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嘘つき女王のドレスとオペラ  作者: じのきゅう


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二章 嘆きの帝国 Ch2. L'Empire de Souffrance

 月が天上を過ぎ、傾きかけた頃合い。


北風と雨脚、何よりも帝国の迫害《はくがい》から長年にわたって守ってくれた屋敷。


その堂々たる正門を閉じた時、あるいはもう錠前(じょうまえ)をかけなかった、というべきか。


ブランシュ・クラリヴァントは従者のシリルへ振り返った。



「最後になるから、お祖父様(じいさま)へ出立(しゅったつ)の報告と祈りを捧(ささ)げましょう?


ランタンを貸してちょうだい」



 最後の駄目押しと言わんばかりの、思い付きの行動だ。


彼がどんな反応をするか楽しみだったが、その表情はやわらかなものだった。



「ありがとうございます。ぜひご一緒させて下さい。


先代より託されたこの形見に懸けて、何があろうとお嬢様をお守り通すと、改めて誓わねばなりませんから」



 どうやら思いが伝わったらしかった。


シリルは空いた右手で、長剣を抜き放った。


柄(つか)を含めれば、主人の身長に匹敵する業物(わざもの)だ。


彼がこれを贈られた時、てっきり壁に飾る置物だと思ったものだ。


それを軽々と振り回す従者は、祖父が亡くなった今、人類最強の剣士に違いない。恐ろしさと頼もしさの、両方を感じた。



 先代当主である己の祖父は、墓に眠っている。去年、安らかな表情を看取った。


シリルは剣を掲げて実に勇ましく祈っていた。彼の剣を信じよう。きっと守り抜いてくれる。



 己も墓に手を合わせる。瞳を閉じて、優しかった祖父と向き合った。


最強の剣豪でありながら、祖父は一度も帝国への復讐(ふくしゅう)などというものは語らなかった。


でも、この世界はあまりにも腐り落ちてしまった。誰かが血の代償(だいしょう)を払い、正さなければならない。


たとえ向かう先が地獄だったとしても、帝冠が欲しいのだ。


だから、ごめんなさい、お祖父様。そう、詫(わ)びた。



「……さぁ、行きましょ」



 緊張が震えとして声に出てしまったかもしれない。気づかれていないといいのだが。



「御意に。ランタンをこちらへ。……ありがとうございました」



 シリルが前を行く。


このまま彼についていくだけでは、何も変わらない。主人として役に立たねば。



「ねぇシリル。あの賊達との距離がどれくらいになったら、伝えればいいの?」



 そんな質問を渡す。戦闘が彼任せになるのは避けられない。なので別の視点で存在感を示す。



「そうですね。自分も既に粘りつくような殺気をはるか遠くに感じますが……一キロメートルと百メートル、二段階で教えて頂ければ有難いです」



 その程度のこと、たやすいことであった。


それよりも、より具体的な戦い方について話し合いたいのだ。



「分かったわ。あなたの指示に従うから、何でも聞いてちょうだいね? 他には――」


「御意」


「……んっ……」



 さえぎられるのはもう三度目だ。少々慣れた。


彼の言いたいことは単純明快(たんじゅんめいかい)だった。もう何もしなくていい、そういうことだ。



 突如、右眼の視界でシリルの背中が光りだす。橙(だいだい)色だ。


恐らく、指(・)示(・)に(・)従(・)う(・)と言ったからだろう。


振り回したことなら何千回とあるが、あんなことを彼に言ったのは初めてだ。きっと驚いているのだろう。


橙色は、安堵、喜び、そして勝利への確信。


熟(じゅく)した柑橘(かんきつ)色のように温かい感情に、こちらまで癒される。大好きな色だ。



 己の右眼に宿る《クラリヴァントの魔眼》は、一族に稀(まれ)に発現する力だ。


他人の心と思考を色として、暴(あば)くことができる。


シリルの背中から広がる歓喜(かんき)の色は、美しい。


これからしようとしていることを思うと、胸が苦しくなってしまうが。



「シリル、あと一キロメートルくらいよ。数はやっぱり、確実に三十人だと思う」



 半分嘘をついた。それによって何が起こるかは、覚悟の上だ。



「一キロメートル、でございますか……? 御意に。


もっと近くに濁(にご)るような気配を感じるのですが……自分もまだまだ、ということか……?


