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Ch9- Act 1./第一幕(1)

 リリエンヌ教授の授業が終わり、休み時間に入っていた。次の授業が始まるまで、あと1時間ほど。もう先延ばしにはできない。手早く片づけるしかなかった。


[緊張していますね]


 エイミーは深く息を吸い込んだ。指先で、リブリスを収めた鞄の縁を無意識になぞった。


「してない……」と小さくつぶやいた。


[心拍数が上がっています。統計上、現在の生理反応はかなり強い不安を示しています]


「……緊張じゃない。ただ……作戦として警戒してるだけ」

[……そういうことにしておきましょう]


 本の指摘は間違っていなかった。B棟へ向かう足取りは、一歩ごとに重くなっていく。これから起きることを知っている。その事実が意識の奥に重くのしかかっていた。もちろん、エイミーがそれを認めることはないが。


 周囲にはアカデミーの敷地が広がっている。学生たちはいつもの朝と変わらず、それぞれの日課をこなしていた。誰も、何も知らない。


 クラスBの生徒、13人。


 それが、今回死ぬ人数だ。漫画を読んでいたころは、遠い物語の展開にすぎなかった数字。けれど今、その建物に近づけば近づくほど、その数字は耐えがたい重みを帯びていく。この世界のすべてと同じように、もう紙の上の出来事ではなかった。


 犠牲になる一人ひとりは、人間だ。希望があり、夢があり、もしかしたら帰りを待つ家族だっている。頭では分かっているのに、エイミーはまだ実感として飲み込めずにいた。彼らはこの世界で確かに生きていて、エイミーが何もしなければ、13人分の命が消える。


 そう考えるだけで、言葉にできない不快感が胃の奥から込み上げてきた。


 エイミーは、この漫画がどんな世界を舞台にしているのか忘れたわけではない。むしろ、全力で忘れようとしてきた。これから生まれて初めて死体を見ることになる。その事実が、17歳の自分にはどうしても現実のものと思えなかったから。


 実際に見たら、自分はどうなるのだろう。吐くのか。取り乱して、キャラを保てなくなるのか。それとも、いざ経験してみれば、どうしてあんなに怖がっていたのか不思議に思う程度のものなのか。


 彼らを自分とは関係のない背景キャラだと考えるのは、きっと簡単だった。けれどこの世界でたった2日半を過ごしただけで、エイミーにはもう分かっていた。ここにいる人たちは、地球にいた人たちと何も変わらない。


「変えなきゃ。死なせちゃだめだ」


 リブリスに話しかけるというより、自分に言い聞かせるように、エイミーはささやいた。


「私が、変えないと」

[……本当に、あなたがやらなければならないのですか]

「……」

[あなたは、本当に彼らを救えると思っていますか……?]


 救えるのか。もちろん、やってみるつもりではいる。けれど心の底では、全員を救うのはほとんど不可能だとも分かっていた。もっと自分が強ければ、話は違ったかもしれない。だが今の力で5人を超えて救おうとするのは、命を捨てに行くようなものだ。


[その重荷まで、自分の義務として背負う必要はありませんよ、エイミー]

「……そうだね」


 エイミーはそれを認め、疲れた息を吐いた。


「なんで私、これを自分の責任みたいに考えてるんだろ……?」


 そうだ。救えるなら救う。そのために、自分の命まで危険にさらすつもりはない。エイミーはヒーローではない。何より死ぬのが怖くて、今でも高いところや暗い場所が少し苦手な、ただの10代の少女なのだから。


 そう自分に言い聞かせようとした。それでも、分かっていた。この運命を変えられるのは自分だけだ。もし彼らが死んだら、それはエイミーが何もしなかったからだ。


「あー、こういう空気ほんと嫌……」


 エイミーは頭を振り、沈みかけた思考を追い払おうとした。こんなふうに悪い方向へ考え込むのは、久しぶりだった。


 こんなとき、普段ならSNSを開いて誰かに毒コメントのひとつでも飛ばすか、某有名人の人生がなぜ世間全体の問題なのかについて、長文のお気持ち表明でも投下しているところだ。だが今は、それもできない。


「リブリス、いつもの皮肉っぽい冗談でも言ってくれない……?」

[そこまでですか]

「うん」

[分かりました。では……意思を持つ魔導書と、とても醜い予言者を掛け合わせると何になるでしょう?]

「……」

[答えは『醜導書』です。暗い予言がぎっしり詰まっているのに、見た目がきつすぎて誰も読みたがらない本ですね!]

「……」


 それ、どこが面白いの……?


[おかしいですね。あなたのストレス値が上昇しました]

「……あんたを燃やしたら、痛みは感じるの?」

[痛覚はありません。私は燃えることも、壊れることもありませんので]


 エイミーは呆れて首を振り、そのあとは黙って歩き続けた。


 B棟が見えてくると、クロウたちはすでに待っていた。アッシュは気楽そうに石柱へもたれ、ライラは腕を組んでいる。レインは少し後ろに控え、銀の瞳で近くを舞う二匹の蝶を追っていた。エイミーが近づいた瞬間、クロウの黒い瞳がこちらを捉える。


「来たか」


 問いかけではない。ただ事実を確認する声だった。


 エイミーはうなずいた。手の震えは止まっている。先ほどまでのためらいも、もう完全に消えていた。表に出ているのは、落ち着いた態度だけだ。


 もちろん、見せかけだ。


 そういう演技は昔から得意だった。不快感を隠すことは、父親と暮らしていたころに身につけた技術の一つだったから。


「それで」


 ライラがこわばった顔で言う。


「準備はいいの?」


クロウはうなずいた。黄金の鍵を指先でゆっくりと回している。


「エイミー、ここに最初の兆しがあると言っていたな。具体的には何を探せばいい?」


 エイミーは浅く息を吐いた。外気が、肌に張りつく緊張を冷ましていく。すべてを話すわけにはいかない。そんなことをすれば、彼女の役割そのものが崩れる。そこで軽く首を傾け、感情を悟らせない表情を整えてから口を開いた。


「中に入って、探します」


 エイミーは鞄の肩紐を直しながら、曖昧に答えた。


「最初の兆しは、この中にあるはずです」


 しかも、それはとびきり最悪な形で現れる。


 アッシュが短く息を吐いた。


「これ、昼休みつぶれるやつ……?」

「必要ならな」


 クロウはエイミーを慎重に観察しながら答えた。指先では、まだ鍵をもてあそんでいる。


「ドレイク教授の授業までには終わるんだな?」


 エイミーの唇に、ごく薄い笑みが浮かんだ。


「はい」


 少なくとも、これはすぐに終わる。

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