Ch8- A cute voice./可愛い声(1)
エイミーは、目の前に並んだ豪華な朝食をじっと眺めていた。これが本当に自分の朝食なのだと、まだうまく飲み込めない。
地球にいた頃、朝食といえば慌ただしくつかんだグラノーラバーか、たまの贅沢でも電子レンジで温めたインスタントオートミールくらいだった。ところが今朝、ここで待っていたのはちょっとしたごちそうだ。焼きたてでまだ温かいパン。見慣れないが、どれもおいしい果物。蜂蜜をかけた濃厚なヨーグルト。香り高いお茶の入ったポット。シナモンと、もうひとつ正体のわからない香りが漂っている。
本は寮室の窓辺に浮かび、朝の光に包まれたアカデミーの敷地を眺めているようだった。背の高い窓から差し込む陽光が、磨き上げられた木の床に金色の模様を描いている。
「ねえ」エイミーは、洋梨と苺を合わせたような味の紫色の果物をかじりながら言った。「私、もっと地球が恋しくなると思ってた」
[おや? それは意外ですね]
本がページをさらりと鳴らし、エイミーの方へ向き直る。
「うん」エイミーはフォークを適当に揺らした。「だって、普通はホームシックになるでしょ? 自分のアパートとか、ノートパソコンとか、ネットとか……あと、命の危険に怯えなくていい生活とか」
紫色の果物へ視線を落とす。
「でも、正直、そこまで不安ってわけじゃないんだよね。もちろん帰りたいとは思ってるけど、パニックになるほどじゃないというか」
[人間の適応力というものは、実に見事ですね]
エイミーは鼻で笑った。「それ、遠回しに私の生活水準が低いって言ってる?」
[違います。ただ、あなたの住環境に求めるハードルが、控えめに言っても相当低いことは確かでしょうね]
「どういう意味? 私のアパートだって、それなりに……住める部屋だったんだけど」
エイミーは温かさを味わうように、お茶をひと口飲んだ。「あーはい、認める。ボロかったよ。でも、私はあのボロ部屋が好きだったの。にしてもここは――」
天蓋付きベッド、凝った家具、専用の浴室まで備えた広い部屋を指し示す。
「――さすがにおかしいって。ほとんど五つ星ホテル暮らしじゃん」
[クラスSの宿舎は、学習と休息に最適な環境を提供するために設計されています。最高の能力を発揮するには、肉体と精神の双方に十分な栄養と快適さが必要です]
「わかったってば。特別な人間だけの特権ってやつね」
エイミーはパンを一切れ取り、黄金色の蜂蜜を塗った。
「それにしても、スマホもネットもない生活って、思ったよりこたえないんだね。向こうじゃ、ずっとスマホに張りついてたのに」
本がテーブルの近くへ漂ってくる。
[それどころではない重大案件に追われていますから。世界の終末を防ぐとなれば、SNSを眺めている場合ではありません]
「確かに。『学生が何人も殺される場所へクロウを案内する』なんて厄介事を抱えてたら、スマホどころじゃないか」
[実行するつもりですか?]
エイミーはため息をついた。さっきまでの食欲が少し引いていく。「つもりもなにも、私に選択肢ある? 私が案内しなかったら、ほかの誰かがやるだけでしょ。だったら、せめて私が関わって、少しでも状況をコントロールできる方がいい。もしかしたら……変えられるかもしれないし」
[なんとも高潔なお考えですね]
「その『高潔』とかいうの、やめて」エイミーは追い払うようにフォークを振った。「私は現実的に動いてるだけ。世界が終わったら私も死ぬんだから。忘れてない?」
本のページがひらりと揺れた。エイミーには、すでにそれが本なりの肩をすくめる仕草に見えるようになっていた。
[そういうことにしておきましょう]
エイミーは、心地よい静けさの中で朝食を終えた。時おり、部屋の中を漂う本へ視線を向ける。そばにあるだけで不思議と落ち着くのだと、エイミーは気づいた。
見知らぬ顔ばかりで、死に方のバリエーションまで豊富すぎるこの異世界で、本はいつの間にか、唯一変わらずそばにいる相棒になっていた。
「そういえば」エイミーはティーカップを置いた。「今気づいたんだけど」
[何ですか?]
「あんたのこと、何て呼べばいいの? 頭の中ではずっと『本』って呼んでたけどさ」
[実際、本ですからね]
「そうだけど、変じゃん。何か呼び名があった方がよくない?」
エイミーは空になった皿を脇へ押しやり、身を乗り出した。
「名前ないの?」
[名前?]
少し間を置いて返ってきた声には、またあの金属的な響きが混じっていた。ときどき顔を出す、奇妙なロボットじみた声だ。
「そう、名前。『ねえ、あんた』とか『本』以外で呼べるやつ。あと、なんでたまに声がそうなるの?」
本がほんの少し後ろへ下がる。
[そうなる、とは?]
