Ch11- Bittersweet./ほろ苦い勝利(2)
「最悪」
エイミーはつぶやき、手をさらに速めた。血に濡れた手のひらを、次の三つの溝へ引きずるように押し当てる。腕を這い上がる焼けつく痛みも、頭の中を塗り潰していく疲労も、焦点を失いはじめた血まみれの目も、能力の酷使で全身に走る苦痛も、全部無視した。
解放された生徒の一人――黒髪の少年が、身じろぎした。まぶたが震え、混乱した表情で目を開く。
「走って!」
エイミーは出口を指さして叫んだ。「解放された人を連れて、あのポータルまで逃げてください!」
少年はふらつきながら立ち上がった。まだ意識のない少女に目を止めると、彼女を引きずってポータルへ向かいはじめる。
レインはすでに囲まれていた。四方から襲いかかる偽物を相手に戦っている。氷の攻撃は弱まり、動きも鈍っていた。
「もう長くは抑えられない!」
張り詰めた声で、レインが叫ぶ。
エイミーは8人を解放していた。まだ5人が縛られている。その中には、エリアス・ヴァーンと、最初に近づいた赤髪の少女もいた。天井は崩れはじめ、上にいる怪物の本体がさらに露わになっていく。先端に目と口のついた巨大な触手が、部屋の中へ下りてきた。
やばいやばいやばい。
「あと少し……!」
失血と疲労で視界がにじむ中、エイミーは息も絶え絶えに声を絞り出した。9人目の生徒へよろめきながら近づく。犬耳と、ふさふさした長い尻尾を持つ少年だった。この異常事態の中なのに、ちょっと可愛いと思ってしまう。
いや待って! 失血で本格的に頭がバグってきてる。
解放された生徒の一人、背の高い金髪の少女が、先ほどの少年に倣ってほかの生徒をポータルへ誘導していた。
レインが強烈な凍気の衝撃波を放った。押し寄せていた敵が一時的に吹き飛ぶ。その隙に、彼女はエイミーのそばへ駆け寄った。
「手伝う」
そう言って、レインはもう片方の手のひらも切り、少年の近くの溝へ押し当てた。二人がかりで、少年の拘束を解く。
残りは4人。
触手が二人の近くの床に叩きつけられ、石片が飛び散った。鋭い破片が首筋を切り裂き、エイミーは悲鳴を上げる。破片があと数センチ右に飛んでいたら、喉を抉り飛ばされていた。
「その人たちは置いていって!」
ポータルのそばで他の生徒を逃がしていた金髪の少女が叫んだ。
「間に合わない!」
エイミーは無視して、どうにか立ち上がった。エリアスも赤髪の少女も、まだ十字架に縛られている。置いていけない。誰一人、置いていけるわけがなかった。
レインが強い眼差しでエイミーを見た。ただし、そこにあるのはいつもの妙な視線ではない。むしろ、敬意に近いものだった。「最後までやる」きっぱりと言い、レインは次の生徒へ向かった。
轟音が一段と激しくなる。次々と触手が下りてきて、部屋の中を薙ぎ払った。一本が偽物を捕らえ、原形がなくなるまで押し潰す。別の一本が壁に叩きつけられ、どういうわけか現実の裂け目をさらに広げた。解放された生徒たちが逃げ込んでいるポータルが、大きくなる。
さらに2人を解放した。残ったのは、赤髪の少女とエリアスだけ。
「レイン、出る準備を! もう行きます!」
赤髪の少女へよろめきながら向かい、エイミーは切羽詰まった声で叫んだ。
「箱を絶対に持ってきてください!」
返事をする余裕すらなく、さらに多くの怪物がレインへ殺到した。
天井がさらに崩れた。ブラッド・エンペラーの真の姿が、ついに見えた。山のような肉塊だった。無数の目と口に覆われ、あらゆる面から触手が生えている。
レインは部屋を横切る新たな氷壁を築き、生徒たちと怪物を分断した。動くのもやっとの状態で赤髪の少女を解放すると、最後の犠牲者のもとへ向かうエイミーを手伝おうとした。
「その子を連れて出て」
エイミーは赤髪の少女を示して命じた。
「ここは私が終わらせます」
レインはためらい、エイミーの顔を確かめた。青白い顔。半分閉じた目。今にも気を失いそうなことは、誰が見ても明らかだった。
「あなたは――」
「すぐ後ろから行きます。黄金の箱を持っていって」
結局、レインに選択肢はなかった。彼女は箱を手に取ると、呆然としている少女を立たせ、そのまま出口へ誘導した。ポータルのそばでは、金髪の生徒がまだ他の者たちを逃がしていた。
[あなたはつくづく馬鹿ですね……自覚はありますか?]
