Ch2- Manga's Will./マンガの意志(3)
本はまた先に立ち、通りを進んでいく。視線も相変わらずだった。大半の人々はさりげなく、一瞬こちらを見ては、すぐ自分の用事に戻る。けれど、中には遠慮のない人もいた。母親にたしなめられるまでこちらを指さしていた小さな子どもや、ひそひそ噂する老婆たち。顔だけでなく、服までそんなに目立つのだろうか。エイミーは両腕で身を抱いた。全身を覆っているはずなのに、急に肌を晒しているような気分になった。
別に、気弱な人間ではない。それでも、この注目は地味に耐えがたかった。
道中、市場広場らしき場所にある小さな噴水のそばを通った。漫画の何コマかで見覚えがある。実物で見ると妙な気分だった。噴水を満たしている液体は水ではない。銀色の物質が重力に逆らって上へ流れ、見入ってしまうような模様を描きながら落ちていく。
……綺麗だ。
エイミーは指を伸ばしかけ――
[私なら触りません。予想外のことがお好きなら止めませんが、嬉しい驚きばかりとは限りませんよ]
慌てて手を引っ込めた。「オッケー、了解。魔法の噴水には触らない。覚えた」
本はエイミーを先導し、大通りを離れて曲がりくねった道へ入っていく。宙に浮かぶ本を連れて歩いているのが少しでも普通に見えるよう、エイミーはなるべく平然と振る舞った。ときどき髪を直すふりをして、本に話しかけるときだけ声を潜める。
「で……今どこに向かってるの?」しばらく歩いてから、声を落として尋ねた。
[落ち着ける場所です]
細い脇道を曲がると、製本屋と薬屋に挟まれた小さな茶館が現れた。扉の上には木製の看板が吊るされており、湯気を立てるカップの絵に添えて、『夢想家の茶館』と流れるような文字で書かれている。
エイミーは本に続いて店へ入り、カウンターへ向かった。
「落ち着いた店だね。というか、なんか見覚えがあるような……」店内を見回しながら、エイミーは言った。
[第一幕で、主人公が初めて師匠と出会う場所です]
エイミーは片眉を上げた。「じゃあ、ここに来たってことは――」
言い終える前に、白髪の老婦人がカウンターで出迎えた。老婦人は浮かぶ本に数秒ほど目を留め、それからエイミーへ視線を戻す。
「いらっしゃいませ、お嬢さん」柔らかな声だった。「本日は何になさいますか?」
ごく自然に注文を求められ、エイミーは一瞬、頭が真っ白になった。何を頼めばいいのかも、この世界の金を持っているかどうかも分からない。
[カモミールティーを頼んでください]
「えっと、お茶を。カモミールでお願いします」
本に促されるまま、どうにか注文を口にする。
「銅貨20枚です」
すると本がぱらりと開き、ページの間から小さな絹の小袋が現れた。小袋は老婦人のほうへ飛んでいく。老婦人はほんの少し驚いただけでそれを受け取り、丁寧にうなずいてから背を向けた。
老婦人が離れた途端、エイミーはあんぐりと口を開けた。「あんた、お金持ってたの? 本が自前の財布を持ってるわけ?」声を潜めて尋ねる。
本のページが小さく波打った。
[はい。それが何か?]
「あー、もういい。今日はこれ以上、考えないって決めた」
本は近くのテーブルへ移動し、エイミーもあとに続いて席に着いた。
ほどなくして、老婦人が星座の描かれた磁器のティーポットを盆に載せて運んできた。
「ご注文のカモミールティーです」盆をテーブルに置きながら、老婦人は続けた。「よろしければ、こちらの焼き菓子もどうぞ。サービスです」
いい人だ。思いがけない親切に、エイミーは少しだけ表情を和らげた。「ありがとうございます」
老婦人はもう一度エイミーに軽く頭を下げると、浮かぶ本をしばらく眺め、何も言わずに離れていった。
老婦人が去ると、エイミーは身を乗り出した。「空飛ぶ本って、ここじゃそんなに珍しくないの? 誰もあんたを見て大騒ぎしないね」
[おそらく私はアーティファクトと認識されています。非常に珍しいことに変わりありませんが、存在しないわけではありませんから]
「なるほどね……。ところで、あんたってお茶飲めるの?」
[名探偵さんはどう思いますか?]
エイミーは目を細めた。「いや、浮いてて、意識があって、魔法の本で、重力まで操れて、神様絡みかもしれないなら、お茶くらい飲める可能性もあるかなって。念のため」
[それは一本取られました……。ですが、いいえ。私は飲食できません。これはあなたのために注文したものです]
「え、そうなの?」
[はい]
「……本当に、私のために頼んだの?」
[そう言いました]
「なら、ありがと。あんたは不機嫌で、ちょっと鬱陶しい本だけど、悪い人じゃなさそう――いや、人じゃないか。悪いものじゃなさそうでよかった」
[私は現在、限られたやり取りをもとにあなたの人格をコピーしています。つまり、あなたはいま自分自身について話していることになりますが、それは理解していますか?]
「……」エイミーは聞こえなかったふりをして、代わりにお茶を注いだ。カップの中で液体が青から紫へと変わっていく。変なの。
数口飲むと、張りつめていた体から少しだけ力が抜けた。そこで、また本へ視線を戻す。
「それで、次は?」
[さあ?]
「……」エイミーは本をじっと見つめた。「え?」
本のページが、肩をすくめるように揺れた。
[私は観察と限定的な支援のためにここにいます。手取り足取り導くためではありません]
「オッケー、分かった」色の変わるお茶をもう一口飲みながら、エイミーはつぶやいた。蜂蜜のような甘さに、名前も分からない花の風味が混じっている。「要するに、ろくに覚えてない悲劇の結末をどう変えるか、私が一から考えろってこと?」
[はい]
エイミーはため息をつき、テーブルを指先でとんとん叩いた。目を閉じ、数秒かけて深呼吸してから、再びまぶたを開ける。
こういうときは、流れに身を任せて何も考えないのが一番だ。異世界に飛ばされたから何だ。浮かぶ本つきで、陰鬱な漫画の中に放り込まれたから何だ。子どもの頃に夢見たようなことが、最悪の形で起きたから何だ。今は考えない。あとでなら考えるかもしれない。けれど今は、本当に考えたくなかった。
流れに任せよう、エイミー。なるようになる……。




