四章 主神の兜 Ch4. Le Casque de Jupiter
安全であることを従者のシリルが確認してくれた豪華な馬車に、主人であるブランシュも乗車した。
車内は充分広く、妙な木箱を提げる少女の言う通り、余裕があった。
無敵と信じる彼の隣に座ると、幼い少女は間髪入れずに、外で馬の手綱を握る者へ開かれた窓から声を飛ばす。
「お父さま! 旅を楽しみたいの。常歩でお願いしますわ!」
「はい」
馬車が動き出す。それまでとは比べ物にならない、遅い速度で。
それにしても、はい、とは。幼い娘に命令されて〝はい〟と答える父親が、この世にいるものか。まず叱り飛ばせ。
もしくはチケット代を返せ、この棒読み演者め。
「拾ってくれてありがとね? 私はブランシュ・ドゥ・ヴェスパー、南大地出身の女男爵よ。
隣の彼はシリルと呼んでちょうだい」
《黄昏》、それがこの帝冠を奪い返す旅で共にする、偽名だ。
こちらは事前に決めていたが、女男爵はたった今考えた。
爵位最底辺の男爵ならば、平民にも高貴な者にもすり合わせがしやすい。
しかしこの子のドレス、気品は感じるが緑青色とはこれまた、なんという色をしているのだ。
さっきは日差しが降り注ぐ炎天下だったので嘘の緑色を見抜けたが、暗い場所や夜中だとかなり厳しそうだ。
「まぁ! お姉さまとお兄さまから、もの凄いオーラを感じたのでついお話をしたくなって、馬車を止めたのですけれど……。
あの、もしかしていわゆる、実力で爵位を勝ち取った、というやつですの……?」
上手な言い回しをする。知識も正確だ。
男爵は稀に、騎士の中から優秀な者が繰り上げされることがあるのだ。
他にも金貨で買うこともでき、そのため男爵は元平民も多い。この子の家は、優秀な家庭教師を雇えるほどの身分か。
「ふふっ、成り上がりといっても構わないわよ。今は見聞を広めるために、世界中を旅しているところなの」
「か、かっこいいですわ! もしもあたくしが殿方だったら、惚れてしまっています!」
それはそうだろう。まぁ、残念ながらうまくいっていない、のだが。現在進行形で。
「……お兄さまはどのようなご身分をしていらっしゃるのですか?」
なんだ、自分は名乗らないのか。なぜだろう、いくら家系が高貴でも、この子は娘令嬢に過ぎない。さすがに失礼なのでは――いや待て。
いつの間にか偽りの緑が消えて、歓喜の黄金色に輝いている。無邪気に楽しんでいる場合か、状況を思い出せ、あなたは追われているのだ。
でも、ちょっと可愛いかも。
しかし、この緑青ドレスは本当に虚言を見抜きにくい。嘘の緑が光っているように見えた。苦手だ。
「自分は忠実な番犬のようなものです。どうぞ《お三方》ともお気になさらず、会話に優雅な花を咲かせてください。決して口外しないと騎士としてお誓い致します」
シリルは《三名》という良い言葉を使った。あとで少女の隣にいる、灰を被った母親に家の爵位を尋ねるとしよう。
本当に母なのかは知らないが。
彼はどんな内容をこの少女から引き出すだろう。お手並み拝見といこうか。
「……番犬? 騎士? ということは……護衛? 血の繋がってない男女で二人旅ですの……?」
おっと。でもいいぞ。さぁ騎士よ、どう答える。
「む? 自分は一介の従者に過ぎません。ヴェスパー様の身の安全を確保することが役目です」
む、って。ほんの少しだけ、わずかばかり傷ついた。む、とはなんだ。む、とは。む、以外に選択肢はなかったのか。
「えー? 従者ぁ……? それって……なーんか、怪しいですの……。ほんとは内緒で――」
おい。
「んんっ、こほんっ」
どうやらこの、鳥兜があしらわれたドレスを纏う少女は、かなり手練れのようだ。シリルでは相手にならないだろう。
ここはひとつ、主人が人心掌握術のお手本というものを、見せてやろうではないか。
「あの、お名前を伺ってもよろしいかしら? きっとお二方とも、とても高貴な身分の方とお見受けするのだけれど――」
少女の隣で、ただ口を結ぶ母親に声をかける。あるいは、母親を装う女、と言うべきか。そのひびだらけの仮面を今剝がしてやる――
「あたくしはマデリアって言いますわ! ブランシュお姉ちゃん‼」
なんだ。今、なんと言った。
