50話 イシュタール協会
男――通称『旅人』は、漆黒の靄が立ち込める冥府の土を踏みしめていた。
そこは、世界の深淵にして技極第三席『冥王』アルベドが統べる絶対の支配領域。生者の温もりなど微塵も存在しない凍てついた死の国を、彼はただ一人、風に黒い外套をなびかせて歩いていた。
――世界が狂い出したのは、まさにその時だった。
空が、因果が、世界そのものが、不快な摩擦音を立てるよつに歪み始める。
きっかけは、ひとつの命の断絶。
ニアの死亡。
そして、彼女が死の直前に命を削って放った一瞬の『意思伝達魔術』――それが、冥界を往く旅人の脳内へと届いた瞬間であった。
魔術が伝えたのは、残酷なまでの真実。
フィナ・ステラ・ノクスという少女の、本当の姿。
「――そうか。あの娘が……『アルマフィエル』か」
足を止めた旅人の唇から、低く、暗い声が漏れた。
次の瞬間、彼の整った顔立ちが、歓喜と底知れぬ悪意に歪む。静寂の冥界に、不気味で狂おしい笑い声が静かに響き渡った。
「使える……使えるぞ。まさか、あの田舎村で拾った暇つぶしの駒が、これほどの『札』だったとはな……」
彼の脳裏に浮かぶのは、遠い過去――魔人戦争の惨劇。
当時、強大なバジャー帝国が創り出し、敵国の内部から原子ごと消滅させる最悪の戦略兵器として投入された『アルマフィエル爆弾』の記憶。一瞬で国を崩壊させ、最終的には生みの親すら飲み込んで世界を恐怖に陥れた、死と破壊の象徴。
旅人は、最初から知っていたのだ。
アルマフィエルという存在が持つ、世界を滅ぼし得る真の価値を。
「フィナ。君がその真実に辿り着き、絶望に身をよじるその時こそ、僕の悲願が成就する……」
自らの目的を果たすため、フィナという存在の全てを極限まで利用し尽くすことを、男は暗い確信とともに決意した。
旅人は冷笑を浮かべ、薄暗い冥界の道を一歩踏み出した。
彼にとって、イシュタール協会の悲願を進める上で最も厄介で邪魔な障害――それこそが、世界を俯瞰し全ての因果を記録する『神録』のエリアノスだった。
すでに旅人は、自分や協会関係者をエリアノスの『観測』から遮断する秘術を完成させていた。だが、直接対面して殺害を試みれば、結局は物理法則と圧倒的な『神眼』の回避・防御能力に阻まれる。
ならば、どうするか。
――答えは単純だ。フィナを使って、エリアノスを喰い殺させればいい。
最初はこれほど大掛かりにするつもりはなかった。しかし、フィナが「神災」として暴れ、世界の注目を集めるほど、旅人自身の存在は完璧な『影』へと隠れる。
エリアノスは未来の狂いを全てフィナというバグのせいにし、排除しようと動く――旅人はそう確信していた。だからこそ、彼女たちが自然とエリアノスと激突するよう、裏で巧みに駒を動かし、今の状況へとお膳立てしたのだ。
残る問題は、フィナの『アルマフィエル』としての真の力をどう暴走させるか、だった。
旅人にとって唯一の誤算は、あの谷の底に『原初』のアストノストが存在していたこと。あの女の余計な教導のせいで、フィナは絶望の中でもアルマフィエルの力を「制御」する術を覚えてしまった。
だが、暴走させるトリガーは残されている。
あの谷の崩壊時と同じ――激しい感情の揺らぎと、過度なストレスだ。
そこで旅人が着目したのが、アルマフィエルという種族が持つ固有の性質『記憶と感情の共有』であった。
同種を探し出し、殺す。あるいは言葉にできぬ拷問にかける。
そこで生まれる莫大な「負の感情」と「死の記憶」は、ネットワークを通じてリアルタイムでフィナへと伝染し、その精神を内部から破壊するはずだ。
旅人は、自らが唯一知る「アルマフィエルたちが生き残る場所」――フィナの故郷、オルトゥスの森へと足を進めた。
あとは、その時を待つだけだった。
エリアノスとフィナが限界までぶつかり合う、その最高の瞬間を。
イシュタール協会の一員であるユーズ・ブライヤから、旅人の元へ静かに合図が送られた。
……本当に、ギリギリの戦いだった。フィナが真実に気づくのがあと一歩早ければ、計画は狂っていたかもしれない。
だが、運命は旅人に微笑んだ。
旅人は故郷の村で、手始めに――フィナの母親を殺害した。
無数の「死の悲鳴」と「絶望の感情」が、空中神殿にいるフィナの脳内へと津波のように流れ込む。
結果―――――全ては今、この瞬間に繋がったのだ。




