二章 嘆きの帝国 Ch2. L'Empire de Souffrance
月が天上を過ぎ、傾きかけた頃合い。
北風と雨脚、何よりも帝国の迫害から長年にわたって守ってくれた屋敷。
その堂々たる正門を閉じた時、あるいはもう錠前をかけなかった、というべきか。
ブランシュ・クラリヴァントは従者のシリルへ振り返った。
「最後になるから、お祖父様へ出立の報告と祈りを捧げましょう?
ランタンを貸してちょうだい」
最後の駄目押しと言わんばかりの、思い付きの行動だ。
彼がどんな反応をするか楽しみだったが、その表情はやわらかなものだった。
「ありがとうございます。ぜひご一緒させて下さい。
先代より託されたこの形見に懸けて、何があろうとお嬢様をお守り通すと、改めて誓わねばなりませんから」
どうやら思いが伝わったらしかった。
シリルは空いた右手で、長剣を抜き放った。
柄を含めれば、主人の身長に匹敵する業物だ。
彼がこれを贈られた時、てっきり壁に飾る置物だと思ったものだ。
それを軽々と振り回す従者は、祖父が亡くなった今、人類最強の剣士に違いない。恐ろしさと頼もしさの、両方を感じた。
先代当主である己の祖父は、墓に眠っている。去年、安らかな表情を看取った。
シリルは剣を掲げて実に勇ましく祈っていた。彼の剣を信じよう。きっと守り抜いてくれる。
己も墓に手を合わせる。瞳を閉じて、優しかった祖父と向き合った。
最強の剣豪でありながら、祖父は一度も帝国への復讐などというものは語らなかった。
でも、この世界はあまりにも腐り落ちてしまった。誰かが血の代償を払い、正さなければならない。
たとえ向かう先が地獄だったとしても、帝冠が欲しいのだ。
だから、ごめんなさい、お祖父様。そう、詫びた。
「……さぁ、行きましょ」
緊張が震えとして声に出てしまったかもしれない。気づかれていないといいのだが。
「御意に。ランタンをこちらへ。……ありがとうございました」
シリルが前を行く。
このまま彼についていくだけでは、何も変わらない。主人として役に立たねば。
「ねぇシリル。あの賊達との距離がどれくらいになったら、伝えればいいの?」
そんな質問を渡す。戦闘が彼任せになるのは避けられない。なので別の視点で存在感を示す。
「そうですね。自分も既に粘りつくような殺気をはるか遠くに感じますが……一キロメートルと百メートル、二段階で教えて頂ければ有難いです」
その程度のこと、たやすいことであった。
それよりも、より具体的な戦い方について話し合いたいのだ。
「分かったわ。あなたの指示に従うから、何でも聞いてちょうだいね? 他には――」
「御意」
「……んっ……」
さえぎられるのはもう三度目だ。少々慣れた。
彼の言いたいことは単純明快だった。もう何もしなくていい、そういうことだ。
突如、右眼の視界でシリルの背中が光りだす。橙色だ。
恐らく、指示に従うと言ったからだろう。
振り回したことなら何千回とあるが、あんなことを彼に言ったのは初めてだ。きっと驚いているのだろう。
橙色は、安堵、喜び、そして勝利への確信。
熟した柑橘色のように温かい感情に、こちらまで癒される。大好きな色だ。
己の右眼に宿る《クラリヴァントの魔眼》は、一族に稀に発現する力だ。
他人の心と思考を色として、暴くことができる。
シリルの背中から広がる歓喜の色は、美しい。
これからしようとしていることを思うと、胸が苦しくなってしまうが。
「シリル、あと一キロメートルくらいよ。数はやっぱり、確実に三十人だと思う」
半分嘘をついた。それによって何が起こるかは、覚悟の上だ。
「一キロメートル、でございますか……? 御意に。
もっと近くに濁るような気配を感じるのですが……自分もまだまだ、ということか……?
