54話 地獄
「ここが……魔大陸……」
アストは一行の前に歩み出ると、地平線のどこまでも果てしなく続く赤土の大地と、隕石でも落ちたかのような巨大なクレーターを静かに覗き込んでいた。
空は不気味な紫黒色に染まり、大地からは生暖かく重苦しい魔力が、煙のようにゆらゆらと立ち上っている。
「久しぶりだな、ここは……」
俺は目を細め、胸の奥に去来する嫌な記憶を押し殺した。
俺は過去に一度だけ、ギルドの調査隊としてテオスゲージへ赴いたことがある。結果は苛烈を極め、熟練の調査員たちの半分が殉職。生きて帰れたこと自体が奇跡であり、俺自身「もう二度とこの場所には踏み込まない」と固く誓っていた因縁の地だった。
ふと横を見ると、アストが小さなキツネの手をちょこんと合わせ、静かに目を瞑っていた。
「何してんだ、アストさんよ」
「……フィナとの約束を果たしているだけだ。ここへ連れて来ることになるとは……この時までと考えていなかったがな」
かつてフィナと交わした、自分の罪に向き合う約束。その行き先が、まさか己の過ちが生んだ最悪の魔境になろうとは、なんという不条理だろうか。
アストがゆっくりと目を開け、ふと俺たちを見上げる。
「それにしてもシド、ライト。貴様らは人間のはずだ。本来、生身の人間はこのテオスゲージに溜まった濃い魔力に耐えられないのではないのかい?」
アストの問いに、エリアノスも冷ややかな視線を向けてくる。
「エリアノス、俺らは魔法使いだ。体内の魔力の調節方法くらい、とっくに叩き込まれてる」
「先生の言う通りです。……少し息苦しさはありますけど、戦闘に支障はありません」
ライトも力強く杖を握り直し、相棒の言葉を裏付けた。
「そうかい……なら、無駄話はここまでにして先へ進もうか」
エリアノスが薄汚れたローブの裾を翻し、赤土の大地へと最初の一歩を踏み出す。
かつて数多の命を呑み込んだ死の大陸。
その最深部に潜む二体の魔人、そして奪われたフィナの未来を取り戻すため、俺たちの果てしない行軍が始まった。
「すごいな……こんなところにほんとに生物が住んでいるのか?」
俺は辺りを見回しながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。どこを見渡しても不気味に蠢く赤土と、肌を刺すような高濃度の魔力が漂っているだけだ。
「はい……ここは魔人戦争で行き場を失った魔族たちが逃げ込み、住み着いた場所です。それと、どの国でも捕まえられなかった凶悪な大犯罪者どもが、幾つもここで姿をくらましている」
「それ以上に厄介なのは魔物だ」
エリアノスが退屈そうに、だが警戒を解かずに呟いた。
「魔力濃度の高さと、そこに生息する魔物の大きさ、強さは比例する。……見ろ」
俺は痛む腹を押さえながら目を細め、遥か遠くで舞い上がる土煙の先を睨みつけた。
「あれは……雪……?」
赤土の大地の一部が、そこだけ切り取られたように白銀の氷雪に覆われ、吹雪が吹き荒れている。
「あぁ……『フィールド』だ。あの吹雪の真ん中に魔物がいる」
「ここまで大きなフィールドを展開する個体は初めて見ました……。そもそも、通常の土地ではここまで凶暴化も変異もしないはずです」
ライトが杖を構え、警戒の度合いを一段引き上げた。強大な魔物が発する固有の魔力領域――それが周りの環境そのものを塗り替えてしまうほどの圧倒的なスケール。
アストは俺の肩の上で、その金色に輝く瞳を鋭く細めた。
「気を引き締めろよ。あの規模のフィールドを作り出す魔物だ……ただの珍獣でお行儀よく通り過ぎてはくれんぞ」
「……来るぞ!」
吹雪の渦の奥から、地に響くような地鳴りとともに、巨躯を誇る禍々しい影がゆっくりと立ち現れた。
「全員! 俺のそばに来い!」
避ける余裕すらない速度で、白銀の吹雪の壁が俺たちへ向かって突進してくる。
「風の壁! ――『シールド』!」
俺が叫ぶと同時に展開した魔力の壁が、迫り来る爆風を受け止める。
だが次の瞬間、さっきまでの灼熱が嘘のように、あたり一帯は激しい極寒に包まれた。
視界は完全にゼロ。吹き荒れる雪と氷の礫が、鋭い刃のように肌を突き刺してくる。
「これは何の魔物だ……!?」
吹雪の猛威に耐えながら、アストが耳を伏せて周囲を見渡す。
「ここの魔物に決まった名前なんてねぇ! 全てが環境に合わせて特殊な進化を遂げた、固有種のバケモノだ!」
すると、アストがちょこんと俺の頭の上に乗り直した。
「私が司令塔になろう。パーティーメンバーの3人全てが魔法使いだが、魔術の理論と構築において私はエキスパートだ」
「あぁ、頼んだぜ師匠!」
「この猛吹雪に飲まれたら終わりだ。3人は集団行動を徹底しろ。まずは敵の姿を見つけるぞ!」
俺たち3人は背中をピッタリと合わせ、全方位へ向けて警戒網を張る。
エリアノスは光の最高峰魔術師だが、長年『神眼』の自動回避と観測に頼り切っていた影響で、泥臭い実戦の立ち回りはブランクがある。
ライトはストックした魔法陣による多角攻撃と防御が手持ちのカード。そして俺の魔術……だが、これほど強大な魔物が展開する空間支配のフィールドを、俺自身のフィールドで上書きして塗り替えるのは不可能だ。
「ライト、俺らの周りに魔法陣の設置をしろ!」
「先生! 設置しようにも、雪と氷で地面に足場が作れず定着しません……!」
「――紡げ光芒、穿て! 『錬光の標』!」
突如、エリアノスが静かな詠唱を響かせた。
彼の指先から放たれた高純度の光が重厚な杭となって形を成し、凍てつく赤土へと深く突き刺さる。
「これなら……氷雪を貫いて地脈へ突き刺せよう」
「助かります! これなら……!」
ライトは即座に光の杭へ向けて羊皮紙を貼り付け、俺たちを取り囲むように立体的な結界魔法陣を連動させていく。
「よし……これで周囲の警戒と防壁は完成した。あとはこの猛吹雪のどこから、あのデカブツが飛び込んでくるかだ……!」
背中合わせの緊張感の中、俺たちは吹雪の奥から伝わってくる地鳴りのような足音に意識を研ぎ澄ませた。