人数は同感です。では、さらに距離を詰めましょう」


 深い森に差し込む月明かりをさえぎるように、粘りつくどす黒いもやが立ち昇る。


魔眼の視界はその黒き巨大な入道雲に、既に覆いつくされていた。



 やがて、その時がやってきた。やってきてしまった。


シリルが立ち止まり、荷物を捨てて長剣を構える。


己も両太ももから双子短剣を取り出すも、手の震えは止まらなかった。



「野郎ども、起きやがれぇ! へへっ、ついに旦那様が現れなすったぞ!」



 山道で待ち伏せしていた賊共だ。


挟み込むといった作戦を考える能すら無いらしい。けれども、それどころではなかった。


黒いもやの醜悪(しゅうあく)さは、思っていたよりもはるかに凶悪(きょうあく)だったのだ。



「ぐぅっ……うぅ……!」



 今にも吐きそうだ。こんな状態で武器を振るわなければならないのか。



「こっちは三十人だ! 武器を捨てなぁ! そうすりゃあ、命だけは助けてやらぁ」



 何か言っているが、嘘の色が見える。話す価値が無い。


もとより、一人も逃がすつもりはない。これも世直しだ。



「……ガキを連れてるとはちょうどいい、幼い娘を殺されたくねえだろ? 言われたとおりに――」


「お、おい、ボス! よく見ろって! ガキなんかじゃねえ、ちゃんとした女だ! 貴族の女っぽいぞ⁉ しかも、とんでもねぇ美人だ! やった!」



 甘かった。


シリルの言っていた人質の意味が、ちゃんと飲み込めた。


なぜ会わせたくすらなかったのかも。



「あぁ?…… おいおいまじかよ……! いや、興奮してんじゃねえよ馬鹿野郎! このデカブツの武器を捨てさせられなくなっちまっただろうがっ!」


「すっ、すいやせん!」



 髪に触れられるどころではない。女としてのすべて、すべてを、奪うつもりだ。


分かっていたはずなのに、身体の震えが止まらない。


なんということだ。とても抑えられない。



「しっかし、でっけぇ剣だな……! こりゃ何人か死んじまうか……でもまぁ取り分も増えるし、もういいか! はははっ!」



 シリルは激怒していた。


魔眼の視界に激情(げきじょう)の深紅をマントのように羽織(はお)っている。


賊相手だけではない、距離を偽った主人に対しても怒っている。


こちらの足元にもはためいているのだ。今はただ、後悔しかない。



「最初の一人は早い者勝ちだ! ほら頑張れよっ、ははっ! そんで、その次は俺! あとは……いつも通り、死ぬまで好きにしていいぞ」



 やはりシリルにすべて任せて、逃げればよかった。


右眼を守るために装着している片眼鏡を、強く押さえる。


数に物を言わせるだけの小物どもが、これほど恐ろしいとは思いもしなかった。


それでも、いつも通りという言葉に義憤が沸き上がる。戦慄(わなな)いている不甲斐ない己の姿に対する、怒りも。



「……なんて……情けないのよ……!」



 主人としての威厳(いげん)を保ちたい。その威勢(いせい)はどこへいった。


己が無敵と信じる従者が、負けるはずがない。必ず助けに来てくれる。決断の時だ。



「お許しください、遅れを取ってしまいました。お嬢様はお下がりを――」



   ――《己の命》を懸(か)けた命令を彼に叩きつける。



