Ch1- A mistake./ミステイク(2)
視界が少しずつ戻ってきた。エイミーは何度かまばたきをして、どうにか焦点を合わせようとする。見慣れた天井ではない。目に入ったのは……雲? いや、雲ではない。もっと硬く、はっきりと形のある何か。あれは、惑星……?
「……は?」
そう呟きながら、彼女は身を起こした。
ベッドの上ではなかった。自分のアパートの中ですらない。
エイミーがいたのは、見渡すかぎり果てしなく広がる大理石の床の上だった。周囲には高層ビルよりも高い柱が立ち並び、頭上の巨大なドームを支えている。そのドームは陽光を閉じ込め、これでもかというほど増幅しているようだった。空気には、雷が落ちる直前のような匂いが漂っている。
エイミーは自分の腕を思いきりつねり、痛みに顔をしかめた。夢ではないらしい。なら、幻覚? 薬? いや、何が起きてるわけ……?
「目が覚めたのですね」
声がした。どこか一か所からではない。全方位、あらゆる場所から、同時に響いてくるような声だった。「よろしい」
エイミーは跳ね起き、声の主を探して慌ただしく周囲を見回した。
「もしもし? こ、これって何かのドッキリ? どっかに隠しカメラとか――」
その瞬間、何もない空間に人影が現れた。エイミーはびくりと身をすくませた。
女だった。もっとも、そこに立つ存在をそんな単純な言葉で呼んでいいのなら、の話だ。美顔フィルターの存在意義を奪いかねないほど整った顔立ち。身長は2メートルを優に超え、肌は雪のように白い。瞳には星々が閉じ込められているようで、長い髪は溶けた金のように空中を流れていた。
エイミーは思わず後ずさり、その場に尻もちをついた。
「は? なに――」
そして強く目をこする。
「……もしかして、これ本当に夢……?」
「これは夢ではありません、エイミー・ステイク。幻覚でもありません」
エイミーは言葉を失った。何度か息を吸って、ようやく声を絞り出す。
「私……あんたと会ったことあった? なんで本名まで知ってるの?」
「エイミー。私はあなたについて、多くのことを知っています」
その声は、耳ではなく身体の内側に直接響いてくるようだった。
「毎朝のスキンケア。7歳のときの、今でも焼きついている記憶。あなたが美術学校を辞めた本当の理由。それから……ベッドの下に隠してある写真のことも」
「!?」
エイミーの頬に、かっと血が上った。
「あんた何者? 気持ち悪すぎるんだけど」
天上の存在は、エイミーの反応を楽しむように微笑んだ。
「私は、いくつもの世界でさまざまな名を持っています。ですが、あなたが『クエスト・フォー・アヴァロン』として知る領域では……そう、ただ『女神』と呼ばれています」
エイミーはぽかんと女神を見た。頭が追いつかない。相手の言葉を理解しようとして、喉の奥から引きつった笑いが漏れた。
「へえ……うん、なるほど。つまり、これがあんた発案のドッキリってこと? まあ、手が込んでるのは認める。マジで。でもさ……こっちは寝るので忙しかったんだけど。タイミング最悪って分かる?」
笑いは少しずつしぼんでいき、代わりに、じわじわと疑念が滲み出してきた。エイミーは拳を握り、身構える。
「というかさ。女神サマだか何だか知らないけど、これ完全に犯罪だからね?」
その存在は片眉を上げ、首をかしげた。
「犯罪?」
エイミーは大真面目に頷いた。もう、軽口を叩く余裕はなかった。
「そう。完全に犯罪。夜中に人を勝手に部屋から連れ出して、こんなわけ分かんない場所に放り込むとか、普通にアウトだから! だいたい、私は――」
「口数が多いですね」
女神が手首を軽く振った。
その瞬間、エイミーの口が文字どおり消えた。唇があるはずの場所には、つるりとした皮膚だけが広がっている。エイミーは口があったはずの場所を必死に探った。悲鳴を上げようとしても、一音も出ない。
何、これ……。
エイミーの心臓が、どくどくと速くなっていく。それでも手を止めることができなかった。
「あなたのレビューです」
女神は、エイミーのパニックなど目に入っていないかのように言った。
「『本物の人間の感情を一度も経験したことがなさそうな作者が作った、陳腐な寄せ集め』。『印刷された紙より薄っぺらいキャラ』。『創作講座で反面教師として扱うべき、インクの無駄』」
宙に浮かんだ青いスクリーンに、その投稿が映し出された。女神が読み上げるのに合わせ、画面はコンピューターウイルスのように増殖していく。分裂した何十もの画面が、エイミーのネット上の履歴を次々と暴いていった。ブログ記事。コメント。動画。彼女がネットに残してきた、ありとあらゆる痕跡。