人数は同感です。では、さらに距離を詰めましょう」
深い森に差し込む月明かりをさえぎるように、粘りつくどす黒いもやが立ち昇る。
魔眼の視界はその黒き巨大な入道雲に、既に覆いつくされていた。
やがて、その時がやってきた。やってきてしまった。
シリルが立ち止まり、荷物を捨てて長剣を構える。
己も両太ももから双子短剣を取り出すも、手の震えは止まらなかった。
「野郎ども、起きやがれぇ! へへっ、ついに旦那様が現れなすったぞ!」
山道で待ち伏せしていた賊共だ。
挟み込むといった作戦を考える能すら無いらしい。けれども、それどころではなかった。
黒いもやの醜悪さは、思っていたよりもはるかに凶悪だったのだ。
「ぐぅっ……うぅ……!」
今にも吐きそうだ。こんな状態で武器を振るわなければならないのか。
「こっちは三十人だ! 武器を捨てなぁ! そうすりゃあ、命だけは助けてやらぁ」
何か言っているが、嘘の色が見える。話す価値が無い。
もとより、一人も逃がすつもりはない。これも世直しだ。
「……ガキを連れてるとはちょうどいい、幼い娘を殺されたくねえだろ? 言われたとおりに――」
「お、おい、ボス! よく見ろって! ガキなんかじゃねえ、ちゃんとした女だ! 貴族の女っぽいぞ⁉ しかも、とんでもねぇ美人だ! やった!」
甘かった。
シリルの言っていた人質の意味が、ちゃんと飲み込めた。
なぜ会わせたくすらなかったのかも。
「あぁ?…… おいおいまじかよ……! いや、興奮してんじゃねえよ馬鹿野郎! このデカブツの武器を捨てさせられなくなっちまっただろうがっ!」
「すっ、すいやせん!」
髪に触れられるどころではない。女としてのすべて、すべてを、奪うつもりだ。
分かっていたはずなのに、身体の震えが止まらない。
なんということだ。とても抑えられない。
「しっかし、でっけぇ剣だな……! こりゃ何人か死んじまうか……でもまぁ取り分も増えるし、もういいか! はははっ!」
シリルは激怒していた。
魔眼の視界に激情の深紅をマントのように羽織っている。
賊相手だけではない、距離を偽った主人に対しても怒っている。
こちらの足元にもはためいているのだ。今はただ、後悔しかない。
「最初の一人は早い者勝ちだ! ほら頑張れよっ、ははっ! そんで、その次は俺! あとは……いつも通り、死ぬまで好きにしていいぞ」
やはりシリルにすべて任せて、逃げればよかった。
右眼を守るために装着している片眼鏡を、強く押さえる。
数に物を言わせるだけの小物どもが、これほど恐ろしいとは思いもしなかった。
それでも、いつも通りという言葉に義憤が沸き上がる。戦慄いている不甲斐ない己の姿に対する、怒りも。
「……なんて……情けないのよ……!」
主人としての威厳を保ちたい。その威勢はどこへいった。
己が無敵と信じる従者が、負けるはずがない。必ず助けに来てくれる。決断の時だ。
「お許しください、遅れを取ってしまいました。お嬢様はお下がりを――」
――《己の命》を懸けた命令を彼に叩きつける。
「飛ばしてっシリル! 前方! 四、十五!」
「!」
シリルは主人が放ったその無謀な命令を聞き届けた。
「御意にっ!」
彼に向かって猛ダッシュを始める。
シリルは身体を沈めて《発射台》の態勢をつくり、そこに右足を踏み込んだ刹那――
華奢な主人を空中高くへと射出した。
「ふんっ‼」
ふわりと浮き上がる、圧倒的な加速と風圧。
月明かりの山道に、高さ四メートル、飛距離十五メートルに及ぶ放物線が描かれる。
その連携大跳躍によって、戦場を飛び越えた。驚く賊どもを見下ろす。
「んなぁっ⁉」
やってやった。チェックメイトだ。背後ではシリルが暴れる音が聞こえる。
なんて凄惨で、そして希望に満ちた音色であろうか。
重力に引かれ始める。ドレスをはためかせて、華麗な身のこなしで着地した。
駆け足ののちに振り返って、双子短剣を後ろ手に隠す。
