一章 ランス帝国 Ch1, L'Empire de la Lance
――いいでしょう。ランス帝国のその、錆び付いた皇帝の帝冠を、わらわが戴くといたしましょう――
ブランシュ・クラリヴァントは姿見鏡の前で、嘘の練習をしていた。
オペラのアリアを奏でるように強がったが、不安はちっとも晴れなかった。
「ふふっ。見た目と声だけなら、まるでオペラの主演歌手ね……。
こんな遠い未来の……嘘の練習をしていられるほど、今の私に余裕なんて残されていないわ」
今度は本音を声に落としてみた。
将来への不安は減らなかったのに、恐怖は順当に増えた。
納得がいかない。
黒薔薇のアンティークドレスを翻して、風を切る。不安を巻き込むように。
いつもはこれで気が紛れるのに、これまた上手くいかなかった。今が二十年の人生で、一番大事な時だというのに。
その際、つい窓の外を見てしまう。
油断した。すぐに視線を逸らす。
遅れて、森の中に潜む暗雲の塊が、脳までその姿を届ける。
醜い悪意。他人の足を引っ張ることしか考えない堕落。そして、隠す気がない汚れた下心。
――不快だ。
「少ししか見なかったのに、吐き気がするわ……。
どんな悪行をすれば、あんな黒くて汚い色を出せるのよ……」
もはや同じ人間とは思えない。
感情が視えるということは、言葉を喋れるくらいの頭脳は持っているらしい。
馬や鹿の感情も少しは視えるから、ちょっと分からないけど。
そんなことを考えた時。彼らに捕まれば何をされるのかも、途中まで想像してしまった。
己の髪に触れるな。
頭を振り払い、腰まで伸びる銀白髪をたなびかせる。
浴びた月光が反射し、鞄を飾る宝石まで届いて光った。
思わず飛びついた。背中を伝う冷や汗から逃げるように。
お気に入りの肩掛け鞄。
表面の刺繍を手でなぞりながら持つが、重すぎる。
なんだこれは。何が入っているというのだ。
「跳べなくなりそうね……」
開いてみると、香水硝子瓶が幾つも入っていた。
そういえば自らの手で入れたのだった。ベッドの上に放り投げる。
手についた残り香を嗅いでみると、なんともいい花の香りがした。
やはりこれらは欠かせない。そうなると、別の問題が浮き上がってしまった。
「あの堅物は持ってくれるかしら……? これも私の武器なのだけれど……」
彼に命令すればいい話だ。気にする必要はない。
どうしても、気になってしまうし、気にしてしまう、のだが。
改めて鞄を持ってみると、悪くなかった。これなら跳べるだろう。
せっかく長年にわたり練習したのだ。やってやろうではないか。
そう控え目な胸を張り、今度は黒蝶真珠のネックレスに右手を添える。
己の祖先である唯一神に救いを求めて、祈った。
方角は南。帝都の大聖堂だ。
この世界で信じられる、たった二つのうちの一つ。
「命の危機が迫っているというのに、虚勢だけは既に女帝ね。
明日を生き延びられるのかしら……?」
唯一神を祖先に持つというのに、クラリヴァント家はどこで道を間違えたのだろうか。
屋敷の書物はすべて読んだが、結局分からずじまいであった。
悲劇のオペラを演じるように脚本を代々書き換え続けた結果、いつの間にか、真実の歴史も分からなくなってしまったに違いない。
――愚かだ。
俯くと石の床には、金属で鋳込まれた、時計の歩度を調整するための日時計線が刻まれている。
歴史は感じるが、時の流れに逆らえず滅びかけているわけで、これではまるで意味が無い。
震える手を翡翠眼でぼんやり見つめていると、静寂だった部屋の扉がリズミカルに三回ノックされた。
「!」
すぐさまドレスの裾に手を伸ばすが、侵入してこない。
彼だ。当たり前だ。
彼が守るこの屋敷の正門が破られるなど、あり得るはずがなかった。
早く返事をしたい。それはそうなのだが、その前にすべきことがある。
まず、腕を組む。偉そうに。というか実際偉いのだ。
次に脚を開く。淑女であることは今だけ忘れろ。
最も重要な表情は、鏡の前で練習し続けた、女帝の仮面にした。
己はランス帝国皇帝の末裔であり、唯一神の子孫、ブランシュ・クラリヴァントである。さぁいつでも入ってこい。
「……シリルね? 入ってもいいわよ、どうぞ」
「失礼します、お嬢様」
入室の許可を出すとシリルは入ってきた。やはり彼だった。ほっとした。
黒灰色の髪を見上げるが、黄金の瞳がかろうじて見えた。
背が高すぎる。なんだか誇らしかった。
こちらの肩に触れそうな位置まで近づいてきたのには驚いたし、心臓が少し高鳴ってしまったが。
「お嬢様、日付を跨ぎました。二十歳の誕生日、おめでとうございます」
そういうことか。少し、どころかかなり嬉しいが、LとRの使い方がなっておらず、少々訛っている。
ランス語は帝国の公用語で、二大アルファベット言語の代表だ。