「飛ばしてっシリル! 前方! 四、十五!」


「!」



 シリルは主人が放ったその無謀な命令を聞き届けた。



「御意にっ!」



 彼に向かって猛ダッシュを始める。


シリルは身体を沈めて《発射台》の態勢をつくり、そこに右足を踏み込んだ刹那(せつな)――


 華奢(きゃしゃ)な主人を空中高くへと射出した。



「ふんっ‼」



 ふわりと浮き上がる、圧倒的な加速と風圧。


 月明かりの山道に、高さ四メートル、飛距離十五メートルに及ぶ放物線が描かれる。


その連携大跳躍によって、戦場を飛び越えた。驚く賊どもを見下ろす。



「んなぁっ⁉」



 やってやった。チェックメイトだ。背後ではシリルが暴れる音が聞こえる。


なんて凄惨(せいさん)で、そして希望に満ちた音色であろうか。



 重力に引かれ始める。ドレスをはためかせて、華麗(かれい)な身のこなしで着地した。


駆け足ののちに振り返って、双子短剣を後ろ手に隠す。



 この身を守ってくれる巨漢の盾は、もう近くにいない。やってやる。


己は未来の女帝なのだ。震える手で天秤に乗せた高貴な命で、勝利を手繰り寄せてやる。



   ――奇跡とは願うものではない、命を懸けて手に入れるものなのだ――



「ふうっ。こっちなら、少しはましな男がいたりするのかしら。


どうやらいつも通り、早い者勝ちらしいわよ?」



 鏡の前で練習し続けた笑みを向ける。


冥途(めいど)の土産(みやげ)だ、受け取れ。クイーンの魅力に酔いしれるがいい。



   ――盤面は、整った。



「へへへっ! 人生で最高の一日にしてやるよ、貴族の嬢ちゃん!」



 それはこちらも同感だ。最後の一日にしてあげよう。



「へぇ? ありがと。でも私、受けた恩はちゃんと返す女なのよっ!」



 右の魔眼で冷静に分析する。殺意は無い。


武器を収めた素手での突進。そして一人だけ。


捕まれば地獄だが――今は忘れろ。指を狙え。



 バックステップをする。


伸ばしてきた汚れた指を、双子短剣で数本斬り飛ばしてやった。男の悲鳴が森を殴る。


ざまあみろ。今さら恐怖の色を出している。このままの勢いで――



 すると、こちらを見る男達の感情が変化し始めた。


どす黒さは相変わらずだが、下心が減っていく。


代わりに恐怖と冷たい殺意が占めていった。殺意だと。嫌な予感がする。



「ちっ……」



 賊どもは皆、武器を抜き始めた。黒薔薇を散らすことを、諦めたらしい。


錆(さ)びた剣が、むしろ恐ろしい。こちらが降伏することを期待しているようだ。


この人数の前では誰もが、生きたまま見逃してくれる奇跡を祈って、受け入れてしまうのだろう。


義憤(ぎふん)が火山のように噴火するが、この人数相手に短剣で挑むなど無謀すぎる。



 仕方、ない。あれをすることにしよう。


練習してきたとはいえ、まさか彼以外の相手に――いや、今は忘れろ。



 こくびをかしげる。とぼけたように。


背筋を伸ばし、控えめな胸を張る。これは前座みたいなものだ、視線が集まらなくても気にするな。


そして己が誇る《最凶の切り札》は、これだ。



「あら、もう諦めちゃったの? 私、声にも自信あるのよ?