現実そのものがバグっていくにつれて、エイミーの恐怖はさらに膨らんだ。もしかして脳卒中? 頭の中がブルースクリーンにでもなった? 昏睡中に、熱に浮かされた悪夢でも見てる? それなのに、何もかもが妙に生々しい。感覚も、思考も、嫌になるほどはっきりしていた。
女神が手を振ると、スクリーンは一斉に消えた。
「あなたは何年ものあいだ、この物語にずいぶん残酷な言葉を向けてきましたね」
ふいに、口元の感覚が戻った。
「わ、私は――……いや、待って。こんなの現実じゃない。ありえない」
エイミーは両手で目を覆った。
「幻覚だ。絶対そうに決まってる」
「これは現実です」
女神の声には、氷を含んだような硬さがあった。
「あなたが投げつけてきた言葉と同じくらいに」
「……どういう意味?」
「『批評家』。あなたは、自分をそう呼ぶのがお好きなのでしょう?」
女神の双眸が、ぞっとするほど鋭くエイミーを射抜いた。
「まさに、私が探していた存在です。理解しようともせずに壊し、誰かが魂を注いだものを嘲り、それを嬉々として行う」
エイミーは戸惑いながら頭をかいた。こんな状況で何を言えばいいのか分からない。しばらく黙り込んだ末、それでも意を決して口を開いた。
「えっと……何が起きてるのか、ほんとにさっぱり分かってないんだけど。さすがにちょっと理不尽すぎない? 人気作品なら、批判くらい受け止めるべきでしょ。客観的にダメなものを、いい作品だなんてこっちも嘘つけないし」
「客観的、ですか」
女神の片眉が上がった。同時に、エイミーの足が床から離れる。
「『完全なゴミ』や『読むくらいなら燃やしたほうが――』などと言っておきながら、客観性を語るのですか」
女神はそこで言葉を切った。完璧に整った顔から、すっと表情が抜け落ちる。その瞳は一瞬、どこにも焦点を結ばない空白になった。
「……読むくらいなら、燃やしたほうがまし……」
機械のように平坦で、空っぽな声。
エイミーの腹の底が、すっと冷えた。
「えっと……大丈夫?」
女神は一度、二度、まばたきをした。それから、何かを探るように首をかしげる。
「台詞……次の台詞は、何でしたか」
「台詞……?」
エイミーの声が、小さく漏れた。
女神は眉間のしわを深くし、片手を上げる。星明かりが渦を巻き、その手の中に琥珀色の本が現れた。表紙には黄色い三角形が描かれている。
女神は本を開くと、すさまじい速さでページを繰りはじめた。
「失礼しました。時折――」
声はもう、いつもの落ち着きを取り戻していた。
「台本を忘れるのです。大事な部分ではありませんが、細部は……。長く生きすぎました。少し待ちなさい」
ページを追いながら、女神は奇妙な旋律を口ずさみはじめた。
エイミーは呆然としたまま、女神の視線がページの上を滑っていくのを見ていた。
数秒が過ぎる。かすかな鼻歌だけが、広い空間に満ちていた。ふいに、女神がはっと顔を上げる。その佇まいに、ぱっと喜色が差した。
「ああ!」
女神は声を上げ、ぱん、と一度手を打った。間を置かず、本が消える。弾んだ声の名残を押し隠すように、女神は小さく咳払いをした。次に口を開いたとき、その声音は意識して優雅に整えられていた。けれど、ほんの少しだけ力みが残っている。
「では、続けましょう」
そう言って女神が手を動かすと、エイミーの体が宙に持ち上がった。
宙吊りになったエイミーは、むなしく足をばたつかせた。
「は!? 私、浮いてる!?」
女神は短く息を吐き、エイミーを一気に引き寄せた。鼻先が触れそうな距離まで迫る。
「人間、集中しなさい」
女神は鋭く言い放った。
エイミーはごくりと喉を鳴らした。ドッキリにしては手が込みすぎている。幻覚や夢で片づけるには、何もかもが生々しすぎた。何が起きているにせよ、これはもう、冗談で流していい状況ではなかった。
「女神様! 分かった、降参! 降参するから!」
エイミーは悲鳴まじりに声を上げ、両手を掲げた。
「待って、ほんとに何が起きてるのか分かってないんだけど。でも、これが私の毒舌レビューとか、ネットで好き勝手言ってた件なら……このへんで水に流してくれない? ただのネットの書き込みじゃん。誰もそこまで本気にしないでしょ! 本気にするのなんて、どうせ風呂にも入ってなさそうな引きこもりで、太古の昔から外に出ないタイプの連中でしょ」
その言葉――とりわけ「引きこもり」の一語が――女神の顔を怒りに歪ませた。
エイミーは、まずい、と直感した。
「卑小な生き物が……!」
女神はさらに顔を近づけた。もう鼻先が触れ合っている。「ただちに謝罪しなさい」
「え、えっと……」
エイミーは顔をしかめた。ここは謝って終わらせるべきだ。頭では分かっている。なのに、どうしても引き下がる気になれなかった。くだらない意地のせいか、それとも状況そのものが馬鹿げすぎていたせいか。
謝る? 好きでもない凡庸な漫画の、架空の女神を名乗る相手に?