「……え……?」
お姉ちゃん。そう言ったのか。
お姉ちゃん、第八八代クラリヴァント家当主にして、お姉ちゃん、唯一神の子孫であるこの、お姉ちゃん、ブランシュ・クラリヴァントを、お姉ちゃん、と言ったのか。
お姉ちゃん、だと。
「おっ……お姉ちゃん、ですってぇ……⁉」
お姉ちゃん。
あぁ、なんて、なんて甘美な響きの言葉を弄するのでしょう、この子は。
大人をもてあそぶだなんて、いけない子ですね。
あぁ、こんな可愛らしい子を追いかける不届きものがいるだなんて、わらわは決して許せない。
なんとしてもこの子を救わなければなりません。たとえどんな犠牲を払っても。
「さ、さすがに馴れ馴れしかったでしょうか……?」
「ま、まさか! ぜひこれからも呼んでちょうだい、大歓迎よ!」
何を言う。わらわは千年前から汝のお姉ちゃんであるぞ。
神話のお伽噺にもそう書いてある、たぶん。
唯一神の子孫として、異論は認めない。
とにもかくにも、まずは信頼を手に入れなければ。今この子に必要なのは、生き延びるための知識だ。
「マデリアも大変なのね、家名は言わなくていいわ。レ・アルは帝国領内都市で唯一の自治政府が管轄する都市国家だから、隠れるにはうってつけよ? 必ずあなた達を受け入れてくれる。でも慎重に行動するのよ、いいわね?」
「うっうん。ありがとう、お姉ちゃん」
「いいのよ。路銀はちゃんとある? 護衛がいないようだから、宿屋は傭兵ギルドの近くにしなさいな。治安は悪くないし、最悪銀貨を持って駆け込めば、その場で即契約して追い払ってくれるわ。お金の都市だから傭兵の命すらも銀貨一枚から買えるわよ? 数十分くらいの短い契約になっちゃうけどね、便利でしょ?」
「す、すごい知識ですわ……! お姉ちゃんの知識をもっと聞きたいですの!」
「もちろんよっ! じゃあね――」
あぁ、なんて素直ないい子なの。なんでも聞きなさい。知っていることをすべて話します。聞いてこなくても構いません、あなたが生き延びるのに必要な知識を、好きなだけ喋ります。その緑青色のドレスは本当に綺麗ね。お姉ちゃんの右眼には、あなたが喋る度に馬車の外まで襞が広がっているように見えるわ。どういう原理なのかまったく分からないのだけれど、右眼にだけそんなふうに見えるわ。ところでその首に提げている木箱はなんなのかしら。右眼にはなんだか仄かに光っているように見えるし、もしも取り扱いを間違えたら大爆発を起こしてしまう兵器な予感がするのだけれど、多分お姉ちゃんの気のせいよね。そんな危ない代物を、こんなに可愛いマデリアが持っているはずないわ。隣にいる女が誰なのかは知らないけれど、一言も喋らないから正直もうどうでもいいわ。何の役にも立たないのだから、そのまま黙っててちょうだいな、張り子人形さん。
あぁ、愛らしい、愛おしい、可愛らしい。お姉ちゃんだけの、マデリア。
そんな折、本当の姉妹と言われても誰も疑わないであろうほどに仲良く見える二人へ、窓の外を眺めていた巨漢の男が割り込んだ。
「我が主。騎馬兵が五騎、襲歩……全速力で迫ってきています。間違いなくこの馬車が狙いかと」
ついに来たか。やるしかない。
「……そう。マデリア。短い間だったけれど、とても楽しかったわ。ここまで乗せてくれてありがとね」
駆け引きを行う。どんな反応を示すだろうか。
すると、鳥兜の少女はすぐに顔面を蒼白へと変化させた。魔眼に映る視界も灰色に覆われきり、嵐のように心が波打つ。
「あっ……待って、待ってっ! き、きっと何かの間違い、誤解なんですっ! 話し合えばきっと彼らも分かってくれますっ! だ、だから……」
「……話し合い、ね」
その話し合いができない相手が、この世には、いるのだ。今日シリルと共に一人残らず斬り捨てて、押し通ったように。
父親と思われる御者は、馬を走らせる以上のことはしない。
母親と思われる女に至っては、この期に及んでも何もしない。二人とも、ただの雇われであろう。
仕方ない、か。今すぐ馬車を止めてマデリアを差し出さないだけ、まだ勇気があるというものだ。
己にはシリルがいるが、この少女にはもう、味方が誰一人として残っていない。恐らく全員、息絶えたのだろう。
