56話 土産話
ひどい耳鳴りが頭の中でガンガンと鳴り響いている。
視界の焦点がまるで合わない。
俺は震える手で腹を触った。生温かい血の感触は確実にある。だが、手探りで確かめた傷口は綺麗に塞がり、完璧に癒えていた。
徐々に視界の焦点が合い始めると同時に、周囲を支配していた猛吹雪のフィールドが、スーッと晴れていくのが見えた。その先には、胸に風穴を開けられたキメラ熊と、肩で息をする仲間たちの姿がある。
「倒したのか……」
フィールド外へ弾き飛ばされていたため中の様子は見えなかったが、ゆっくりと薄れる雪煙の向こうに、完全に沈黙し横たわるキメラ熊の巨躯が見えてきた。
吹雪のフィールドが完全に消えた――作戦は成功だ。
俺はゆっくりと立ち上がる。
爪が突き刺さる直前、傷が深くなる前に間一髪で上級ヒールを滑り込ませたおかげで、身体的な傷は残っていない。
だが、貫かれた瞬間の激痛と衝撃の感触だけが泥のようにまとわりつき、酷い吐き気が残っている。とはいえ……ひとまず俺たちの勝ちだ。
「シド……なんて無茶をするんだ、お前は」
アストが呆れ顔で歩み寄ってくる。
俺は言葉を返す気力もなく、ただただ安心したように笑うことしかできなかった。
「助かったよ……シド。あまり誰かに感謝をするのは得意ではないのだが……僕は己の実戦の未熟さを知った」
エリアノスも自嘲気味に息を吐く。
「まぁ、あれだ……伊達に長年教授やってねぇからよ。分からねぇことがありゃ何でも教えてやる」
「大丈夫ですか!? 先生!」
不安そうに駆け寄ってきたライトの肩を借り、俺はゆっくりと体を起こした。
肉体的な痛みはなくても、脳が記憶している激痛の残滓で身体が重い。
俺は心配そうに顔を覗き込むライトやエリアノスに、大丈夫だとばかりにニッコリと笑顔を返した。――だが、その背後に立つアストの瞳が、突如として氷のように鋭く研ぎ澄まされた。
「……それで良いのか? お前は」
低く、重いアストの声。
「アスト、これは仕方な……」
「黙れ。……癖だな、これは。お前はいつでも自分の命を削り、自己犠牲の隙でも窺っているのか?」
「でも、あの状況じゃそれ以外に勝つ道なんて――」
「あぁ……なかった。だからこれが最後だ」
アストは俺の言葉を遮り、威厳に満ちた眼光で仲間たち全員を見渡した。
「司令塔として命じる。今後、目的地に着くまでは『できる限り魔物とは戦わない』。隠れて……逃げて……あらゆる危険を回避し、全員欠けることなくフィナに会うんだ」
アストの毅然とした言葉が、静まり返った魔大陸の大地に重々しく響き渡った。
己の傷すら顧みず前へ出ようとする俺の甘さを窘めるようなアストの忠告。俺はその真剣な眼差しから目を逸らすことができず、ただ静かに頷くしかなかった。
死線を一つ越えた俺たちは、崩れかけた身体と絆を再び繋ぎ直し、魔大陸テオスゲージのさらなる深淵――魔人兄弟の待つ結界領域へと歩みを進める。
テオスゲージの規模は、一国の領土などとは比べものにならない。その規格外の広大さは、そこ単体で一つの独立した経済圏が完成してしまうほどだ。
当然、人が身を寄せる村など数えるほどしかなく、生命を繋ぐ飲み水やまともな食べ物すらも極限まで限られている。
「はぁぁぁあ……。長くなりそうだな」
不毛な赤土地帯を踏み締めながら、俺は深いため息と一緒に愚痴をこぼした。
「あぁ……だが、フィナと再会した時のお土産話には困るまい」
俺の隣で、アストがふっと目元を緩めながら呟いた。
――お土産話、か。
アストのその言葉が、妙に胸の奥へとストンと落ちた。
思い出すのは、フィナがかつて話してくれた旅の思い出だ。道中には過酷なことも苦しいこともたくさんあるけれど、それ以上に新しい発見や人との出会い、小さな幸せが多く溢れている……そんな温かい旅。
「……血に塗れたお土産話なんて、フィナも聞きたくないもんな」
「……あぁ、その通りだ」
アストも、そして後ろを歩くライトとエリアノスも、穏やかな表情で頷いた。
俺は胸の前で大きく拳を握りしめ、澄み渡るでも毒々しいテオスゲージの空に向かって高らかに声を張り上げた。
「よし! 楽しもう! 笑ってフィナにまた会うぞ!」
俺の宣言は、どこまでも続くテオスゲージの広い大地と、果てしない大空へと静かに溶けていった。
魔大陸編始まりの章―完