生きたままの方が、きっとお互いに楽しいと思うのだけれど……怖いなら仕方ないわねぇ。


それともあなた達は……これでもう一度やる気が出るのかしら? んっ……」



 黒薔薇のアンティークドレスの裾をつかみ、大きく大きくたくしあげる。


見せつけるのは、真っ白な太ももの肌。


真夜中の深い森の中で見せつければ、眩しく輝いて見えるはずだ。今の彼らからすれば、どんな宝石よりも価値があるだろう。


さぁ、武器なんか収めて、素手で花弁を散らしに来い。切り刻んでやる。



「こっ、こんのクソガキャア……!」

「啼かせてやるよ……やってやらぁ……!」


 うまくいった。魔眼の視界で冷酷な殺意が消え、汚れた下心がどろりと流れる。


おぞましいが、武器は仕舞わせた。これなら、いける。



「ふふっ、強い男は好きよ? ……まぁどうせ一騎打ちなんて男らしいこと、できないんでしょうけど、ねっ!」



 近づかれる度に、バックステップを繰り返す。花をちぎろうとする手を時折(ときおり)、隙を突いて短剣で斬りつける。


綺麗(きれい)な薔薇には棘(とげ)があるなんて、誰でも知っている。触れさせなんてするものか。



 襲ってきた四人の男達は武器を持てない身体になって、恐怖の色に染まりきった。もういいか。妖艶(ようえん)なクイーンは終わりだ。怖かった。



 深呼吸して、凍える身体を抱きしめる。


恐ろしくてたまらなかったけど、なんとか生き延びた。


シリルは今、何人斬ったのだろうか。そろそろ合流――



「お前らぁ! 女とよろしくやってる場合かぁ⁉ 早くあの男を殺せ……な、なんだ、まさかこっちも化け物なのかぁ⁉」


「はぁっ、はぁっ……えっ?」



 シリルじゃない。誰だ。少しまともな服装。まさか、頭目なのか。なぜだ。



「そんな……あなたはっ⁉ シ、シリルッ⁉ 早く終わらせ――」


「畜生がぁっ! 死ねぇ!」



 嘘、でしょ。



「ひっ⁉」



 すんでのところで、重々しいファルシオンの一撃を受け流す。



「おらおら! おうらぁっ!」


「あぅっ!…… うぅっ……!」



 さらなる連撃。手首が折れそうだ。シリルはどこで何をしている。絶対に許さない。



「おっ、おぉっ⁉ こっ、この女も化け物かよっ⁉」


「くぅっ!…… ぐぅぅ……」



 限界だ。腕が折れる。魔眼も役に立たない。なぜこんなことに。



「くそがぁぁっ! こんな化けもん共にっ! 手ぇ出すんじゃなかったぁ! うおらぁっ!」


「ひっ、ひぃっ‼ いやっ……! 死にたくないっ……!」



 死にたくない。助けて。死にたくない。死にたくない。死にたくな――



 右手の短剣が弾かれ、甲高い金属音が夜に落ちた。



「きゃあっ⁉」


「うらぁ! 死ねやぁ!」


「あっ――」



 助けて、シリル――



「うおおおおおおおおおおぉぉ‼」



 獅子のような咆哮(ほうこう)を聞いた時。振り下ろされていたファルシオンが、横一閃に断ち切られた。


魔眼の視界が夕焼け色に染まり、思わず膝から崩れ落ちた。



「ご無事ですか、お嬢様!」



 シリルが腰を支えてくれた。かつてないほどに近い。彼の顔を見た瞬間、血が沸騰(ふっとう)した。



「はっ……! はぁっ、はぁっ……! お……遅いっ! 遅すぎるわ!」



 どこで何をしていたのだ、この男は。



「は、はいっ! 申し訳ございません!」



 華麗に戦った。完璧な戦術だった。それが全部、崩壊した。なぜだ、答えろ。



「あ……あなたを騙したし、跳躍も命令した……! でも、人質に取られたりしていないから、あなたの戦いの邪魔、してないわよねっ⁉」


「はい……。お嬢様の仰る通り、全く邪魔などではありませんでした。


それどころか、あの鮮やかな跳躍(ちょうやく)によって敵を挟み撃つ形となり、戦況を極めて有利に運ぶことができました……」



 なんだ。では何が原因なのだ。そもそも頭目を逃がしたのが始まりで、そうなるとやはり――



「自分で立てた策に自ら溺れた、自業自得なのも分かってる……! でも、どうして頭目を取り逃がしたのっ⁉


お陰で最(・)後(・)の(・)帝(・)室(・)末(・)裔(・)であるこの私が、命を落とすところだったのよ⁉ あなたって本当は弱いのね!」



 しまった。またやらかした。



「むう……あの男は臆病者(おくびょうもの)で、最初から傍観(ぼうかん)に徹していまして……しかしこれらは言い訳に過ぎません。


高貴な帝室出身であるお嬢様の身体を危険に晒したことは、一生の不覚でございます」


「あっ……! ち、ちがっ……!」



 もう何度目か分からない、心臓が締め付けられるこの感覚。


このままでは没落して滅亡しかけている、クラリヴァント家というひっくり返した袋の中の、端っこの方に最後に残った、たった一人の理解者を失ってしまう。



「はぁ……」



 もう、やめよう。言おう。言うのだ、本音を。


捨てられたくない。怖い。でも、もう帝室の仮面を外そう。乙女の弱さを見せるのだ。



「本当は、こんなのじゃなくて……あなたが私を責められるような、叱ることができる状況を作りたかったのよ……」


「自分がお嬢様を……責めるですと? 恐れながらそのような非礼なこと、とてもではございませんが――」



 目の前にいるのに、彼の心は一歩、大きく後ずさろうとした。


それを視認し、すかさず言葉を放った。



「そ(・)れ(・)。もうやめてちょうだい……」


「む……そ(・)れ(・)……で、ございますか」



 シリルの感情が一瞬、希望の灯台のように明るくなった。ここだ。


この場所に、私達が降り立つべき島があるはずだ。



「お祖父様が去年亡くなって、私はそれから帝位を目指し始めたじゃない?


私が皇帝なんて壮大すぎるドレスを纏い始めたら、あなたは合わせるように、平民の鎧を着こなした……そしてそんな素振り今まで見せたこともなかったのに、急に身分の差を気にし出したりして……」


「うっ……しかしながら、スラムで泥水を啜っていた孤児の自分と、帝室の血を引く高貴なお方……さらには、先代やお父上であられる八七代目ですらお持ちでなかった、世界を見通す魔眼を持っていらっしゃるお嬢様の隣に立つなど、到底……」


「だからそ(・)れ(・)なのよ。赤子の時から二十年も育ててくれたじゃない?