この身を守ってくれる巨漢の盾は、もう近くにいない。やってやる。
己は未来の女帝なのだ。震える手で天秤に乗せた高貴な命で、勝利を手繰り寄せてやる。
――奇跡とは願うものではない、命を懸けて手に入れるものなのだ――
「ふうっ。こっちなら、少しはましな男がいたりするのかしら。
どうやらいつも通り、早い者勝ちらしいわよ?」
鏡の前で練習し続けた笑みを向ける。
冥途の土産だ、受け取れ。クイーンの魅力に酔いしれるがいい。
――盤面は、整った。
「へへへっ! 人生で最高の一日にしてやるよ、貴族の嬢ちゃん!」
それはこちらも同感だ。最後の一日にしてあげよう。
「へぇ? ありがと。でも私、受けた恩はちゃんと返す女なのよっ!」
右の魔眼で冷静に分析する。殺意は無い。
武器を収めた素手での突進。そして一人だけ。
捕まれば地獄だが――今は忘れろ。指を狙え。
バックステップをする。
伸ばしてきた汚れた指を、双子短剣で数本斬り飛ばしてやった。男の悲鳴が森を殴る。
ざまあみろ。今さら恐怖の色を出している。このままの勢いで――
すると、こちらを見る男達の感情が変化し始めた。
どす黒さは相変わらずだが、下心が減っていく。
代わりに恐怖と冷たい殺意が占めていった。殺意だと。嫌な予感がする。
「ちっ……」
賊どもは皆、武器を抜き始めた。黒薔薇を散らすことを、諦めたらしい。
錆びた剣が、むしろ恐ろしい。こちらが降伏することを期待しているようだ。
この人数の前では誰もが、生きたまま見逃してくれる奇跡を祈って、受け入れてしまうのだろう。
義憤が火山のように噴火するが、この人数相手に短剣で挑むなど無謀すぎる。
仕方、ない。あれをすることにしよう。
練習してきたとはいえ、まさか彼以外の相手に――いや、今は忘れろ。
こくびをかしげる。とぼけたように。
背筋を伸ばし、控えめな胸を張る。これは前座みたいなものだ、視線が集まらなくても気にするな。
そして己が誇る《最凶の切り札》は、これだ。
「あら、もう諦めちゃったの? 私、声にも自信あるのよ?
生きたままの方が、きっとお互いに楽しいと思うのだけれど……怖いなら仕方ないわねぇ。
それともあなた達は……これでもう一度やる気が出るのかしら? んっ……」
黒薔薇のアンティークドレスの裾をつかみ、大きく大きくたくしあげる。
見せつけるのは、真っ白な太ももの肌。
真夜中の深い森の中で見せつければ、眩しく輝いて見えるはずだ。今の彼らからすれば、どんな宝石よりも価値があるだろう。
さぁ、武器なんか収めて、素手で花弁を散らしに来い。切り刻んでやる。
「こっ、こんのクソガキャア……!」
「啼かせてやるよ……やってやらぁ……!」
うまくいった。魔眼の視界で冷酷な殺意が消え、汚れた下心がどろりと流れる。
おぞましいが、武器は仕舞わせた。これなら、いける。
「ふふっ、強い男は好きよ? ……まぁどうせ一騎打ちなんて男らしいこと、できないんでしょうけど、ねっ!」
近づかれる度に、バックステップを繰り返す。花をちぎろうとする手を時折、隙を突いて短剣で斬りつける。
綺麗な薔薇には棘があるなんて、誰でも知っている。触れさせなんてするものか。
襲ってきた四人の男達は武器を持てない身体になって、恐怖の色に染まりきった。もういいか。妖艶なクイーンは終わりだ。怖かった。
深呼吸して、凍える身体を抱きしめる。
恐ろしくてたまらなかったけど、なんとか生き延びた。
シリルは今、何人斬ったのだろうか。そろそろ合流――
「お前らぁ! 女とよろしくやってる場合かぁ⁉ 早くあの男を殺せ……な、なんだ、まさかこっちも化け物なのかぁ⁉」
「はぁっ、はぁっ……えっ?」
シリルじゃない。誰だ。少しまともな服装。まさか、頭目なのか。なぜだ。
「そんな……あなたはっ⁉ シ、シリルッ⁉ 早く終わらせ――」
「畜生がぁっ! 死ねぇ!」
嘘、でしょ。
「ひっ⁉」
すんでのところで、重々しいファルシオンの一撃を受け流す。
