9話 この世界、深い!
私は、ただただ圧倒されていた。外から見た時点で国立図書館の規模には感心していたが、建物の中に一歩足を踏み入れた瞬間、その印象は荘厳という言葉に変わった。
図書館は巨大な正方形の吹き抜け構造で、何階建てかも分からないほど高い天井には、まるで星のように輝くステンドグラスのドームが広がっている。そのドームからは、時間帯によって色を変える魔導光が差し込み、図書館内部をまるで夢の中のような柔らかい光で包んでいた。
本棚――それらはすべて空中に浮かんでいた。
重力という概念を否定するかのように、宙に浮いた巨大な本棚が層を成して配置されており、それぞれは薄い透明な魔法の道によって繋がれている。その上を、ローブを着た研究者風の人物が静かに歩く姿は、幻想世界の一場面のようだった。
「……すご……」
音を吸い込むような静寂の中、私は小さく息を漏らしていた。
ここは、心に浮かんだ目的や興味のある情報に応じて、自動で本棚の位置が案内される仕組みになっているらしい。
たとえば、「魔物について調べたい」と思えば、魔法陣が発動し、ふわりと足元に現れるルーン文字が特定の本棚へと続く光の道を作り出す。
ここには、何かがある――。
私の知らない、この世界のすべてを映し出す場所なのだろう。
私は静かに息を吸い、胸の前で手を組んで、心の中で問いかけた。
「この世界を知れるものを――!」
何もない。私はもう一度唱えた。
「この世界を―――!」
しかし、その言葉が空間に届くか届かないかというタイミングで、それを遮るように、別の声が割って入ってきた。
「そんなこと言ってちゃ、いつまで経ってもたどり着けないわよ」
思わずビクリと肩を跳ねさせて、勢いよく振り返った。
そこに立っていたのは、褐色の肌に、銀のツインテールの少女だった。露出の多い軽装の中に、どこか戦い慣れた者の雰囲気を感じる。その鋭く見開かれた目に、小馬鹿にするような笑みを浮かべながら、腰に手を当ててこちらを見下ろしていた。
「え……えっと、どなたですか?」
「強欲ねぇ、世界を知りたいだなんて。あんた、この世界がどれだけ複雑か、分かって言ってるわけ?」
「え、いや、だからその……」
「いいから見てなさいっての」
少女は手を空にかざすと、その手元からふわりと波紋のような光が広がり、再び魔法陣が足元に浮かび上がる。
「で? 世界って言ってもいろいろよ? 地理? 文化? 戦争? 旅? どこから行くの、フィナちゃん」
――名前を呼ばれたことに、一瞬、背筋が冷たくなる。
「……えっと、まずは常識とか、旅の仕方とか? そういう……生活の基礎的な?」
「ふーん、なるほど。なら――」
少女は軽く指を鳴らすようにしてから、宣言した。
「『E8大陸別歩き方』を。それと、『誰でも社会学』を!」
すると彼女の足元から真っ直ぐに光の道が伸び、それが空中で二手に分かれ、それぞれ異なる浮遊本棚へと導かれていく。
「……ありがとう、えっと……」
「ニア。私はニアよ。よろしく、フィナちゃん、この二つおすすめだから、ぜひ使ってね」
「――なんで、私の名前を……」
「さっき、ギルドにいたの。偶然よ、偶然。たまたま耳にしただけ」
ニアはそう言ってにこりと笑ったが、その笑みに真意は読み取れない。私の胸の奥に、警鐘のような違和感が小さく鳴り響く。
私は再び、足元に伸びた光の道を見据えた。
この先に、この未知の世界の答えがある。その確信はあった。
私は息を飲み、ゆっくりと足を前へと出す。
足を乗せた瞬間、光は小さく震えたが、しっかりと支えてくれた。
「……怖……」
思わず口から漏れた本音に、苦笑いする。だってこれ、地面じゃない。空だ。
私が腰をかがめるようにして慎重に歩き出したその時、別の足音が聞こえた。
「……?」
軽快な、まるで跳ねるような足音。
「ニア……さん? なんで……ついてきてるの?」
振り返ると、ニアが、まるで遊び場を歩くように軽やかに、しかも両手を後ろに組んでこちらに歩み寄ってきていた。
「ん? だって教えてあげようと思って? 重要なこととか! 初心者さんにはそういうの必要でしょ? それに、ニアさんは堅苦しいからやめて。ニアでいいよ?」
「じゃあ、ニア。私は別にそういうの、いらないから……」
私がつっけんどんに答えると、ニアはふにゃっとした笑みを浮かべ、急に距離を詰めてきた。そして、気がつけば私の肩に、ぐいっと腕を回している。
「なんだよ~、知り合った仲じゃん? ね?」
「……っ、ちょ、近いっ」
一瞬で顔が熱くなる。身体の距離感も、会話のテンポも、すべてが都会的すぎてついていけない。
「……都会の人って、知り合っただけで仲間認定なの?」
「まあ、こんなでかい世界でひとりでいたら死ぬだけだし? 最初に会った子くらい、大事にしてもいいじゃん」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。
「……まあ、好きにすれば」
「ふふっ、ツンだねぇフィナちゃんは~」
「うるさい」
光の道は、まだ先に続いている。
けれどその道のりは、さっきまでよりも少しだけ――ほんの少しだけ――歩きやすくなった気がした。フィナはそう錯覚することで、緊張を和らげようとしていたのかもしれない。けれど、確かにあの瞬間から、ほんの少し世界との距離が縮まった気がしていた。
私は、収集した情報にただただ圧倒されていた。
無知という言葉の範囲を悠々と飛び越えて、アホの称号まで首にぶら下げるべきかもしれない――そんな自嘲が浮かぶほど、世界は複雑だった。
1. この街のこと!
