Ch11- Bittersweet./ほろ苦い勝利(1)
前方に続く通路は狭く、二人が並んで進める幅はなかった。暗闇の中を駆け抜けながら、エイミーの息は恐怖で短く乱れていた。背後では、閉じた扉の向こうから、追手たちが爪で掻きむしるような音を立てている。あの扉がなければ、一瞬で殺されていたに違いない。
「行き先は分かっているの?」
レインが声を張り上げた。エイミーはうなずき、すぐに、この暗闇では見えていないと気づいた。
「分かっています」
走りながら答えた声は、いつになく上擦っていた。
吐きそう……。
体は完全に限界だった。全部片づいたら、少しは鍛えたほうがいい――いや、やっぱ無理。知るかそんなもん。一生ベッドの上で腐ってやる。
二人は湿った石壁に手をつき、それを頼りに足をもつれさせながら進んだ。永遠にも感じられる時間が過ぎたあと、通路が広がり、大きな部屋へとつながる。薄闇に目が慣れた瞬間、エイミーは凍りついた。
円形の部屋の壁沿いに、木製の十字架が13本並んでいた。そこには13人の生徒が縛りつけられている。体は力なく垂れ、血を流していた。それでも、まだ息はあった。
エイミーは部屋を見回し、中央の台座で視線を止めた。そこには、精緻な装飾を施された黒い箱が置かれている。表面には複雑な記号が刻まれ、上部には黄金の錠前がついていた。二人がそもそもこの建物に入った理由は、あれだった。
「ここは何?」
レインは生徒たちを険しい眼差しで見回し、その視線をエイミーへ移した。
「……生贄の部屋です」
エイミーはかすれた声で答えた。ぞわりと恐怖が全身へ広がっていく。実際に目の当たりにした光景は、どんな漫画のイラストよりもずっとおぞましかった。
今日こそ、人生で一番ひどい日かもしれない……。
レインはすぐそばの生徒へ駆け寄った。
「まだ生きてる」
エイミーも膝を震わせながら、別の生徒へ近づいた。短い赤髪の少女だ。どう見ても15歳を超えてはいない。腕や額の切り傷から血が流れ、床に刻まれた浅い溝へ集まりながら、複雑な模様を描いていた。
「下ろさないと」
そこで言葉を切り、エイミーは箱を示した。
「あの箱も、黄金の鍵で開くものです。私たちがここへ来た理由は、そもそもあれですから」
レインは箱を見やり、エイミーにうなずいた。意識をそちらに残しつつも、まずは少女の手首を縛る縄へ手を伸ばした。
その指先が縄へ近づいた途端、耳をつんざくような絶叫が部屋中に反響した。意識を失っていたはずの少女の目が、かっと開く。そこにあったのは、白く濁った眼球だけだった。口が不自然なほど大きく開いた。
「Alblagtung thanki shadma. Sehlet hhst mall sbeid」
人間のものではない声で、少女が言った。
は? 何、今の。
レインは素早く少女から距離を取った。
「触らないで。拘束には呪いがかかっている」
この惨状を前にしても、その声は落ち着いていた。
頭上から、淡い赤い光が差し込んできた。床を走る血の溝が、不吉な深紅に光りだす。石床に刻まれた巨大な儀式の魔法陣が、血の光に浮かび上がった。
「魔法陣を壊さないと」
エイミーは焦りながら部屋を見回した。
「漫画では――じゃなくて、私の能力によると、この人たちの魂がナイトメアを維持する燃料にされています」
「……」
レインは数秒、黙ったままエイミーを見た。聡いレインなら、その意味にはもう気づいているはずだった。
生贄の半分以上を殺せば、ナイトメアは崩壊を始め、外へ出られるようになる。実際、原作でザイドとレインが脱出した方法はそれだった。厳密には彼らが直接殺したわけではない。怪物との戦闘に巻き込まれ、結果的に犠牲になっただけだ。
「顕現しようとしているものを解放せずに、どう壊すの?」
レインは、脳裏をかすめたはずの選択肢を無視することにしたらしい。
「リブリス」
エイミーはささやいた。
「何か案ないの?」
[私がどうにもできないことくらい、あなたも分かっているでしょう]
「お願い」
エイミーは声を低くした。
「もう一度能力を使ったら、今度こそマジで頭が破裂しそうなの」
