Ch10- Sus./あやしい(1)
エイミーとレインは、集合場所へ向かって引き返していた。二人の足音は、不気味なほど床に吸い込まれていく。周囲のすべてに神経を尖らせていなければ、エイミーも気づかなかったかもしれない違和感だった。
「もしかして……」
レインが小声でつぶやく。
やはり、彼女はもう気づいていた。
「大広間へ向かう道……ですね」
エイミーは声を落とし、レインの言いかけた先を口にした。
さりげなくレインの様子をうかがう。彼女はしばらく前から、険しい表情を崩していなかった。このままではまずい。これから先、監視呪文は音を拾うだけでなく、こちらの様子を見ている可能性もある。
「レイン、どこか痛みますか? 私も少し気分が悪くて……同じ傷んだものを食べたのかもしれません。ずいぶんつらそうに見えます」
エイミーは何気ない調子を装い、当たり障りのない言葉に警告を忍ばせた。
レインの銀色の瞳がわずかに細まり、唇が引き結ばれる。少し考え込んだあと、彼女はエイミーの意図を察したように、ゆっくりとうなずいた。
「いいえ、大丈夫……」
そう小さく答えると、表情はいつもの平静さを取り戻していく。
乗ってくれた。ありがたい。おそらく、彼女も今の状況の大半を察している。
ナイトメア。
原作では、そう呼ばれていた。この世界におけるダンジョンのようなものだ。ただし、もっと気味が悪い。そして、それぞれの性質に応じた弱点を持っている。
今回のナイトメアは特別だった。ブラッド・エンペラーが、自らの化身をアカデミー内に顕現させるために作ったものだからだ。原作では、ここに閉じ込められるのはザイドとレインだった。
最終的に二人は脱出に成功する。だが、閉じ込められていた他の12人の生徒は助からない。けれど今回は、全員を逃がしてみせる。
ああもう……なんで私なの……。
この場所を見つけたのがクロウだったなら、あの壊れ能力で強引に突破していたはずだ。でも今ここにいるのは、よりによってエイミーとレインだ。そもそも、なぜレインが自分についてきたのかも、いまだに分からない。
分かれるの、やっぱり失敗だったかも……。
問題は時間制限だった。黄金の鍵がこの建物に入った瞬間から、カウントダウンは始まっていた。呪文によって化身が目覚めるのも、時間の問題だ。だから急ぐ必要がある。
とはいえ、今はそれを悔やんでいる場合ではない。クロウ側がどうなっているのか確認しなければ。リブリスが離れた場所からでも連絡を取れるとは知らなかったが、できると分かった以上、使えるものは最大限使う。
「リブリス」
レインに聞こえないよう声を落とし、エイミーはささやいた。
「今、クロウはどこ?」
[おや、今さら私に話しかける気になったんですか? あのいかにも訳ありな少年のところに、私を冷たく置き去りにしておいて?]
エイミーは呆れて天を仰ぎたい衝動をこらえた。
「……こっちは命がかかってるんだけど」
[仕方ありませんね。彼らは集合場所で待っています。クロウは心配しているようです。30秒おきに時計を確認しています。それと……あなたたちのコピーは、すでに到着済みです。まあ、あなたもそこまでは想定済みでしょう]
コピー。それこそが、このナイトメアの特性だった。
誰かがこの偽りの現実に入ると、その被害者に化けた怪物が現実世界へ出ていく。ナイトメアの発覚を防ぐための安全装置だ。作られてから今までに、エリアス・ヴァーンを含む13人の生徒がすでにすり替えられていた。
縄で縛られていた少年は、エリアス・ヴァーンのコピー。つまり、ナイトメアへ通じる主要な入口だった。彼がいる部屋へ近づいただけで、二人は即座にこの世界へ運ばれたのだ。
原作では、13人の犠牲者は一人も助からない。レインとザイドがこの偽りの現実に閉じ込められている間、それぞれのコピーは主人公一行を騙す寸前までいった。だが本物のザイドとレインがぎりぎりで脱出し、警告する。そこから戦闘に発展する流れだった。ただ、今回はその最後の部分は必要ないはずだ。
エイミーの先行知識と、リブリスから得られる情報がある。クロウへ危険を知らせる必要がない分、閉じ込められた生徒たちを見つけ出し、ここから連れ出すための時間を確保できる。
「状況を教えて」
エイミーは小声で言いながら、少し前を歩き、廊下を警戒しているレインへ目を走らせた。
[3分ほど前、あなたとレインのコピーが集合場所に現れました。かなり……よくできています。ただ――待ってください。あなた、よくそんな抜け穴を見つけましたね。そこまでは予想していませんでした]
リブリスの言葉に、エイミーはつい頬を緩めた。
「抜け穴って?」
[あのコピーたち、私の存在をまったく認識していません。クロウがあなたのコピーに私を渡そうとした時でさえ、まるで反応しませんでした。どうしてこうなると分かったんです?]
