Ch2- Manga's Will./マンガの意志(2)
[はあ、本当に恩知らずだね。こっちは助けてあげようとしてるのに、文句、文句、また文句。少しは感謝してくれてもよくない?]
エイミーは口を開けたまま固まった。「ちょっと、それ――」
[あなたの人格をコピーしたのか、って? うん、そう。皮肉屋で小生意気な口調って、生存のためのコミュニケーションとして意外と役に立つみたい。びっくりだよね?]
「いや、待って。私は――」エイミーは言葉に詰まった。「……そんな喋り方しない」
[同意します。現在の出力は、ユーザー本人の発話傾向と完全には一致していません。ユーザー人格への適応中です。しばらくお待ちください]
エイミーは数秒、本を見下ろしていた。考えるだけ無駄な気がして、深く息を吐き、首を横に振った。「もう何でもいいから、やることだけ教えてくれる?」
[ステップ1:大声を出さない。独り言を聞かれると恥ずかしいです。ステップ2:私についてきてください]
「ついていくって、どこに?」
[今の状況について話すのに、もう少し都合のいい場所へ]
その文面を読んだ途端、さっきまでの出来事が一気によみがえった。女神。読者。力。物語を変えろという、意味の分からない命令。エイミーは身構えるように腕を組んだ。
「で、その『今の状況』って具体的にどういう意味? あの女神、読者とか力とか、物語を変えろとか言ってたけど……全然理解できなかったんだけど」
本がまた、ため息のような音を立てた。……いや、本当に失礼なやつだ。
[まずは静かな場所を探しましょう]
「じゃあ……あんた、本当に私の助けにはなるわけ?」縋るような響きにならないよう、エイミーはできるだけ声を抑えて尋ねた。
[肯定。制限つきで支援可能です。ただし、できることはかなり限られます]
「はい出た。こういうのって、絶対に『ただし』がつくんだよね……」エイミーはぼそりとつぶやいた。
本が宙へ浮き上がった。そこに突っ込む気力は、もう残っていなかった。この状況の意味は、あとで考えればいい。
エイミーは両頬をもう何度か軽く叩いた。夢ではない。どれだけ認めたくなくても、これは本当に起きている。そう自分に言い聞かせて、宙に浮かぶ本のあとを追った。路地の先には広い通りが見えている。汚れた壁に手をつきながら、慎重に出口へ向かった。
そして通りへ出た瞬間、エイミーの足が止まった。
目の前には、活気に満ちた市場が広がっていた。明るい空の下、鮮やかな色があちこちで目に飛び込んでくる。曲がりくねった石畳の道に沿って露店が並び、新鮮な果物から、淡く脈打つように光る奇妙な品々まで、あらゆるものが売られていた。
けれど、エイミーが目を疑ったのは商品ではなかった。
そこにいる人々だった。
普通の人間に混じって、どう見ても人間ではない種族が当たり前のように行き交っていた。尖った耳を持つ長身の人々。ずんぐりした体格に、立派な髭をたくわえた小柄な者たち。獣の耳や尾を持つ人々。露店から飛び交う呼び込みは、初めて聞く言葉のはずなのに、不思議と意味だけは分かった。
「うわ……」エイミーは息を詰めるように言った。「本当にエルドリアだ……」
この街には見覚えがあった。『クエスト・フォー・アヴァロン』を誰より熱心に嫌ってきた人間として、数えきれないほどのイラストを分析してきたのだ。北方の王都。漫画の主人公が通うアルカナム・アカデミーのある街。レビューで「世界観が手抜き」「デザインがありきたりすぎ」と、散々こき下ろしてきた場所だった。
好奇心に任せて大通りへ踏み出すと、すぐ居心地の悪さに気づいた。人々がこちらを見ている。じろじろ凝視しているとまではいかない。けれど、確実に意識されている。通行人の何人かは、わざわざ二度見までした。
「なに、あの反応……」自分の姿が急に気になって、小さくつぶやく。
[もし道の真ん中をチンパンジーが歩いていたら、あなたも振り返るでしょう?]
エイミーは勢いよく本へ顔を向け、睨みつけた。
[言いすぎましたか? すみません。あなたの人格の使いどころを、まだ調整しているところです。つい最近まで自我がありませんでしたから]
さらに数秒ほど本を睨みつけてから、エイミーは顔を背けた。震える息を長く吐き、今の発言を頭から追い払う。代わりに、目の前の問題へ意識を戻した。
服装はこの世界に馴染んでいる。なら、視線の原因は服ではないはずだ。あの性格の悪い女神が、自分を何か変な姿にしたのだろうか……。ありえない、と言い切れないのが怖かった。
エイミーは早足で歩き、姿を映せるものを探した。本は、ため息としか思えない音を漏らし、黙ってあとをついてくる。やがて、とある店の窓ガラスの前で足が止まった。
そこに映っていたのは、自分であって自分ではない顔だった。確かにエイミーの顔だ。ただし、いろいろと補正が入っている。17歳の自分であることに変わりはない。普段はありふれた茶色だった長い髪も瞳も、いまは金色に変わっていた。顔立ちはすっきり整い、肌は澄み、全体に以前より明るい印象になっている。自分にいい照明を当て、さりげないフィルターで盛ったような姿。つまるところ、これは――。
「アニメ?」エイミーは自分の顔に触れた。「私、アニメキャラみたいになってる……」
[マンガエフェクトです]
「どういうこと?」
[この世界では、見た目や演出が物語に合わせて補正されます。あなたの姿も、その影響を受けているだけです。気にしないでください]
「余計に不安になったんだけど」
本はため息をついた。肺もないくせに、見事なため息だった。
[あなたはあなたのままです。ただ……物語に映えるよう、少し補正されただけです。言ったでしょう。気にしないでください。今のあなたにとって、それは本当に些細な問題です]
「ああ、もう何もかもわけ分かんない……」エイミーは窓に映る自分から目をそらした。
笑い出さずにいるだけで精一杯だった。面白いわけではない。嬉しいわけでもない。ただ、これを現実じゃないと否定し続ける気力が、とうとう尽きただけだった。
物語みたいに異世界転移することを、一度も妄想したことがないわけではない。けれど、じゃあ……Wi-Fiは? ゲームは? インスタントラーメンは? 全部なしで生きろというのか?
それに、綺麗な姿なんて自分には似合わない。自分は汚い。内側も外側も、汚くて最低な人間だ。たぶん容姿のせいで注目されている。その事実が、本能的なレベルで気持ち悪かった。まるで自分が詐欺師にでもなったような気分になる。
これが現実ではないと信じたかった。けれど足元の石畳は、十分すぎるほど確かな感触を返してくる。夕方の空気には、知らない香辛料の匂いと、肌をちりちりさせる何かが混じっていた。魔法だ、とエイミーは悟る。もし魔法に匂いがあるなら、きっとこんな匂いだ。オゾンとシナモンが混ざったような――。
ああもう、神様。ほんと、勘弁してほしい。




