8話 異質の女
門の奥に広がる街並みへ、私は兵士に導かれるまま、一歩、また一歩と足を踏み入れた。
重たい木の門をくぐった瞬間、空気が変わる。目の前に広がった景色は、あの旅人が語っていた通り…いや、それ以上に生きていた。
石畳の通りは朝の陽光を浴びてまだ少し濡れていて、反射する光がきらきらと揺れていた。
道行く人々は、子どもを連れた母親、工具を抱えた職人、重たそうな荷車を押す商人…それぞれが、それぞれの確かな一日を生きているのがわかる。
私は思わず足を止め、深く息を吸い込んだ。
聞こえてくるのは、笑い声、怒鳴り声、歌声、交渉の声。いくつもの会話が同時に空気に溶け込み、温かく、そして騒がしい渦となって耳に飛び込んでくる。それが妙に心地よかった。
それだけじゃない。鼻先をかすめた匂いに、私は思わず目を細めた。
焼き立てのパンを焼く香り、香辛料をたっぷり使った肉料理、花の蜜と油が混じったような菓子の甘い香り……私の知る村の料理とは、明らかに格が違った。
「……なんて贅沢な匂い」
私はあわてて口元を引き締めた。
危ない危ない、私がこんな場所に浮かれてる場合じゃない。
私は旅の冒険者なのだ。入り口でついたその嘘を、現実に変えなきゃいけない。
ギルド――そして図書館。
まずは、冒険者ギルドだ。
「――フィナ、行くよ。これは、あんたの物語だからね」
私は、ぎこちない自信を胸に抱きながら、人波の中へと溶け込んでいった。
地図を片手に歩いていると、やがて目に飛び込んできたのは、まるで小さな要塞のような石造りの建物だった。二階建てで、黒く煤けた外壁に鉄の柵。入り口の上には、巨大な頭蓋骨が飾られている。
「こ、ここが……冒険者ギルド……」
思った以上に物騒だった。それでも私は唇を一文字に引き結び、深く呼吸をしたあと、意を決して扉を押した。
――きぃ、と、扉の軋む音。
中に足を踏み入れた瞬間、私は良い意味で裏切られた。
中は驚くほど明るくて、濃密な活気に満ちていた。
ごつい鎧を着た男、私と似たような軽装の女、大剣を背負った戦士の隣で魔導書を広げる少女。
雑多で、無秩序で、けれど同じ目的を持つ者たちの集まり。ああ、これが冒険者ギルドなんだ――心の底から実感する。
私は周囲の視線を気にしながら、カウンターへ近づいた。
受付の奥には、妙に姿勢の良い、仕事できそうな雰囲気の女性がいた。すらりとした体つきに、深い紺色の制服。目が合った瞬間、彼女は柔らかく微笑んだ。
「ご用件、伺いますね」
その優しい声に、私は少しだけ緊張が和らいだ。
「あの……冒険者手帳、は……どうやったら作れますか?」
「初めての登録ですね。では、お名前と、出身、あと年齢をお聞かせいただけますか?」
「ふ、フィナです。出身は……えっと、名前のない森の中の村で……年齢は20です」
「大丈夫ですよ。そういう方、意外と多いですから。それに、今は名前があれば十分です」
「では、仮登録となりますが、まずは初級の試験を受けていただきます。それが合格すれば、晴れて正式な冒険者になれます」
「試験……?」
「簡単なものですよ。街の外にいるモンスターの素材を一つ、持ち帰るだけです」
その瞬間、後ろから屈強な冒険者たちの笑い声が聞こえた。
「お、初仕事かぁ? ゴブリンの皮でも剥いてこいよ!」
「まあ、骨くらいは拾ってやるから安心しなー」
からかいの声に、私はびくりと肩を揺らし、無言で小さくコクリと頷くしかなかった。
「……わかりました。あの、あと……素材を売ったりするのは、どこでできますか?」
私の質問に、受付の女性はわずかに首を傾げた。
「こちらでも、買取を行っておりますよ。討伐報告と一緒に受付へお持ちいただければ――」
「――なら、これ買い取ってくれますか?」
彼女の言葉を遮るように、私はしゃがみ込み、背中から重たげなリュックを床へ下ろした。金属のバックルを外して、中からごそごそと取り出したのは……大量の毛皮の束だった。
床に置かれた毛皮が、ぼとっ、ぼとっ、と小気味の良い音を立てながら積み上がっていく。
それが、ただの毛のかたまりではなく、巨大な魔獣の素材であることに気づかれ、ギルドの空気が一変した。