従者である彼が出生地で差別されないよう、主人である己がしっかりせねば。
「あら、ありがと」
脚を閉じて淑女に戻る。ハイヒールが石を打つ音が心地よい。
か弱い乙女であることを忘れないで欲しいものだ、お互いに。
彼に問いかける。
「準備はどう? もう積み込むべき荷物は、私の部屋には何も――」
「せっかくの記念日なのです。どうでしょうか」
なんだ、急に。
「本日はワインなどでも嗜まれては?」
「はぁ?」
酒に逃げて物事が解決するならば、帝国はここまで腐敗していない。
いや、そんな高尚な話ではない。
この状況で、お酒。ワイン。
良い思い出があるような、無いような。成人の儀の際、確か酒豪の祖父と共に――
「……」
身体が熱くなる。冗談ではない。
あの時は祖父がダル絡みの被害者になってくれたが、今はもうこの男しかいない。
酒の力でタガが外れ、もしも本音をぶちまけてしまったら、違う意味で後戻りできなくなる。
そうなれば屋敷を放棄し帝国の玉座を狙うなど、きっと後回しだ。決して選んではならない。
そのような少しだけ甘ったるい、平和な人生を選ぶことを、祖父は望んでいたのかもしれないが。
シリルは籠手で厳めしい音を立てつつ、香水硝子瓶を拾ってくれている。
命令せずに済んでよかった。
そんな小さなことを考えて顔の火照りを抑えようと奮闘していると、従者が腰に差す深黒炭素鋼の特注長剣が、勇ましく月光を反射した。
その時、彼の真意に気付いてしまった。
この実戦的な軽装鎧へ既に身を包んだ男は、主人を酔い潰したのちに手も触れず、あの山賊どもを一人で片付けるつもりなのだと。
《戦力外》、そういうことだ。彼が誇るあまりの強さに背筋が凍り付くと共に、このままではまずいと思った。
凍てつく背筋を無理やり伸ばす。帝室の仮面を被って声を放った。
「……ワインですって? あなたね、引き延ばすのは今日までにするって、何日も前に決めていたはずでしょ?
今さら何を怖気づいたというのかしら?」
無愛想な顔をしているくせに、なんて極上に甘やかしてくるんだ。
やはり乙女であることなど忘れ、思う存分、威張り散らせばよかった。
翡翠眼で黄金の瞳を鋭く睨みつける。彼は引き下がってくれるだろうか。
「奴らはそのあいだ、微動だにしなかったではありませんか。
ここは静観し、去るのを待つのがよろしいかと。
万一お嬢様に不測の事態があれば、自分は先代に合わせる顔がございません」
駄目だった。護衛対象として扱われている。それでも引くわけにはいかない。
彼の意見に破綻は無いが、流れには矛盾がある。突くならやはりそこだ。
「お酒なんて飲んで寛いでいる時にこの屋敷を攻められたら、それこそ危険よ。
だから――」
「では今夜だけでも構いません、延期されてはいかがでしょうか?
あの大人数はさすがに厄介です、手の打ちようがありませんよ」
割り込まれた。二度も言葉をさえぎられた。こんなに小さくても主人なのに。
「……」
シリルはわざとらしく、大袈裟に首を振っている。
口調も珍しく軽い。彼なりに精いっぱいの演技をしているようだ。
嘘をついていることはお見通しなのだが、それと相手を言い負かせるかどうかは別問題だ。
仕方あるまい。オペラ主演女優の演技というやつを、一度見せてやるとしよう。
「……はぁ……」
首を動かさず、翡翠眼だけで彼を見上げる。
つまらない演劇を見させられ失望したふうを装い、退屈だった、チケット代を今すぐ返せ、という表情を作る。
すると大根役者の表情はみるみるうちに硬くなり、怒りの感情を漏らした。
「むっ……」
上手くいった。自分では上手な演技だとでも思っていたのだろう。
まったく向いてない。ダンサーでも目指した方がいい。その筋骨隆々な体格ならきっと、貴婦人達の視線を独り占めできる。
もちろんこれからもずっと、主人のためだけに踊ってもらうつもりだが。
「無駄なことをするんじゃないわよ、さっさと全部喋りなさい」
「ふむ……お察しの通り、お嬢様が寝静まった後、自分一人で片付けるつもりだったのです。
負ける気などさらさらありません。お嬢様が人質に取られることを懸念しております」
これは、まずい。大変よろしくない。反論が困難だ。
従者の本音を引き出すことには成功したが、真正面から〝あなたは弱すぎる〟と言われてしまった。
最悪の可能性がよぎり、呼吸が荒くなる。このままでは彼に――
〝捨てられて〟しまう。
「十二年も私の鍛錬に付き合ってくれたじゃない。まだ足りないっていうの?」
こんな小さな身体でできることなど、限られている。それでも頑張ってきたのだ。一緒に戦わせて欲しい。
「確かに、お嬢様の筋骨の練り込みは全盛期を迎えつつありますし、戦闘技術も申し分ございません。
しかしですね――」
「なによ。私のそのキンコツとやらが、ガラス細工のように脆いとでも言いたいわけ?