エイミーは最後の生贄、エリアスへ向き直った。彼を縛る縄は、ほかの縄よりも太く、禍々しい力で脈打っている。
「必ず……ここから……出すから」
エイミーはそう告げた。少年には聞こえていないと分かっていた。
だが、儀式の溝へ自分の血を流し込む前に、巨大な触手が部屋を薙ぎ払い、エイミーへ一直線に迫った。
エイミーは身をかがめ、すんでのところでそれを避ける。触手は彼女のすぐ横に叩きつけられた。
少年の顔面に、直撃した。
部屋は崩壊の轟音に満ちているはずだった。それなのに、エイミーの中だけ音が消えた。
疲れ切った頭が、目の前で起きたことに追いつこうとする。エリアスに何が起きたのか理解した瞬間、全身を殴りつけられたような衝撃が走った。
触手は、彼の顔を潰していた。そこに残っていたのは、血と肉片が混じり合った、おぞましい塊だけだった。
息が喉で詰まる。限界まで疲弊した思考が、目の前の惨状を処理しようとしていた。
最後まで残っていた生徒が死んだことで、ナイトメアは完全に崩壊を始めた。部屋が激しく揺れる。
ブラッド・エンペラーの巨大な体は、崩れ落ちる天井の向こうからなおも降下してきた。視界が揺れ、端のほうに黒い斑点がちらつく。足から力が抜け、エイミーはエリアスの十字架のそばに膝をついた。
「だめ……! エイミー!」
レインの声が、ひどく遠くから聞こえた。エイミーは応えようとしたが、口が言うことをきかなかった。
鼻から、目から、そして首の切り傷から、血がにじみ続けている。酷使しすぎた能力は、彼女の体をとうに限界の向こうへ押しやっていた。
ぼやけた視界の中で、レインが混乱を切り裂くように戻ってくるのが見えた。両手から氷片を飛ばし、道をこじ開けている。黄金の箱は彼女の腰に固定され、その装飾された表面が、部屋に残ったわずかな光を受けてきらめいていた。
レインがたどり着き、霜に覆われた手でエイミーの肩をつかんだ。
「意識を保って」
心配を滲ませた鋭い声で、レインが命じる。
「あと少しで出られる」
体が持ち上げられる感覚があった。レインの意外な力に支えられ、二人はポータルへ向かってよろめきながら進む。
ブラッド・エンペラーの怒りの咆哮が、部屋の土台を揺るがした。怪物の巨体が、崩れた天井からさらにせり出してくる。最後の巨大な触手が、残った天井を粉砕し、二人へまっすぐ迫った。
レインは全力でエイミーを抱えて前へ進み、彼女の体をポータルへ投げ込むように押し出した。
「箱――」
後ろ向きに倒れながら、エイミーはどうにか言おうとした。
「持っている」
レインはそう答え、飛び込む。つい先ほどまで二人が立っていた場所に、触手が叩きつけられた。
ポータルに触れた途端、奇妙な感覚がエイミーの全身を包んだ。氷水の膜をくぐり抜けるような感触だった。
意識は急速に薄れていく。四方から闇が迫っていた。
すべてが黒く塗り潰される直前、最後に見えたのはレインの顔だった。向こう側でエイミーの崩れ落ちる体を受け止めたレインは、普段の落ち着きを失い、苦しげに顔を歪めていた。




