折、前方を歩くシリルが急に振り返り、険しい顔つきで声を掛けてくる。
「ブランシュ様、後ろから迫って来るあの馬車を見て頂けますか」
なんだろう。確かに、音が大きくなってきた。
「んっ。あれは……難しいわね……」
帝都方面から来るのは、彫刻や金箔で装飾された実に豪華な馬車であった。
馬は、けたたましくいなないている。手綱を握る中年の御者は、鞭を打ち続けており、前しか見ていない。感情の色は灰色、恐怖だ。つまり何かから逃げているらしい。
車内からも二人分の灰色が漏れており、これは嫌な予感がする。
「難しい、ですと? 自分はどうすればよいでしょうか」
簡単だ。最悪、剣の鞘を見せつければいい。
「関わると碌なことにならなさそうだわ、無視よ。もしも声を掛けられたら、冷たい人間のフリをして迷惑そうに追い払――」
そう言い捨てて視線を切ろうとした瞬間、激しく上下に揺れる馬車の窓から外を覗き見ていた人物と、ふいに目が合ってしまった。がたつく窓枠の音と共に、幼くも透き通った声が響き渡った。
『お父さま! 馬車を止めて差し上げてっ!』
まずい。己よりも年下だ。しかも、差し上げて、だと。これは口が立ちそうだ。手ごわいだろう。いざとなったら短剣を見せつけてでも――
轟音を立てて止まった馬車の中から、土煙に咳き込みながら少女がこちらへ向かって走ってくる。
「シリル……やっぱりさっきのやりとり、全部忘れてちょうだい」
その幼い足取りを見てしまい、途端に胸が苦しくなる。助けになりたいが、今の己らに余力は無い。やんわりとお帰り願おう。
「……御意」
後ろのシリルがため息をついた。
「たっ……旅の、お方……?」
波打つ黒茶色の髪が、荒い呼吸に合わせて上下する。
やがて息が落ち着いたのか、髪の色を映したような透き通る黒茶の瞳が、こちらの翡翠眼を真っ直ぐに射抜いてきた。
間違いない、かなり高位の貴族令嬢だ。
彼に荷物を持たせているとはいえ、自身と変わらぬ背丈の女を娘などではなく主人であると、馬車の中で目が合ったあの一瞬で見抜いたのだ。なんという観察眼なのだろう。
「馬車も無しにこんなところを、護衛も雇わずたった二人で出歩くだなんて、危険ですわ!」
灰色の恐怖・諦念を纏う少女は、嘘を示す透き通る緑色のもやをも出し始める。さて、どの言葉に対する嘘だろう。
「心配してくれるの? ありがとね。お互いに気をつけましょ?」
「あ、あのっ……この馬車は四人乗りなんですの! あと二席分、空きがございますわ。ですから……!
よろしければレ・アルまでご一緒しませんこと? お急ぎでなければ、時間はたっぷりありますわ!」
あんな速度で駆けていた馬車に、誰が乗るというのだ。
どれほど寛大な心を持っていれば、高位の貴族令嬢がそこらを歩いている人間を自らの馬車に乗せるのだ、しかも親の許可も得ずに。
この少女は何者なのか。危険すぎる。やわらかく見捨てよう。
「馬車に乗せてくれるの? とても嬉しい提案ね。でもあなた達は急いでいるみたいだし、馬もきっと疲れてる。
お邪魔になっちゃうわ。あなたのお父様も許してはくれ……な……」
緑色の霧がさらに濃くなる中、黒茶の瞳に涙が溜まっていく。やめてくれ。
こちらだって、未明に死にかけたばかりなのだ。彼に助けてもらえなかったら、今頃――
「……」
「お姉さまと、お兄さまのお話も聞いてみたいから、だ、だからっ……その……」
なんのために屋敷を出たのだ。誰を助けたくて、帝冠を獲りに行くのだ。
たった一人の幼い少女も救えず、純白の帝王を名乗れるとでも思っているのか。
玉座に座った時、己は胸を張って民に誇れるのか。
――そのようなこと、できうるはずがない。
「……日焼け、嫌なのよねぇ……」
ひりつくような日差しが、急につらくなってきましたわ。
あぁ、脚も鉛のように重たいですの。それになんだか北風も寒くって仕方ありませんこと。
このままでは己は、風邪を引いてしまいますわ。
「えっ? ……そ、そうですわ! こんなにお日様が元気ですと、お姉さまのせっかくの真っ白なお肌が、あたくしの髪みたいに黒くなっちゃいますわ!」
黒茶髪の少女はひどく怯えたように、首元に掛けられた薔薇の花弁を飾る紫檀で作られた木箱を手で覆うと、灰色の感情は少しずつ減っていく。
己の魔眼には透視といった手品のような力は無いのだが、魔力となると話は別だ。
木箱の中には、《兵器級の高純度魔石》が――いや、気のせいか。疲れているのかもしれない。
「あら、あなたの髪は知的な印象でとても素敵だわ。でも、本当に困ったわね。
私のこの白い髪、素肌以上に日差しに弱いのよ……。それじゃあ、お言葉に甘えてもいいかしら?」
とんでもなく疲れている時に、たまたま豪華すぎる馬車が止まってくれて、とてつもなく優しい少女が親に相談もせず、無償で目的地まで乗せてくれると言っているのだ。
これを無碍にするなんて己にはとてもできない。今すぐ乗ろう。
「もちろんですわ! 大きなお荷物は馬車の上へどうぞ。お兄さまも、それでよろしいですよね?」
「あ、あぁ……」
シリルは動かない。彼の主人として、ハンドサインを出した。
《進め》、その途端。魔眼の視界で少女が灰色を吹き飛ばし、橙色に覆われた。勝利と安どが美しい。
この子の力になれただろうか。いや、まだ何も解決していない。
手綱を握る御者は、父親なのだろうか。では車内にいるのは、母親ということか。
巨漢の男が今から乗車するのだが、娘の危険すぎる行いをただ受け入れるなんて異常だ。
この少女こそが、馬車の主なのではないだろうか。だとすれば、この子は何から逃げているのか。
「……本当に、よいのですね?」
荷物を載せ終え、車内を改めたシリルが確認してくる。
「えぇ」
どうであれ、もう決めたのだ。この少女を助けると。レ・アルへ行く旅路のついでだ。幼い命を拾っていこう。それに――
歩き疲れたというのは、半分本当だ。