[……できることなら、そうしています。ですが、どうしても無理です。少なくとも、今の姿では直接介入できません]
足音と、歯を鳴らすような甲高い音が、二人の入ってきた通路から響いた。連中が、この部屋まで入り込んできたのだ。
最初の怪物が部屋へ飛び込んできた。人間の皮をかぶった姿が溶け落ち、手足も目も多すぎる醜悪な本性が露わになる。その背後から、終わりの見えない群れが続いた。もはや、人間のふりを取り繕うつもりすらないらしい。
レインが目を見張る速さで動いた。両手に霜をまとわせ、そのまま前へ突き出す。床から氷の壁がせり上がり、入口を一時的に塞いだ。
「あれでは長くは持たない」
戦闘態勢を取りながら、レインが告げる。
うわ、これ絶対痛いやつ……。
エイミーは目を閉じ、意識を集中させた。負荷はすぐに襲ってきた。能力を限界以上に引き出した途端、こめかみを貫くような痛みが走る。鼻から血が止めどなく流れた。それでもエイミーは、答えを求めてさらに踏み込んだ。
耳鳴りが始まる。音はどんどん大きくなり、閉じたままの目から涙がこぼれた。次に流れたのは、血だった。求める答えは、ひどく遠い場所にあるように思えた。それでも押し込み続けた末に、エイミーはついにそこへ届いた。
知識が一気に脳へ流れ込み、疲れ切った顔にかすかな笑みが浮かんだ。
時間を無駄にはできなかった。エイミーは台座へ向かい、記号を調べた。そのいくつかには見覚えがある。リリエンヌ教授の授業で見たものや、漫画の中でたまたま目にして、なぜか頭に残っていたものだ。もちろん、それらが実際に何を意味しているのかはまったく分からない。だが、分かる必要もなかった。
「魔法陣は壊せるの?」
レインはエイミーと、すでにひび割れはじめた氷壁のあいだに立った。指先で氷がぱきぱきと鳴る。
異質な情報が、痛みを伴ってエイミーの頭へ流れ込んでくる。軋む頭の中で、答えだけが組み上がっていった。
「壊すには、この儀式に組み込まれていない人間の血が必要です。あの13人以外の誰かの血……私たちの血なら、エネルギーの流れを逸らせるかもしれません」
それがどういう理屈なのか、エイミーにはさっぱり分からなかった。ただ、今さら自分の能力にケチをつけるつもりはない。
レインはためらわずにうなずいた。
「私が先にやる」
エイミーが止めるより早く、レインはブーツに隠していた小さなナイフを抜き、手のひらを切った。血に濡れた手を最も近い溝に押し当てると、赤い光が脈打った。意識のない生徒の一人を縛っていた縄が、わずかにほどけた。
マジで効いてる。この能力、チートすぎるでしょ!
エイミーはひと呼吸置き、レインが差し出したナイフを受け取った。手のひらへ突き立てると、痛みに顔が引きつる。それでも、自分の血で濡れた手を別の溝へ押し当てた。
氷壁が砕けた。偽物たちが部屋へなだれ込んでくる。その姿は液体のように歪み、うねっていた。
レインが前に出た。銀色の髪が舞い、体から波のように冷気が噴き出す。
「私が食い止める。あなたは続けて!」
エイミーは無我夢中で動いた。溝から溝へ移り、自分の血を儀式の経路へ塗りつけていく。触れるたびに、別の生徒の縄がほどけていった。
だが、進みは遅すぎた。術式を一つ乱すたびに、大量の血を奪われる。一方、レインはすでに戦闘の只中にいた。突っ込んできた最初の偽物二体を、氷の槍が貫く。次の偽物たちは、押し寄せた冷気で動きが鈍った。
それでも、敵は止まらない。レインに引き裂かれてもたちまち再生し、次々と襲いかかってくる。
「エイミー」
部屋の中央へ下がりながら、レインが新たな氷の障壁を作った。
「魔力がもう長くもたない。急いで!」
エイミーはすでに4人を解放していた。意識のない体が、床へ崩れ落ちている。5人目の拘束が外れかけたところで、現実そのものに、ひび割れた結晶のような波紋が走った。部屋の端に、ポータルらしきものが形を成しはじめる。
エイミーの顔に一瞬、笑みが浮かんだ。だが、すぐに表情が強張る。上方の暗闇から、腹の底に響くような笑い声が部屋に反響した。石の天井に亀裂が入り、のたうつ肉塊と、無数の目が覗く。
ブラッドエンペラーインカネーション(血の化身)が、目覚めようとしていた。