「おらおら! おうらぁっ!」
「あぅっ!…… うぅっ……!」
さらなる連撃。手首が折れそうだ。シリルはどこで何をしている。絶対に許さない。
「おっ、おぉっ⁉ こっ、この女も化け物かよっ⁉」
「くぅっ!…… ぐぅぅ……」
限界だ。腕が折れる。魔眼も役に立たない。なぜこんなことに。
「くそがぁぁっ! こんな化けもん共にっ! 手ぇ出すんじゃなかったぁ! うおらぁっ!」
「ひっ、ひぃっ‼ いやっ……! 死にたくないっ……!」
死にたくない。助けて。死にたくない。死にたくない。死にたくな――
右手の短剣が弾かれ、甲高い金属音が夜に落ちた。
「きゃあっ⁉」
「うらぁ! 死ねやぁ!」
「あっ――」
助けて、シリル――
「うおおおおおおおおおおぉぉ‼」
獅子のような咆哮を聞いた時。振り下ろされていたファルシオンが、横一閃に断ち切られた。
魔眼の視界が夕焼け色に染まり、思わず膝から崩れ落ちた。
「ご無事ですか、お嬢様!」
シリルが腰を支えてくれた。かつてないほどに近い。彼の顔を見た瞬間、血が沸騰した。
「はっ……! はぁっ、はぁっ……! お……遅いっ! 遅すぎるわ!」
どこで何をしていたのだ、この男は。
「は、はいっ! 申し訳ございません!」
華麗に戦った。完璧な戦術だった。それが全部、崩壊した。なぜだ、答えろ。
「あ……あなたを騙したし、跳躍も命令した……! でも、人質に取られたりしていないから、あなたの戦いの邪魔、してないわよねっ⁉」
「はい……。お嬢様の仰る通り、全く邪魔などではありませんでした。
それどころか、あの鮮やかな跳躍によって敵を挟み撃つ形となり、戦況を極めて有利に運ぶことができました……」
なんだ。では何が原因なのだ。そもそも頭目を逃がしたのが始まりで、そうなるとやはり――
「自分で立てた策に自ら溺れた、自業自得なのも分かってる……! でも、どうして頭目を取り逃がしたのっ⁉
お陰で最後の帝室末裔であるこの私が、命を落とすところだったのよ⁉ あなたって本当は弱いのね!」
しまった。またやらかした。
「むう……あの男は臆病者で、最初から傍観に徹していまして……しかしこれらは言い訳に過ぎません。
高貴な帝室出身であるお嬢様の身体を危険に晒したことは、一生の不覚でございます」
「あっ……! ち、ちがっ……!」
もう何度目か分からない、心臓が締め付けられるこの感覚。
このままでは没落して滅亡しかけている、クラリヴァント家というひっくり返した袋の中の、端っこの方に最後に残った、たった一人の理解者を失ってしまう。
「はぁ……」
もう、やめよう。言おう。言うのだ、本音を。
捨てられたくない。怖い。でも、もう帝室の仮面を外そう。乙女の弱さを見せるのだ。
「本当は、こんなのじゃなくて……あなたが私を責められるような、叱ることができる状況を作りたかったのよ……」
「自分がお嬢様を……責めるですと? 恐れながらそのような非礼なこと、とてもではございませんが――」
目の前にいるのに、彼の心は一歩、大きく後ずさろうとした。
それを視認し、すかさず言葉を放った。
「それ。もうやめてちょうだい……」
「む……それ……で、ございますか」
シリルの感情が一瞬、希望の灯台のように明るくなった。ここだ。
この場所に、私達が降り立つべき島があるはずだ。
「お祖父様が去年亡くなって、私はそれから帝位を目指し始めたじゃない?
私が皇帝なんて壮大すぎるドレスを纏い始めたら、あなたは合わせるように、平民の鎧を着こなした……そしてそんな素振り今まで見せたこともなかったのに、急に身分の差を気にし出したりして……」
「うっ……しかしながら、スラムで泥水を啜っていた孤児の自分と、帝室の血を引く高貴なお方……さらには、先代やお父上であられる八七代目ですらお持ちでなかった、世界を見通す魔眼を持っていらっしゃるお嬢様の隣に立つなど、到底……」
「だからそれなのよ。赤子の時から二十年も育ててくれたじゃない?