「その、機械音声みたいなやつ。今もそうだったでしょ。名前のこと聞いたら、声が変わった」
[おそらく、あなたの気のせいでしょう]
エイミーは目を細めた。「ちょっと、私がそこまでバカに見える? ……いや、これには答えなくていい。質問に答えて」
本は数秒ほど、何も言わずに浮かんでいた。
[先ほどの質問にお答えしましょう]
やがて、いつもの声に戻って言う。
[名前についてです]
露骨な話題逸らしに、エイミーは訝しげな視線を向けた。けれど、ひとまず追及しないことにした。今のところは。「そうそう。で、あるの? ないの?」
[……ありません。少なくとも、あなたが発音できる、あるいは意味を読み取れる形のものは]
エイミーは片眉を上げた。「意味深すぎる。何、あんたの本名って、聞いたら正気が吹っ飛ぶ邪神系のやつ?」
[そこまで劇的なものではありません。ただ、言語による伝達に適さない形式で存在しているだけです]
「じゃあ、何て呼べばいいの?」
[『本』では不十分ですか?]
エイミーは顔をしかめた。「不十分でしょ。人を『人間』って呼ぶようなものじゃん。普通に変」
[私は人ではありません]
その言い方に、エイミーは一瞬、言葉に詰まった。浮かぶ本を見つめ、それからもう一度口を開く。
「そうかもね」
言葉を選ぶように続ける。
「でも、あんたはただの物じゃない。ちゃんと『誰か』だよ。考えるし、話すし、意見だってあるでしょ。まあ、ほとんど皮肉だけど。だったら、名前くらいあってもいいじゃん」
本はエイミーの言葉を考え込むように、ゆるやかな円を描いて漂った。
[私たちの意思疎通が、あなたにとってより快適になるのであれば……呼び名を受け入れることは可能です]
エイミーはにっと笑った。「よし! じゃあ『皮肉フワフワ丸』は?」
[断固拒否します]
「ブッキー・マックブックフェイス?」
[この会話を始めたことを後悔し始めています]
エイミーは笑い、膝を胸元に引き寄せた。
「ごめんごめん。ちょっと真面目に考えるから」
頬杖をつき、しばし考え込んだ。
「まず、女性寄りの名前と男性寄りの名前、どっちがいい?」
[どちらにも強いこだわりはありません。ですが、あえて選ぶなら女性寄りの名前でしょうか]
「なるほど……じゃあ、アテナとかマーリンとか?」
[ずいぶん定番どころですね]
「発想が貧困で悪うございましたね」エイミーはむっとした。「じゃあ、あんたなら何を選ぶの?」
本は少しの間黙っていた。
[……わかりません]
エイミーは呆れたように息を吐いた。「……結局、私が全部やる羽目になるんだよね……」そう言って立ち上がり、小さな部屋の中を歩き回り始める。「じゃあ……グリモラ? グリモワールっぽいし、ちょっと不吉な響きもあるから、あんたの謎めいた雰囲気に合うんじゃない?」
[安直です]
「クロナ? あんた、物語の進行とか時間とかに関わってるし」
[響きが悪いです]
エイミーは苛立たしげに両手を振り上げた。「あんた全然協力する気ないじゃん! もう、それなら……」
そこで、文学の授業で耳にした言葉を思い出し、口を止める。「リブリス。ラテン語で『本』って意味だった気がする。少なくとも、本に関係する言葉のはず。別に女性名って感じじゃないけど、そこまでこだわりないって言ったよね?」
[……まあ、悪くはないかもしれません]
「じゃあ、リブリスにしよう」エイミーは勝ち誇ったように笑う。「不満があるなら、もっといい案を出してくれてもいいけど?」
[リブリス]
その名の響きを確かめるように、本が繰り返した。
[……許容範囲です]
「もうちょっとくらい喜んでくれてもよくない?」
[嫌いだとは言っていません。ただ、許容範囲だと申し上げただけです]
「じゃあ……そう呼んでいい? リブリス?」
また少し間が空いてから、返事があった。
[はい。構いません]
「よし」エイミーは微笑んだ。変なところで達成感がある。「じゃあ、リブリス。名前問題も片づいたことだし、今日はどんな地獄が待ってるか確認しないとね」
エイミーは、起きてすぐ届けられた時間割へ手を伸ばした。
羊皮紙は厚手のクリーム色で、一週間分の授業予定が優美な文字で記されていた。エイミーは装飾の多い筆跡に目を細め、複雑な時間割を読み解こうとする。
時間割を少し離して掲げ、角度を変えながら目を通した。「えーっと、今日は……9時からリリエンヌ教授の『特殊能力チャネリング技法』、昼食後に『魔法応用史』、それから……これ、『戦闘応用』? ドレイク教授?」
エイミーはベッド脇の時計を見て、うなだれた。
誰か助けて……