物心ついたあの頃だなんて我儘はさすがに言わないわ。せめて……せめて、帝位を目指す前、一年前くらいのあなたに戻ってよ……」


「むむ……そう申されましても簡単に割り切れるものでは……なにせよりによって皇帝ですから……」



 足りなかった、当然だ。平民と、女帝を目指す者だ。釣り合わない。


けれども、灯台の輝きは黄金色も混じりだし、港はすぐ近くまで迫っている。



「ねぇ……シリル。あなた、一日だけ延期して私が寝静まっている間に、この賊達を一人で倒そうとしていたじゃない?」


「そう……ですね。お嬢様にいとも容易く、見抜かれてしまいましたが」


「主人として納得いかなかったけれど……温かくて優しい気持ちは、とても嬉しかったわ。


……もちろん、従者としては明らかに命令違反だとも思うけどね?」


「うぐぅ」


「だから……私も主人として少しだけ、異端(いたん)の道を歩むわね。


……二人きりの時だけでいいから、身分の差は忘れてちょうだいな」


「なん、ですと……? それは無理な相談でござい……ま……」



 いいだろう。そんなに見たいなら、見せてやる。


舞台上では華麗に舞い踊って、ソプラノの調(しら)べを奏(かな)で、観客から万雷(ばんらい)の拍手を一身に浴びる美しい主演女優が、控室でただ一人の男に縋(すが)りつく、情けない等身大の姿ってやつを。



 右目に装着しているモノクルに、震える手を伸ばす。その〝魔眼の代償をやわらげてくれる遺物(アーティファクト)〟を外した時。



 《スフランス(嘆きの)帝国》の異名を持つほど闇のもやに溢れたランス帝国全土から、見知らぬ他者の怨嗟(えんさ)、絶望(ぜつぼう)、そして飢(う)えの苦しみが、網膜(もうまく)を押し通る黒い土石流となって遺物を外した魔眼に雪崩れ込み、己の脳髄を激烈に焼き焦がす。


鼓膜を破りかねない勢いで、無数の悲鳴が幻聴として脳内に直接囁(ささや)かれる。



 あぁ、痛い。つらい。苦しい。怖い。恐ろしい。


これが、仮面を外した私の醜(みにく)い真の姿だ。


彼は果たして、受け入れてくれるだろうか。



 シリルは目を見開き、ぽかんと口を開いた。そのまましばらく見つめあう。


しばし呆然としたのち、勢いよく首を横に振った。そして大口を開けたまま、身振り手振りでモノクルを再装着するよう示してくる。



 なんだ、その顔は。そこはもっと、こう。なんというか、あぁもう。



「そんな簡単に死なないわよ……過保護ね、ほんと。シリル、あのね……」



 ええい、全部言えばいいんだろう、言ってやる、言ってやるとも。


脚本なんて知ったことか。もうどうにでもなれ。



「もう……もうこれ以上、他人のフリをしないで……! 私を……! 一人きりにしないでぇ……‼」


「‼」


「皇帝を演じ切り、世界を騙し通してみせるだなんて馬鹿げたことを決断したのは……あなたが最後まで隣にいてくれるって、勝手に勘違いしちゃったからなのよ……!」


「……」


「必ず一緒に帝国と戦ってくれると信じて、なんの相談もせずに決めたら……あなたは、少しずつ距離を……!


そうしたら、もっと強くならなきゃ見限られるって、怖くなって……!


こんな、こんな無謀なことまでしちゃって……! 愚かだったわ、私……!」


「……」


「この賊達は幸いにも……私を迫害するランス帝国の執政官らとは、何も関係が無かった。だから、今ならまだ引き返せるの。


あなたと他人になるくらいなら、私……帝位請求権なんかいらな――」


「ブランシュ様‼」


 ――あぁ、彼が昔に戻ってくれた。


まだ彼のことを〝にいさま〟と呼んで慕(した)っていた幼い頃の、懐(なつ)かしい呼ばれ方。


一年前どころか、十年以上も前に、戻ってくれたのだ。



「決して勘違いなどではございません。この命が尽きるその時まで、決してお傍を離れないことを、自分は何度もお誓いしてきました」


「シリル……」


「しかしながら……」



 なんだろう。黄金の瞳を覗き込む。


膝をついてくれているのに、私達の視線は水平だ。



「去年、皇帝などという、恐ろしい響きの言葉を聞いた時……即位された暁には、平民に過ぎない自分は捨てられるのではないか、その様に考えてしまい……。


違う世界に住まわれるお方なのだと、割り切るようになってしまったのです」


「そう、なのね……ありがとう、あなたの本音を聞かせてくれて。


じゃあ一旦屋敷に戻って、たくさん……それこそ、朝まで話し合いましょ?