物心ついたあの頃だなんて我儘はさすがに言わないわ。せめて……せめて、帝位を目指す前、一年前くらいのあなたに戻ってよ……」
「むむ……そう申されましても簡単に割り切れるものでは……なにせよりによって皇帝ですから……」
足りなかった、当然だ。平民と、女帝を目指す者だ。釣り合わない。
けれども、灯台の輝きは黄金色も混じりだし、港はすぐ近くまで迫っている。
「ねぇ……シリル。あなた、一日だけ延期して私が寝静まっている間に、この賊達を一人で倒そうとしていたじゃない?」
「そう……ですね。お嬢様にいとも容易く、見抜かれてしまいましたが」
「主人として納得いかなかったけれど……温かくて優しい気持ちは、とても嬉しかったわ。
……もちろん、従者としては明らかに命令違反だとも思うけどね?」
「うぐぅ」
「だから……私も主人として少しだけ、異端の道を歩むわね。
……二人きりの時だけでいいから、身分の差は忘れてちょうだいな」
「なん、ですと……? それは無理な相談でござい……ま……」
いいだろう。そんなに見たいなら、見せてやる。
舞台上では華麗に舞い踊って、ソプラノの調べを奏で、観客から万雷の拍手を一身に浴びる美しい主演女優が、控室でただ一人の男に縋りつく、情けない等身大の姿ってやつを。
右目に装着しているモノクルに、震える手を伸ばす。その〝魔眼の代償をやわらげてくれる遺物〟を外した時。
《スフランス帝国》の異名を持つほど闇のもやに溢れたランス帝国全土から、見知らぬ他者の怨嗟、絶望、そして飢えの苦しみが、網膜を押し通る黒い土石流となって遺物を外した魔眼に雪崩れ込み、己の脳髄を激烈に焼き焦がす。
鼓膜を破りかねない勢いで、無数の悲鳴が幻聴として脳内に直接囁かれる。
あぁ、痛い。つらい。苦しい。怖い。恐ろしい。
これが、仮面を外した私の醜い真の姿だ。
彼は果たして、受け入れてくれるだろうか。
シリルは目を見開き、ぽかんと口を開いた。そのまましばらく見つめあう。
しばし呆然としたのち、勢いよく首を横に振った。そして大口を開けたまま、身振り手振りでモノクルを再装着するよう示してくる。
なんだ、その顔は。そこはもっと、こう。なんというか、あぁもう。
「そんな簡単に死なないわよ……過保護ね、ほんと。シリル、あのね……」
ええい、全部言えばいいんだろう、言ってやる、言ってやるとも。
脚本なんて知ったことか。もうどうにでもなれ。
「もう……もうこれ以上、他人のフリをしないで……! 私を……! 一人きりにしないでぇ……‼」
「‼」
「皇帝を演じ切り、世界を騙し通してみせるだなんて馬鹿げたことを決断したのは……あなたが最後まで隣にいてくれるって、勝手に勘違いしちゃったからなのよ……!」
「……」
「必ず一緒に帝国と戦ってくれると信じて、なんの相談もせずに決めたら……あなたは、少しずつ距離を……!
そうしたら、もっと強くならなきゃ見限られるって、怖くなって……!
こんな、こんな無謀なことまでしちゃって……! 愚かだったわ、私……!」
「……」
「この賊達は幸いにも……私を迫害するランス帝国の執政官らとは、何も関係が無かった。だから、今ならまだ引き返せるの。
あなたと他人になるくらいなら、私……帝位請求権なんかいらな――」
「ブランシュ様‼」
――あぁ、彼が昔に戻ってくれた。
まだ彼のことを〝にいさま〟と呼んで慕っていた幼い頃の、懐かしい呼ばれ方。
一年前どころか、十年以上も前に、戻ってくれたのだ。
「決して勘違いなどではございません。この命が尽きるその時まで、決してお傍を離れないことを、自分は何度もお誓いしてきました」
「シリル……」
「しかしながら……」
なんだろう。黄金の瞳を覗き込む。
膝をついてくれているのに、私達の視線は水平だ。
「去年、皇帝などという、恐ろしい響きの言葉を聞いた時……即位された暁には、平民に過ぎない自分は捨てられるのではないか、その様に考えてしまい……。
違う世界に住まわれるお方なのだと、割り切るようになってしまったのです」
「そう、なのね……ありがとう、あなたの本音を聞かせてくれて。
じゃあ一旦屋敷に戻って、たくさん……それこそ、朝まで話し合いましょ?
