57話 マルク
同時刻――。
技極の五席に名を連ねながらも、すでに軍神の名を捨てたマルクは、自らの故郷であり、かつて自らの手で滅ぼした国へと辿り着いていた。
「やっと……着いたか……」
長いようで短い旅だった。呆然と心を空っぽにして歩いている時間が長かったからか、気づいた時には辿り着いていたような気すらしてしまう。
ヌーンハイデン帝国跡地。
生存者など一人として残さず滅んだはずのこの国には、今もかつての建造物の骨組みが残り、その影にはちらほらと人影が見えていた。
しかし、立ち並ぶ建物もところどころが大きく崩れ落ち、無残な痕跡を晒している。
マルクは静かに城門をくぐり、その先へと足を進めていった。
――絶句した。
そこに広がっていたのは、復興などという生易しいものではなかった。
行き場を失った浮浪者や無法者たちの溜まり場。
鼻を突く凄惨な異臭、野ざらしの死体、そして倒壊した街並み。その全てが、ただ一度の視界の中に容赦なく収まっている。
戦争の末路……いや……俺が壊した結果か……。
マルクは目を細め、目の前の地獄を直視することを避けるように空間の輪郭だけを捉えながら、記憶を頼りに自分の家へと向かった。
子どもが笑っていた家。妻が待っていた家。
己の起こした戦争が、跡形もなく壊した……俺の家。
「……あった」
つる草が壁を覆い尽くし、破れた窓から室内へと不気味に広がっている。
マルクは震える手で、古びたドアノブに手をかけた。
途端に、暗い記憶の濁流が脳裏に呼び戻される。
かつてこのドアを開けた時、愛する子どもを抱きかかえたまま惨殺されていた妻の姿。
そして――なぜか首だけが存在しなかった、幼い息子の姿。
ただ……後悔しかなかった。
ぎゅっと強くて目を瞑る。
だが、目を瞑ったところで、網膜に焼き付いたあの最悪の情景が消えてくれるわけではない。
――フィナは、言っていた。
『俺は、幸せだった』
幸せと苦しみ……。そんなものに、正解の答えなんてありはしない。
でも、人間は……自分が何を記憶の中に選び取るかを選択できるはずだ。
惨劇の記憶に塗りつぶされ、もう二人のかけがえのない声すら思い出せない。
それでも……二人が見せてくれたあの温かな笑顔なら。
小さな息子が、力いっぱいに握り返してくれた指の感触なら。
今でも、はっきりと思い出せる。
このドアを開ければ、温かい夕食と家族の温もりが待っている。
滅多に家に帰ってやれなかった自分を、変わらぬ笑顔で出迎えてくれる――。
そんな気が……ただ、していた。
ガチャリと、ドアをゆっくりと開ける。
あの日、部屋を赤く染め上げた絶望の血は、長い年月と風によって風化し、もう存在しない。
そこに広がっていたのは、ただ薄暗く、静まり返り、蜘蛛の巣が張り巡らされたボロい部屋だった。
マルクは背負っていた荷物をそっと床に下ろすと、玄関へ戻り、ドアの鍵を閉めた。
あの日からずっと肌身離さず持ち続けていた、我が家の鍵。
錆びついた鍵穴に挿し込み、カチリと綺麗に噛み合って回った時、胸の奥からなんとも言えない感情が込み上げてきた。
かつての「軍神」は、誰もいない静寂の我が家で、深く深く息を吐き出した。
日が落ち、壁を覆う蔦の隙間から差し込むオレンジ色の夕日が、荒れ果てた室内に斑点模様を描き出していた。
俺は二階に上がり、埃っぽい床にそのまま身体を投げ出して寝転ぶ。
視界の横を、小さな虫が這いずり回っているのが分かった。かつての「軍神」と呼ばれた身には、およそ似つかわしくない汚い寝床だ。
――それでも。
俺はあの凄惨な戦争が起きたその日以来、初めて「夢」を見ずに眠ることができた。
幸せだった頃の温かな幻像も、あの惨劇の地獄のような悪夢も、何一つ見ない――静かで、深く、途切れることのない長い眠り。
ふと目が覚めると、夕日の色などとうに消え去り、太陽は既に天頂近くまで登り切っていた。
身体を起こし、枕元に置いていた愛剣を手に取って一階へと降りる。
……ドアが開いていた。
力任せに破られたのか、ドアノブは悲惨に壊れ、足元に転がっている。
そして、昨日の夜、俺が下に置いておいたはずの荷物は跡形もなく消えていた。
「盗まれたか……」
無理もない。
一文無しの浮浪者どもが群がるこの廃墟都市で、身なりのしっかりした奴が荷物を持ってボロ屋に入っていくところを見られれば、格好の標的になるのは目に見えている。
こんなボロ屋、盗んでくれと言っているようなものだった。
マルクは壊されたドアを見つめながら、静かに、短く息を吐き出した。
残ったのは、腰に差した剣一本だけ。
このあと、俺は何をすべきなのだろうか。
この国には、あの凄惨な戦争の果てに作られた巨大な墓があるはずだ。そこに行って――そのあと。
俺はまた、剣を振るうのだろうか……。
また、人を殺すのだろうか……。
答えの出ない思考を虚ろに巡らせながら、俺はかつての集合墓地を目指し、うつむいたまま重い足を進めていた。
腰に一振りの剣を下げているだけで、この混沌とした街の奴らは誰一人として俺に襲いかかってはこない。この男が簡単に人を殺せる危険な存在だと、本能で知っているからだ。
無機質な倒壊した街の隙間を抜けると、ふっと視界が開け、冷たい風が吹き抜ける広い草原に出た。
足元に、手作りの小さな木製の十字架が突き刺さっている。
俺はゆっくりと……顔を……上げた。
――広大な草原。
見渡す限りの緑の大地の上に、言葉を失うほどの数の十字架が整然と、どこまでも並んでいた。
視界を埋め尽くす、見渡す限りの墓標。
前へと進む足取りが、鉛のように重くなる。
真っ白に染まっていく頭の中に、たった一つの問いだけが浮かび上がり、重く焦げ付いた。
『――これが、救いか?』
俺はかつて、フィナと真っ向から戦争をした。
人は死ねばもう苦しまない。苦しみから解放してやることこそが正義だと、己の信念を愚直に掲げて。
なら――この膨大な大地を埋め尽くす死体どもは、本当に救われたというのか?
「そんなわけがないだろう……!」
喉の奥から、絞り出すような乾いた声が漏れた。
俺は「軍神」などという大層な名を騙り、戦争を起こし、人を殺すことで「救っている」と自分に都合のいい言い訳を塗り重ねていただけだ。
心の奥底では、愛する家族を奪われたやり場のない絶望と怒りを、世界へ向けて八つ当たりしていただけに過ぎない。
……かつてフィナに言い放った、戦争をしてはならない理由。
そんなもの――俺の癪に障るから、ただそれだけじゃないか。
俺はフィナと対等に戦ってなどいなかった。
俺はただ、理性を失い暴走した末に、あの子によって害獣として『討伐』されただけなのだ。
「俺は……ただの『怪物』だ」
見渡す限りの墓標の真ん中で、マルクは力なく膝をつき、絞り出すような吐息とともに、深く絶望の淵へと沈んでいった。




