7話 黒い男
光さえも通さぬ凶悪な吹雪が、山全体を白い地獄へと変えていた。
雪は空から降るだけでは飽き足らず、斜面の風に煽られて無数の氷の刃と化し、行く者の皮膚を裂こうと音を立てて唸っていた。
その白の渦の中を、ひとつの黒が逆らうように歩く。
影のような男。漆黒のマントを身体に巻きつけ、膝上まで積もる雪を、まるで忌避するかのように小さな炎で融かしながら、無言で進んでいく。
その足取りには、迷いも疲れも、そして生者らしい温度さえ、存在していなかった。
やがて男は、岩肌が無造作に剥き出しになった山の中腹に辿り着いた。
吹き荒れる風雪の中、そこだけ不自然なまでに周囲の雪が積もっていない。自然にできたとは到底思えぬ横穴が、口を開けていた。
男は、そこに至っても一度も周囲を振り返らなかった。警戒という言葉すら無縁のまま、躊躇なくその口の中へと身を沈める。
風の音が遮られ、わずかに氷が滴る音だけが響く遺跡の奥へと、足音だけを残して進んでいった。
通路を抜けた先にあったのは、かつて神の生贄を捧げるために穿たれたと伝えられる、祭壇跡。
薄闇に包まれた空間の中心に、ひとりの女が立っていた。
――いや、少女と呼ぶべきか。
目つきは荒野の獣のように鋭かった。
褐色の肌に無造作な銀髪を風のように揺らすその存在は、若さと古さ、無垢さと暴力性という相反する要素を同時に持ち合わせていた。
彼女――ニアは、男の姿を認めるなり、あからさまに不快そうな顔を作って腕を組んだ。
「お前……どこをほっつき歩いていやがった」
その声は、喉の奥で毒を転がすような、苛立ちと呆れを孕んでいた。
「こっちはあんたが蒸発してから三ヶ月も山でクソみてぇな魔獣と取っ組み合いやってたんだぞ?呼び出すなら呼び出すで、もっとマシなタイミングでやれや!」
だが男はそれを受け流すどころか、あろうことか口元を歪めて笑みを浮かべた。
その笑みは喜びではなく、どこか壊れた機械が笑うという動作を模倣したかのような、不自然な、そして酷薄なものだった。
「面白いものを見つけた」
低い声が、壁に反響して不気味に広がる。
「ニア。君の仕事だ」
それだけを言い残し、男はそれ以上多くを語ろうとしなかった。
ニアは深くため息をついたあと、まるで全てを察していたかのように鼻を鳴らし、肩を竦めた。
「ふん、どうせまた人間絡みでしょ。あんたのことだから、どうせ面倒な依頼か、とびきり厄介な観察対象でも見つけたか…そんなとこね」
その口ぶりは投げやりながらも、完全に呆れているわけではない。
むしろ、面白そうな玩具を与えられた子供のような、どこか抑えきれない好奇心が、彼女の声の端々に滲んでいた。
「で、誰をやんの?」
ニアの問いは、まるで世界のすべての答えがこの一言に込められているかのようだった。
その口調には皮肉も誇張もなく、ただ淡々とした事実を問いかけるような無機質さがあった。
彼女にとっては、相手を殺すことなど、もはや日常の一部でしかなかったからだ。
その問いに対し、男は再びニヤリと口元を歪ませた。
「まだ未確認だ。ただ、妙な村を見つけた。」
その言葉は短く、けれども深い意味を持っていた。男の瞳がひととき冷たく、暗く沈んだ。
「人のようでいて、人ではない」
その言葉の響きに、ニアの表情が少し変わった。
彼女は何も言わず、男の言葉をじっと見つめた。
そして、男が語り続ける。
「私ですら見分けがつかない。だが、確かに人ではなかった」
それはただの不気味な表現ではなかった。男の声には確信が込められていた。それが彼の直感か、それとも何かもっと深い理由によるものか、ニアは気づいていた。
「その村の監視でもさせろって?」
ニアは腕を組み、軽く唇を歪ませた。
だが、男は即座に否定した。
「いや、違う。その村からちょうど今頃、ある1人のフィナと言う女が旅立つ。その女を監視して欲しい、できれば冒険仲間となり、正体を暴いて欲しいんだ」
男の冷徹な瞳がニアを見据え、言葉を続ける。
「その女がどれほどの存在かを知らなければ、私の意図も理解できないだろう。だが、今はその正体を暴くことが最優先だ。何か、本人が自覚していない重大な秘密を隠しているに違いない」
その言葉に、ニアは冷ややかな笑みを浮かべた。
「ふーん、つまりあんたが気になっているのは、その女の秘密か。まぁ、面白そうだし、やってみるか」
ニアは肩を軽く竦め、手を腰に当てて一歩前に出る。
「我らイシュタール協会の名にかけて、遂行するわ」
その言葉に、男はようやく口元をほころばせた。
「頼もしいよ、ニア…」
だが、ニアの言葉にはどこか皮肉がこもっていた。
「それにしても、アンタはほんとに不便ねぇ。技極の十席に載ってるせいで名前も名乗れないなんて…」
その言葉に男は一瞬表情を崩したが、すぐに冷静さを取り戻した。
「あぁ、つくづくそれがついて回る。めんどくさくて仕方がないよ」
その返答には、嫌悪とともにどこか自嘲的な響きがあった。
「じゃ、私はもう行くとしよう私は旅人だからね。仕事の件、頼んだよ」
男は再び顔をしかめ、ゆっくりと振り返った。
そのまま、吹雪の中へと消えていく。
ニアはその姿を一瞬だけ見送ると、ふと顔を上げ、再びため息をついた。
「旅人、ねぇ…ま、どうせまた無駄に遠くまで歩き回るんだろうけど」
ニアは冷たい風が頬を撫でるのを感じながらも、目を細め、口の端にもう一度不敵な笑みを浮かべた。
「さて、行くか」
そして、彼女はその場から一歩踏み出す。
男の言うフィナという女――その正体を暴くために。