「確信があったわけじゃない。ただ、私たちの関係までは……その、再現しきれないんじゃないかって踏んだだけ。原作では、あいつらは世界樹から直接得た知識をもとに相手をコピーできるって、作者がわざわざ強調していた。でも、あんたはあんただし、私は私。私なんてこの世界に来てまだ日が浅いし、あんたは……まあ、そもそもこの世界の外側みたいな存在でしょ」
[つまり、駄目元で試したら、たまたまうまくいっただけですね]
「……そう」
[……]
[だからといって、今回の件を許したわけではありませんからね。最初から私に言ってくれれば済んだ話でしょう]
「別に最初からこうするつもりだったわけじゃないの。うまくいくかも分からない、その場の思いつきだったし」
[チッ!]
子どもか……?
「あとで埋め合わせするから。……何が欲しい?」
[……何をお願いしても?]
その瞬間、エイミーは嫌な予感に襲われた。だが、無理やり考えを追い払う。いくらなんでも、そこまでろくでもない願いではないはずだ。きっと。……たぶん。
「うん、いいよ……」
[では、あとで伝えます。まずは、生きてそこから出てください]
エイミーはその先を想像して身震いしたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに黙って歩き続ける。二人は、集合場所を模した空間へ近づいていた。
そして到着した途端、エイミーの血の気が引いた。そこで何が待っているか分かっていた。それでも、悪寒を抑えることはできなかった。
そこに立っていたのは、『クロウ』と『アッシュ』と『ライラ』だった。
彼らのコピーでも、彼らに似た何かでもない。ただ、彼らを演じている怪物だ。この建物のあちこちに、生徒のふりをした怪物がいる。
怪物たちの皮膚は、内側で何かが這い回っているかのように不自然に波打っていた。体のつくりも、ほんの少しずつおかしい。手足はわずかに長すぎ、関節はありえない角度に曲がっている。顔には、コピー元の特徴がぼんやりと残っていた。けれど皮膚は骨に張りつくほど引き伸ばされ、笑うたびに口が人間ではありえないほど大きく裂ける。
エイミーとレインには、その瞳が底なしの黒い虚空にしか見えなかった。奥深くに、針先ほどの冷たい光だけが沈んでいる。
レインが足をもつれさせ、銀色の目がほんの少し見開かれる。レインにしては、それだけで悲鳴を上げたに等しい反応だった。エイミーは彼女の腕をつかみ、警告するように力を込めた。
「気をつけて。床に少し段差があります」
背筋を這い上がる恐怖を押し殺し、あえて何気ない声で言う。
レインの顔は完全にこわばっていた。頬や口元が、どうにかいつもの無表情を保とうとしている。友人の姿をかぶったおぞましいものを見て、その瞳孔がごくわずかに開いていることに気づけるのは、最初から注意して見ている者だけだろう。
「ええ」
レインはなんとか声を出した。普段以上に平板な響きだった。
「ありがとう」
エイミーは深く息を吸ってから、落ち着いた足取りで一団へ近づいた。心臓が肋骨を叩くように暴れている。怪物たちが揃って彼女へ顔を向けた。
近づきたくない。本能はそう叫んでいた。それでもエイミーは、作り慣れた微笑みを保つことだけに集中した。
「やっと来たか」
『アッシュ』がうんざりしたように言い、腹を押さえるふりをした。
「腹減ったんだけど。頼むから、例の紙は見つけたって言ってくれよ」
「いいえ、まだ何も見つかっていません」
エイミーは微笑みを崩さずに答えた。
『アッシュ』は、より大げさに腹を押さえてぼやいた。
「うわ、きついな。さっさと終わらせられると思ってたのに」
エイミーはただ微笑むだけで受け流した。
ナイトメアには、その性質に応じた弱点がある。そして、このナイトメアの弱点は「変装」だった。こちらが役を演じ続ける限り、怪物たちに正体を見破られることはない。
皮肉にも、エイミーはこういう演技ならかなり得意だった。
「もう少し探した方がよさそうです」
体は震えていたが、エイミーはよどみなく続けた。
「例の紙は東棟のどこかにあるはずです」
『クロウ』が重心を移す。その動きは、クロウ特有の落ち着きのなさを完璧になぞっているのに、精密すぎて逆に気味が悪かった。
「もう一度分かれよう。手分けした方がいい」
「そうですね」
エイミーは普段どおりを装いながら、新しい力を使うなら今が絶好の機会だと考えていた。
「今回は北側を調べてみたいです。レイン、一緒に来ますか?」
『ライラ』が一歩前へ出た。その動きは、本物のライラが疑わしげに踏み出す仕草を完璧に再現していた。
「へえ、いつの間にそんなに仲よくなったの……?」
[エイミー、とんでもないことが起きました!]