この場所はエルデナという国家に属していて、しかもその中心に位置している。つまり、いわゆる首都ってやつらしい。
古代の建築と魔法の技術が入り混じった不思議な街並み、通りには多種多様な人種が行き交い、空には浮遊船が優雅に漂っている。
でも表面の賑わいとは裏腹に、この街にははっきりとした階級がある。特に貴族と呼ばれる層は、冒険者のような庶民を見下す傾向があるとかで、あまり深入りしない方がいいらしい。
2. この世界のこと!
地図?――ううん、それは見なかった。だって旅をするなら、自分の足で、目で、世界を確かめていきたいから。
それでも一つ、確かな情報は手に入れた。この街の北門から出れば、魔物の生息地が広がっていて、さらにその先に闘技場があるらしい。冒険者たちは強くなるため、あるいは一攫千金のため、そこを目指すらしい。
つまり、私の次の一歩も、きっとその北にある。
3. 魔人戦争について!
「魔人戦争」と呼ばれる過去の大戦争、それは単に人と魔物の争いだったわけじゃない。
何が人間であるかを巡る、価値観そのものを賭けた戦いだった。
結局、すべてを終わらせたのは、原初のアストノストという名の魔法使い。彼は戦場をまるごと破壊して、強引に幕を引いたらしい。
でもそのせいで、今でも何が人間で、何が魔物かという定義は国によって曖昧で、それがまた新たな軋轢を生んでいる。
血が流れただけで、何も変わらなかった――それがこの戦争の結末らしい。
4. 技極の十席について!
この世界には「技極の十席」と呼ばれる、強者中の強者を示す順位がある。
その順位は、神録のエリアノスと言う人が持つ神眼の能力によって常に更新され、世界中に伝えられる。
本の裏表紙、店の看板、掲示板の端――意識すれば至るところにその名を見つけられるらしい。
そして多くの冒険者たちがその十席に名を連ねることを夢見て旅をしている。
現在の十席:
一席:原初のアストノスト
二席:亡人ガジュール
三席:冥王アルベド
四席:剣士グレン
五席:軍神マルク
六席:魔人ハルハダンデ
七席:魔人リリスダンデ
八席:獣神ガルーロ
九席:神録のエリアノス
十席:虚栄のネブラ
5. 四大魔獣について!
四大魔獣――それはかつての魔人戦争で、禁忌の交配によって造り出された存在…ナンカコワ。
自然の摂理を無視し、あまりにも強すぎた彼らは、戦争を終えた今でも人々の脅威であり続けている。
四大魔獣
•ベヒモス
•ケルベロス
•セリュネ
•アルマフィエル
私は大きな図書机の一角に突っ伏し、天井のステンドグラスを見上げていた。
――魔人戦争。
何が人で、何が魔物なのか。その境界線は曖昧なまま。私が狩ったシュブェルンを「人」と定義する国すらあるかもしれない。私の感覚と、この世界の常識は、完全に合っていなかった。
「世界を知りたいなんて、軽々しく口にするんじゃなかった……」
私は呻くように呟いた。
故郷の小さな集落で知れる世界なんて、ほんの切れ端に過ぎなかったのだ。知らなきゃいけないことの全てが、思っていたよりずっと、重かった。
そのとき、天井から差し込んでいた光がふいに遮られた。視界にスッと差し込む影――。
「なーに神妙な顔してんの?」
声の主は、案の定ニアだ。銀髪のツインテールが逆光で淡く光り、その輪郭だけが幻想のように浮かんで見えた。
「……ニアが言ってたこと、本当だったよ。この世界、全然単純なんかじゃなかった」
「……ふふっ」
ニアが笑った。それはからかうようで、でもどこか、優しさを含んだ笑いだった。
「ほら、だから言ったじゃない。
そんな簡単じゃないって。でも……知ろうとするその気持ちは、たぶん世界に一番必要なことだよ?」
私は顔を上げた。
視線の先、ニアは笑っていた。あの軽さ、あの自由さ。誰にも触れられず、ただ好きな場所へと流れていく風のような存在。
「私といっしょに知ろうよ。この世界、ぜんぶ」
そう言って差し伸べられた手。
すっと、指先が私の目の前に差し出される。光の粒がそれに絡みつき、まるで精霊が祝福しているかのようだった。
その瞬間、私の胸の奥に、何かざらつくものが残った。
――やめろ。気をつけろ。その優しさの奥は――空っぽなのか、それとも、まだ見えていない何かがあるのか?
警鐘のようなものが微かに脳裏に鳴り響く。これは、私の臆病なのか、それとも鍛え抜いた野生の直感なのか。
問いが次々と胸をかき乱していく。
それでも――
私の手は、彼女の手をきっちりと取っていた。
ためらいも、拒絶も、そして確信も、何もないままに。それはまるで、自分の意思じゃないみたいだった。
でも、そう。これが、私の選択だった。
ニアの手は、温かくて、でもどこかで不気味なほど――
馴染んでしまう温度だった。
彼女のニヤリと笑う笑顔が、私の頭の中に深く刻み込まれた。