――静寂。
何人かの冒険者が椅子から半身を起こし、酒のジョッキを持ったまま動きを止めた。受付の女性もまた、目の前に並んだ毛皮の山を見て、ぱちくりと瞬きを繰り返している。
数十秒の沈黙の後、彼女の口から、唐突に声が漏れた。
「そ、素材……!? すでに持ってるじゃないですか!?」
「……へ?」
「ええと……これ、シュブェルンの毛皮ですよね? しかも、見る限り四、五体分はありそうですが……この地域では狩る事自体、まず推奨されていない危険な魔物で……あの、もしかして、あなたが討伐を?」
「はい……そうです。さっきまで滞在してた森で、何体か現れて……」
その瞬間、後ろの冒険者たちの視線が、一斉に突き刺さった。
「……マジかよ、あのチビ……シュブェルンを何体だと?」
「ありえねぇ。あの森に入った上、あの不可視の魔物を……」
ギルド内にざわめきが広がる。からかっていた男は、完全に口をあんぐり開けて固まっていた。
「えっと、これで……試験は、どうなるんですか?」
恐る恐る訊ねる私に、受付の女性はやや硬直したまま、けれどぎこちない動きで何度か頷いた。
「ええ、ええ、もちろんですとも。これだけの素材を持って来られる方が、試験を受ける必要は……いえ、すでに初級冒険者としては十分すぎる成果をあげています。今すぐ登録できます。少し、お待ちくださいね」
そう言って、彼女はばたばたとカウンターの奥へ駆けて行った。
私は肩の荷が少しだけ軽くなった気がした。
――でも。
なんでみんな、そんなに驚いてるんだろう?
シュブェルンって、そんなに……強かったのかな?
周囲の空気はまるで、自分だけが何も知らずに舞台の上に立たされた役者みたいだった。視線が集まっていることにようやく気づき始めた頃、背後から重く、大きな気配が近づいてきた。
「……ん?」
視界の端に、影が落ちた。次の瞬間、ずしりとした何かが肩に乗る。――手だった。でかくて、厚くて、戦場を潜り抜けた者の掌。
私は思わず体をこわばらせ、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、腕よりも太い鉄板のような肩幅を持つ、無精髭の男だった。皮鎧の上からさらに鎖帷子を着込んでいるあたり、見た目以上に慎重な性格なのかもしれない。額には傷跡、片目に包帯。典型的なベテラン冒険者だ。
「嬢ちゃん……」
男は低く、けれどどこか柔らかさを含んだ声で話し始めた。
「アンタ、あの森を通ってここまで来たんだろう? 知らねぇようだから教えてやるがな――シュブェルンってのは、確かに中級程度の魔物だ。だがな、あいつは《オルトゥスの森》にしか生息してねぇ。つまり……」
そこで彼は言葉を切り、私の目をまっすぐに見た。
視線が重い。喉が渇くような感覚。
「――お前が通ってきたのは、誰も踏み入らない場所だ。正確には、生きて戻った者がいない禁域扱いだ。そこから出てきた嬢ちゃんが、どうして手帳すら持ってねぇって?」
問い詰めるのではなく、ただ真実を聞き出そうとするだけの、大人の声音。
「……実は……その……手帳、無くしちゃって……」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。視線も逸らさず、口元はわずかに寂しげに歪めて見せた。何もかも無くした少女を演じるのは、もう慣れてしまった。
男は少しの間、じっと私を見つめていたが――次の瞬間、豪快に笑った。
「ハハハ! やはりな! そういうことか、そりゃ記録にも名前が無いわけだ!」
そして彼は、肩に乗せていた手を離し、大きく片腕を上げた。
「ようこそ、エルデナ冒険者ギルドへ! 嬢ちゃん、歓迎するぜ!」
ギルド内にいた数人の冒険者たちが、思い思いに拍手や口笛で応じる。ノリが軽い。私は内心で眉をひそめながらも、かろうじて笑顔のフリをした。
そんな思考を整理していると、受付嬢が柔らかな笑みを浮かべて手を差し出してきた。
「お待たせしました。こちらがあなたの冒険手帳になります」
差し出されたのは、革細工のような装丁の小さな手帳。表紙の中央には幾何学模様が浮き彫りにされ、淡い銀色のインクが光を反射している。