「……謝らない」
女神がまばたきをした。
「謝罪を拒むのですか」
「そう。謝らない……」
エイミーはそこで引かなかった。震えそうになる声を、どうにか押さえ込む。
「そもそも、何を謝れっていうの? 事実を言っただけでしょ。あんただって、本当は分かってるんじゃないの……」
返ってきた沈黙は、痛いほど重かった。
やがて、女神の顔にゆっくりと笑みが広がる。ぞっとするほど、正気を疑う笑みだった。
やば。
エイミーの体が勝手に震えていた。これはまずい。完全にやりすぎた。いったん火消ししないと。
「あの、偉大なる女神様……? ごめん、でも……正直、私が悪いことをしたとは思ってないんだよね。言論の自由ってやつ。誰にだって意見を持つ権利はあるでしょ? 私の場合、それがたまたま『クエスト・フォー・アヴァロン』はクソって意見だっただけで」
どうにか平静を装ったが、声は最後でわずかに揺れた。
女神の笑みがさらに深くなった。真珠のように白く整った歯がのぞく。
「自由? 私の領域で無力に吊られたまま、その概念を持ち出すのですか。面白い」
女神が手首を返す。エイミーは大理石の床へ、どさりと叩き落とされた。
「痛っ! 普通に痛いんだけど……」
起き上がる暇もなく、床から金の糸が噴き出した。糸は彼女の手首と足首に絡みつき、きつく縛り上げる。
「は……ちょっと、何これ?」
エイミーは状況を呑み込めないまま、拘束から逃れようともがいた。
「それほどまでに、批評する権利が自分にあると信じているのですね」
女神の声は、不気味なほど穏やかになっていた。
「ならば、あなたに特別な権利を与えましょう。エイミー・ステイク」
女神が手を振ると、広大な大理石の広間が姿を変えた。柱はねじれながら伸び、天井は溶けるように消えて、見知らぬ星座で埋め尽くされた夜空へと変わる。エイミーの下の床は透明になり、そのさらに下では、無数の世界が巡っていた。
「あの……女神様?」
エイミーの声は小さくなっていた。さっきまでの虚勢は消え、恐怖を隠せていなかった。
女神が足元へ手を向ける。景色がまた変わった。眼下にある無数の世界のひとつが、急速に近づいてくる。高くそびえる尖塔。光るルーンが刻まれた通り。そこに広がっていたのは、ファンタジーRPGのロード画面からそのまま抜け出してきたような中世風の都市だった。
エイミーは息を呑んだ。知っている。この場所を、知っている。ファンアートやイラストで嫌というほど目にして、記憶に焼きついている場所だから。
エルドリアの王都。アカデミーのある街。
まさに『クエスト・フォー・アヴァロン』から、そのまま切り取ってきたような舞台だった。
目の前の光景に、胃がきゅっと縮み上がった。
「ま、待って。ちょっと待って。嘘でしょ。こんなのあり得ない。あんた、何する気――?」
女神は片膝をつき、二本の指でエイミーの顎を挟むと、耳元で囁いた。
「あなたは、その世界の欠点を一つひとつあげつらい、嘲って楽しんできました。ならば今度は、その身で味わうといい」