魔力を溜め込む主人に向かって、随分と生意気ね」
魔力という、己が誇る切り札の一つを切ってしまった。
なぜこんなに焦っているのか、自身のことなのに分からない。
こうなったら何がなんでも言い負かすしかない。
「お嬢様の魔力と魔眼も考慮しております。
それを踏まえた上で今回は――」
「ランス帝国の《帝位請求権》を持つ私の決定に、逆らうっていうの?」
しまった。ジョーカーを出してしまった。
「……ふむ……」
不敬を咎められる形になったシリルは表情を曇らせ、手が届くほどに近かったその巨躯は、石の床に靴の金属音を鳴らしながら一歩下がっていった。
「滅相もございません。出過ぎたことを申しました……どうかお忘れください」
「あっ……」
心臓が、締め付けられる。胸が、苦しい。
今すぐ謝りたいが、決してしてはならない。
一平民とランス帝国皇帝の子孫という、離れすぎている身分の差。私達はどうすれば上手く噛み合うのだろう。
どれほど知識を蓄えても、先祖から受け継いだ聡明な頭脳でどんなに悩んでも、次にかけるべき最善の言葉を紡ぎだすことは、できなかった。
仕方なく、早々に会話を切り上げようとして――
「……そう。あの賊共には十分な時間をあげたわ。
だからもう、一人たりとも生きて逃がさない」
逃がさない。どっちが。
「御意。では自分が先頭に立ちますので、お嬢様も――」
素直に彼の背中へ隠れられない。
帝室の末裔などという、呪縛にも等しい誇りから逃避し切れないのは、他の誰でもない――
――《己の方》だ。
「その、あなたのこと、信じてるわよ……」
「‼」
言って、しまった。
無惨に死ぬのも、女の花を散らされるのも、たまらなく怖いのだと。
たった一言で彼にすべて伝えてしまった。
シリルの表情は即座に変わった。
目を大きく見開いたのちに、一気に引き締まる。
左腰に提げられた長剣に右手を添えると、主人の不安を切り裂くように力強く宣言してくれた。
「お任せください、お嬢様。
先代当主に拾って頂いたご恩に報いるため、全身全霊をもってお守りいたします。
不埒な輩共には指一本、決して触れさせません」
鋭く光る黄金の瞳と、鋭利な翡翠の双眸。
彼と視線を交差させた時、これ以上言葉はいらないのだと悟った。
なんて、なんて頼もしいのだろう。
――そして、なんと、なんと不甲斐ないことか。
「……ありがとう、シリル。あなたの強さを信じてるわ。
引き続き、準備をお願いね……」
「御意に」
シリルが扉から外へ出て行くのを、静かに見送る。
途端に、心の奥で抑え込んでいたものが、どっと溢れだした。
――恐怖、恐怖、恐怖。
彼を呼び戻したい衝動を振り払い、ドレスの裾を翻す。
両太もものホルダーから、そこに隠していた双子短剣を取り出すと、恐怖という影など大したことはないと思えてきた。
手慣れた動作で二枚の刃を反転させる。すぐ傍にいた影を切り払った。
まだまだいる。部屋中を跳ね回る。
豪華な調度品や、馬鹿げた価値の禁忌品柱時計など、今さら知ったことか。斬って、斬って、斬りまくった。
彼がいなくなったらどう生き延びるつもりなのだと、己に囁きながら。
もういい、気は済んだ。
捻じ曲がった針がぴくりとも動かなくなった時計から目を逸らし、ドレスの奥へと双子短剣を眠らせる。
「はぁっ、はぁっ……! 私なら……できるに決まってるわ……!」
口に出しても何も変わらない。あとは長剣と双子短剣で押し通るだけだ。
ずたぼろになったカーテンへと歩み寄り、月光を主演女優を引き立てるスポットライトに見立てて優雅に外を眺めた。
「ふぅ……でも、まずは……」
右眼の視界だけに映る、どす黒いもやの塊。やはり手心はいらなそうだ。
こちらには無敵と信じる従者がいる。
吐き気は未だ収まらないが、少し早いチェックメイトを宣言するとしよう。
「いずれ女帝となる黒薔薇を手折ろうなんて考える、救いようのない屑共……。
皇帝不在の帝国に代わって、私とシリルで掃除してあげなきゃね」