では、寄り添ってやろうではないか、この嘘つき女王が。見てろよ、観客ども。嘘を誠に変えてやる。
――奇跡とは願うものではない。死地に飛び込んで、自らの手で掴み取るものなのだ。
「シリル、荷物を持って先に降りてちょうだい。私はまだ彼女と話さなきゃいけないことがあるの」
「御意に」
「待って、どうか……待って……あたくしを……っ……」
シリルは馬車から降りていった。緑青色のドレスを纏う少女は、ただ項垂れている。
やはり、自分と変わらぬ背丈の女には何も期待していなかったようだ。
素晴らしい観察眼だ。実のところ、正解なのだから。
「マデリア。あなたの本名と爵位、それとその木箱の名称を言いなさい」
素直に教えてくれるだろうか。これらが無いとまともに交渉ができな――
「……もうよいです。たかが女男爵如きにしては……死を振り撒く鳥兜に近づく勇気、そして引き際の見極め、見事でしたよ。
さすが、盗賊が蔓延る帝国領内を道楽で渡り歩くだけはありますね」
思わず後ずさりしそうになる。なんという気迫だ。どうやら本物の高位貴族令嬢だったらしい。
とはいえ、ところどころその生まれながらの尊大さを、隠しきれていなかったが。
「もう諦めるというの? あなたにはまだ《兵器級の魔石爆弾》なんて物騒な、最後の切り札が残されているじゃない」
時間が無い。一気に勝負を畳みかけた。
「これは構造が複雑なので狙って起爆などできませんよ。見た目もただの豪華な箱でしょう?
第一、こんな子供の脅しなど誰が真に……受け……」
もう気付いたか。やはり聡い。この子を死なせるわけにはいかない。
「……えっ? どうして中に魔石が入っていると……しかも性能まで? あたくし、そんなこと言ってないはず……?」
木箱の中身を透視され呆然とする彼女へ、そっと寄り添う。
《冷酷すぎる嘘》をやさしく耳打ちした。そのまま玲瓏たる翡翠眼で、黒茶の双眸が秘める最奥を真っ直ぐに射抜いた。
マデリアは驚愕の表情を浮かべると、灰色の感情は消し飛び、安どの橙色と歓喜の黄金色が広がっていく。いい色だ、美しい。
「さぁ、私を信じて。本当に死にたくないなら早く言いなさい。シリルと合流できなくなる」
「あの、で、でもっ! ……それでは、貴女様が……」
マデリアは首から提げる木箱を、外そうとし始める。ふざけるな。己が欲しいのはそんな小さきものなどではない。
「言いなさい! 子供の未来を守ることこそ、大人の宿命なのよ!」
そう叫ぶと、隣に座る淑女の肩が大きく跳ね、視界の端で、手綱を握る紳士の感情が激しく波打つ。
レ・アルに着くまででいい、その下手な芝居を続けていろ。いないよりはましだ。
「……レクラン伯爵家現当主、マデリア・ドゥ・レクラン……。この木箱の中身は……《エニグモール》といいます……」
もしや公爵家かと思ったが違うのか。思ったより――待て。現当主、だと。既に継承済みなのか。
意味が分からないが、飲み込むしかない。本当に限界だ。
「女伯爵ということね……。マデリア、レ・アルで必ず再会しましょ? 御者! 全速力!」
馬車が急激に速度を上げ始めた。あとは任せたぞ、引き立て役たち。
扉から外へと飛び出し、ステップを繰り返して地面へとなじませる。急げ。シリルは強いが情報を持っていない。そして考えるのは主人の仕事だ。
「死なないでぇ、お姉ちゃんっ! 騙そうとしてごめんなさい……」
馬の嘶きと車輪の轟音が街道を蹴りたてる中、泣き叫ぶような声が背中に投げかけられる。
仕方のない子だ。子供は自分の心配だけしていなさい。いい子すぎて、次に会ったらお仕置きがいりそうだ。
頭を撫で回して、黒茶の髪をくしゃくしゃにしてやる。
彼の背中へ張り付く。従者は長剣を水平に構え、騎馬兵らを威圧しているようだ。間に合った。広い背中から覗き込む。
戦闘が始まっていないのはいいことだが、なんということだ。赤金色に輝くオリハルコン合金の軽量盾と、同じく切っ先鋭いオリハルコンランス。この者らは――
疑うべくもない。本物のランス帝国騎士団、精鋭騎馬兵隊ではないか。マデリアは、彼らに追われているというのか。これでは己と同じで、国家そのものと敵対したということではないか。
あの子は、レクラン伯爵家は一体、何をしたのだ。