「では、最終処理です。こちらの中央の紋章部分に、あなたの血を一滴、落としてください」
「……血?」
「冒険手帳は、その人の魔力に反応して起動する形式になっておりまして。血液に含まれる魔素がトリガーなんです。ご安心ください、痛みはほとんどありません」
私は指先に針のような物で皮膚をわずかに裂いた。滲んだ血を紋章の上に――一滴、垂らす。
その瞬間、手帳が静かに震えた。革のようだった表紙の紋章が光を帯び、その輝きは手帳全体に走っていく。ページの上に、何も書かれていなかったはずの言葉たちが次々に浮かび上がっていった。
《フィナ・ステラ・ノクス》
《属性:不明》
《既知魔法:幻影/潜伏》
《最高討伐実績:シュブェルン(中級)/ランク評価:B》
《備考:登録地不明、種族不明、ギルド照会不可》
「――え?」
備考欄の一文に、何かがおかしいと感じる。私が森で使っていた技術が魔法だと判明したこともそうだが、一番は兵士が言っていた「人じゃないんじゃないか」という言葉が、手帳によって公式に認められていることだった。
「はい、こちらで処理完了です。あなたのランクは、シュブェルンの討伐実績を考慮して**《Bランク》**にさせていただきました。初期としては破格の扱いですので、どうぞ自信を持ってください」
受付嬢は、子どもにお菓子でも渡すような笑顔で手帳を返してきた。
私は手帳を無言で受け取り、ぺこりと軽く頭を下げると、そのままギルドの扉を押し開いた。冷たい外気が頬を撫でる。
――少しだけ、自分の世界の見え方が変わっていた。
しかし――その裏側で、もうひとつの物語が密かに動き始めていた。
冒険者ギルド・エルデナ支部、そのカウンター裏。先ほどフィナの手帳を処理していた受付嬢――リュミエルは、手に持ったままの登録記録を固く握り締め、表情を完全に引きつらせていた。
「……リュミエル、受付終わったの? もうお昼休憩入れるけど?」
同僚の軽い声が、静まり返ったカウンターに落ちた。しかし、返事はない。
リュミエルの視線は、登録記録に浮かぶデータのログを一点に注視したまま、微動だにしない。
「おーい……リュミエル?」
同僚が少し不安げに声を掛けた時、ようやく彼女は動いた。
顔を上げたその瞬間、同僚はぎょっとした。彼女の顔には、冷や汗が幾筋も流れ、口元は震えていた。
「……今すぐ、上層部に連絡を。至急。これは……通常案件じゃない」
「え、ちょ、ちょっと……何があったの?」
「さっきの子……登録直後、表示が不明種に強制変異した。しかも、瞬時に情報ロックがかかった。完全封印。管理権限持ちでもアクセスできない」
「は、はあ……? 情報ロック? あんた、冗談……」
「冗談に聞こえる? 私、いま初めて見るんだよ。種族:未確定、属性:不明コードによる保護下。しかも、ログが巻き戻って上書きされてる。あの子、自分の情報を――無自覚に、塗り替えた」
リュミエルは同僚を見据える。
「やっと来たんだフィナちゃん、リュミエルその事なんだけど……あんまり騒がれると困るんだよね。だって、あの子は――」
同僚の口元が、ひどく歪んだ笑みに変わった。その笑顔は、さっきフィナに向けたものと酷似していたが、底知れない狂気が宿っていた。
「わたしの獲物だから」
「は……?」
「うん、だからさ、上に報告しちゃダメだよ? 邪魔しないで。あの子はわたしのもの――わたしたちイシュタール協会の、ね」
「ニ、ニア……どうして、そんなこと――」
「んー。どうして、って……」
ニアは一歩、歩み寄る。
その足音がやけに軽やかで、けれど空気を引き裂くように鋭く響いた。
「どうしてって、決まってるでしょ。あの子、特別なんだもん。世界を変えちゃうくらい、壊れた存在だから」
「あなた、まさか本気で――っ!」
「もう、うるさいなあ……騒ぐと、つい……」
ニアは微笑みながら、右手を振り上げる。その手には、受付のカウンターの裏に隠されていたナイフが、赤い血を滴らせていた。
「――殺しちゃうから」
直後、リュミエルの目から生気が失われた。静かなギルドのカウンター裏で、一筋の血溜まりが、音もなく広がっていった。