この骸(むくろ)達は数が多すぎるから、夜が明けてからゆっくり片付ければいいわ」



 元に戻ることができたが、これからどうしようか。旅は一旦、お預けだ。


そうなると、別の人生も悪くない。この際もう一つの本音も、勢いで言ってしまおうか。



「いいえ、その必要はありません。亡骸(なきがら)は自然の成り行きに任せましょう、もうここには戻りませんから」


「えっ……?」



 なんだ。心の声を覗かれたのか。いや、戻る必要はない、だと。まさか。



「それって……じゃあ!」


「はい、ブランシュ様。この騎士シリルが、貴女様を皇帝にして差し上げます。


ランス帝国の頂点に君臨し、世を正す。世界で一番優しい為政者(いせいしゃ)です」



 盤上のポーンがナイトに成ってくれた。魔眼の視界に、彼の背後から太陽のごとき明るい感情が昇り始める。


闇のもやが打ち払われ、頭痛は安らかに静まっていった。思わず笑みが零れ、ゆっくりとモノクルを装着した。



「ありがとう……最後まで一緒よ? 私のこと、絶対に見捨てないでね。お願いよ?」



 旅に出られるのは嬉しいが、もう一つの緩やかな甘い人生も諦めたくはない。


己は彼を昔のように、〝にいさま〟と呼びたいわけではないのだ。念押しをしておく。逃げられないように。


「もちろんです。ブランシュ様こそ、突然解雇(かいこ)したりなどしないで下さいよ」


「ふふっ、決まりね? ……じゃあ行きましょ。


私達の最初の目的地、交易都市レ・アル(Les Halles)へ。金貨さえあれば、買えないものは何も無いわ。


帝国領内都市で最も自由な、最高で、そして最悪の都市よ!」



 旅路の再開だ。東から昇る朝日が眩しい。一本道を再び歩き始める。



「御意に。もちろん《帝位請求権》も売っているのですよね? 自分も一つ欲しいです、ブランシュ様の隣に居続けるために」



 なんだ。買えるわけがないだろう。クーデターでもするつもりなのか。


というかそんなに欲しいなら――いや、いい加減その話からは離れよう。顔が火照ってきた。このままではバレかねない。



「んむぅ……」



 頬を膨らませ、怒っているフリをして誤魔化す。主演女優の演技を舐めるなよ。


大股でドレスを蹴って歩くも、なんなくついてくる彼の軽い足音がする。


相変わらず体格が違いすぎる。己ももう少しだけ背丈が欲しかった。少しの苛立ちも込めて叫ぶ。



「そんなもの、買えるわけないじゃない! でもいいのよ。


私、ランス帝国の女帝になった瞬間に帝冠を投げ捨てて! そのまま退位までしちゃって!


スフランス帝国なんかぶっ壊しちゃうからっ‼」



「な、なんですとっ⁉ また嘘をついたというのですか? 今日だけで、片手に収まらないではありませんか……」



 片手程度で済んでいると思っているのか。これは、まだまだ嘘をついても大丈夫そうだ。



「えぇ、そうよ? 血塗られた玉座に座って、全てを冷酷に支配する絶対君主な皇帝になるだなんて……そんなの、世界を騙すための最高の嘘に決まってるじゃない!」



 世界が求めているのは、魔力などという恐ろしい力を持つ暴君ではない。


魔眼で一人一人の感情を見通し、民の痛みに寄り添える、己のような純白の心を持つ――



   ――私はねっ! みんなに愛される、やさしいやさしい、女王様(ラ・レーヌ)になるのよ!――



 漆黒のアンティークドレスを大股で蹴り上げながら、ブランシュは己が歩む覇道(はどう)の経由地である、《レ・アル》へ向かって一歩を踏みしめる。


東の空に立ち昇る本物の朝日。そして、背中からは従者が掲げるもう一つの《勝利の太陽》から差し込む温かさ。



 それらを確かに感じながら、ブランシュ・クラリヴァント――



 世界を欺(あざむ)く《嘘つき女王》の新たな旅が始まった。

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