この骸達は数が多すぎるから、夜が明けてからゆっくり片付ければいいわ」
元に戻ることができたが、これからどうしようか。旅は一旦、お預けだ。
そうなると、別の人生も悪くない。この際もう一つの本音も、勢いで言ってしまおうか。
「いいえ、その必要はありません。亡骸は自然の成り行きに任せましょう、もうここには戻りませんから」
「えっ……?」
なんだ。心の声を覗かれたのか。いや、戻る必要はない、だと。まさか。
「それって……じゃあ!」
「はい、ブランシュ様。この騎士シリルが、貴女様を皇帝にして差し上げます。
ランス帝国の頂点に君臨し、世を正す。世界で一番優しい為政者です」
盤上のポーンがナイトに成ってくれた。魔眼の視界に、彼の背後から太陽のごとき明るい感情が昇り始める。
闇のもやが打ち払われ、頭痛は安らかに静まっていった。思わず笑みが零れ、ゆっくりとモノクルを装着した。
「ありがとう……最後まで一緒よ? 私のこと、絶対に見捨てないでね。お願いよ?」
旅に出られるのは嬉しいが、もう一つの緩やかな甘い人生も諦めたくはない。
己は彼を昔のように、〝にいさま〟と呼びたいわけではないのだ。念押しをしておく。逃げられないように。
「もちろんです。ブランシュ様こそ、突然解雇したりなどしないで下さいよ」
「ふふっ、決まりね? ……じゃあ行きましょ。
私達の最初の目的地、交易都市レ・アルへ。金貨さえあれば、買えないものは何も無いわ。
帝国領内都市で最も自由な、最高で、そして最悪の都市よ!」
旅路の再開だ。東から昇る朝日が眩しい。一本道を再び歩き始める。
「御意に。もちろん《帝位請求権》も売っているのですよね? 自分も一つ欲しいです、ブランシュ様の隣に居続けるために」
なんだ。買えるわけがないだろう。クーデターでもするつもりなのか。
というかそんなに欲しいなら――いや、いい加減その話からは離れよう。顔が火照ってきた。このままではバレかねない。
「んむぅ……」
頬を膨らませ、怒っているフリをして誤魔化す。主演女優の演技を舐めるなよ。
大股でドレスを蹴って歩くも、なんなくついてくる彼の軽い足音がする。
相変わらず体格が違いすぎる。己ももう少しだけ背丈が欲しかった。少しの苛立ちも込めて叫ぶ。
「そんなもの、買えるわけないじゃない! でもいいのよ。
私、ランス帝国の女帝になった瞬間に帝冠を投げ捨てて! そのまま退位までしちゃって!
スフランス帝国なんかぶっ壊しちゃうからっ‼」
「な、なんですとっ⁉ また嘘をついたというのですか? 今日だけで、片手に収まらないではありませんか……」
片手程度で済んでいると思っているのか。これは、まだまだ嘘をついても大丈夫そうだ。
「えぇ、そうよ? 血塗られた玉座に座って、全てを冷酷に支配する絶対君主な皇帝になるだなんて……そんなの、世界を騙すための最高の嘘に決まってるじゃない!」
世界が求めているのは、魔力などという恐ろしい力を持つ暴君ではない。
魔眼で一人一人の感情を見通し、民の痛みに寄り添える、己のような純白の心を持つ――
――私はねっ! みんなに愛される、やさしいやさしい、女王様になるのよ!――
漆黒のアンティークドレスを大股で蹴り上げながら、ブランシュは己が歩む覇道の経由地である、《レ・アル》へ向かって一歩を踏みしめる。
東の空に立ち昇る本物の朝日。そして、背中からは従者が掲げるもう一つの《勝利の太陽》から差し込む温かさ。
それらを確かに感じながら、ブランシュ・クラリヴァント――
世界を欺く《嘘つき女王》の新たな旅が始まった。




