45話 師弟会談
湿った壁を伝う水滴の音が、重苦しい静寂をより際立たせていた。
鉄格子に囲まれた冷たい石畳の上で、シドの言葉が暗い空気の中に溶けていく。
「フィナ、君はこんな湿っぽい部屋で終わるような奴じゃない。いざとなれば……わかっているな。お前の力があれば、こんな檻など紙細工に等しい」
「いざって……でも、リリスを敵に回した以上、この先どこへ行けばいいの?」
「そうだな……。だが、お前ら二人は世界を変える。俺は、ずっとそんな気がしてるんだ。こんな場所で腐るのは、俺一人だけでいい。大体、俺さえいなければ、お前たちは街を守った英雄にだってなれたはずなんだ」
シドの視線は、檻の向こうの闇を超え、ここではない遠い場所――かつて自分が愛し、そして裏切られたこの街の誇りある過去を見ているようだった。
「シド先生。事情聴取を行います、着いてきてください」
ライトの声が響き、鉄格子の鍵が重々しく開けられた。
その瞬間、シドの瞳が、これまでの弱気な自虐を脱ぎ捨て、ゼニス・オーダーの精鋭を射抜くような鋭い魔導士のそれに変わった。
「ライト……」
その一言に込められた重み。
シドは、自分一人で全ての罪を背負うつもりだ。魔導書の窃盗、そして今回の混乱。彼が泥臭く、死に物狂いでこの街の人々を救ったという事実は、彼自身の「自白」によって闇に葬られようとしている。
「シド――私、見捨てないから」
私は立ち上がり、立ち去ろうとする彼の背中に、逃げ場のない言葉を叩きつけた。
「まだ、教わってないことがたくさんあるから。……だからシドも、勝手に見捨てないで。自分だけが犠牲になればいいなんて、そんなの、先生失格だ」
それは、弟子としての懇願であり、一人の仲間としての「警告」だった。
自己犠牲という名の独りよがり。それを私は、断固として許さない。
シドの背中が一瞬、びくりと震えた。
彼は振り返らず、ただ一言、
「……厳しいな、お前は」
とだけ残して、ライトに促されるように廊下の向こうへ消えていった。
薄暗い廊下を、かつての弟子であるライトの背中を追って歩く。壁に点々と灯る蝋燭の炎が、俺の心の迷いを映すように小さく揺れていた。
当初の予定では、フィナとアストノストにすべての手柄を譲るつもりだった。道中で俺を捕まえ、ついでにリリスを襲った正体不明の魔法使いを討ち取った英雄――。そうすれば、あの二人は清廉潔白な救世主として世界に迎えられるはずだった。
だが、それは俺の傲慢だ。
俺はただ、自分の犯した「窃盗」という罪を、彼女たちの活躍で塗り潰して正当化したかっただけじゃないのか。
英雄の影で、自分だけが納得して消えようとする……そんなのは、フィナが言った通り、ただの「逃げ」でしかない。
「……ふぅ。」
深く息を吐き、俺は差し出された冷たい木製の椅子に腰を下ろした。
対面に座るライトの瞳には、かつて俺が教えた「魔導士としての誠実さ」と、今の俺に対する深い失望が混じり合っている。
決めた。
全員、無傷でここを出る。
フィナを殺人犯にせず、アストを不審な魔物扱いにさせず、そして俺自身も、汚名を着たまま逃げ出すような真似はしない。
誰からも恨まれず、すべての事象に「理屈」を通してみせる。
「さて……。どこから話そうか、ライト君。元教授として、きみに特別授業を行おう。」
俺は机の上で指を組み、あえて不敵な笑みを浮かべた。
「シド先生……。冗談を言える状況ではないことは、あなたが一番よく分かっているはずです。魔導書持ち出しの件、そして今夜の未確認魔法使いとの交戦。すべて、隠さず話していただきます。」
「あぁ、もちろん。ただし、話を聞き終えた後、君がその杖を俺に向けるか、それとも協力者として握手を求めるか……。」
「付き合ってられない……今から事情聴取を取り行います。」
鋭い視線が交差する。
俺は記憶の中の魔導理論を総動員し、この「詰み」に近い盤面をひっくり返すための言葉を選び始めた。
「シド。貴方は数ヶ月前、金書庫からフィールド魔術の魔導書を盗み、警備員を眠らせて逃走した。……これに間違いはないですか?」
ライトの淡々とした確認に、俺は迷わず頷いた。
「もちろん……すべて事実だ。否定するつもりはない」
「次に、貴方は天使族とされるタクトと結託し、リリスを襲わせた。……違いますか?」
「それには語弊があるな。タクトは書庫の件とは直接関係していない。そもそも、襲撃の罪を俺たちに着せるのはお門違いだ。あの『演奏』を退けたのが誰か、君もわかっているはずだろう?」
俺の問いかけに、ライトは一瞬視線を彷徨わせた後、苦しげに答えた。
「……はい。公式な報告では、ゼニス・オーダーのヘンリー団長が討伐したと聞いています」
ヘンリー・クリストフ。あの食えない狸ジジイめ……。
功労を独り占めにして、引退前の輝かしい実績に俺たちを利用しやがったな。
しかも、この報告が通っているということは、現場での俺たちの活躍は「なかったこと」にされている。罪人の証言なんて、権力者の公式発表の前ではゴミ同然だ。
「……なるほど。ヘンリー団長が、ね」
俺が鼻で笑うと、ライトが突然、声を潜めて机に身を乗り出した。
「……まぁ、一つ言うなら。僕は先生以上にヘンリー団長を信じていません。タクトの『音』に対して、力押しのヘンリー団長が対抗できたとは到底考えられない。あれを止められたのは、理論で魔道を解き明かした者だけだ」
ライトの瞳に、かつて俺が教えた「真理を見抜く目」が宿っていた。
こいつ……組織の人間でありながら、最初から俺の無実を、いや、少なくともヘンリーの嘘を見抜いている。
「ライト……君、まだそんな危なっかしい思考をしてるのか。組織じゃ嫌われるぜ」
「嫌われるのは慣れています。それより、先生。本当のことを話してください。金書庫を襲った理由、そしてあの場にいた『二人』の正体を。……このままじゃ、あなたたちはヘンリー団長に消されますよ」
事態は思っていたより切迫しているらしい。
単なる「窃盗犯」の逮捕劇じゃない。これは、手柄を捏造した団長による、口封じを含んだ政治工作だ。
俺は、真剣な眼差しをライトに突き刺した。
「俺らは……『神録』のエリアノスに狙われている」
尋問室の時間が止まった。ライトは一瞬、言葉の意味が理解できないという風にぽかんとしていたが、やがてその目が少しずつ見開かれていく。
「……新録の……エリアノスに狙われている? 嘘をつくのも大概にしてください。流石の僕でも、そんなお伽話には騙されませんよ。技極九席……それは、この世界で九つの頂点に立つ存在だ。たとえ師匠であっても、そんな化け物に喧嘩を売るなんて……」
「タクトは今、どこにいる?」
俺はライトの動揺を遮るように、低く問いかけた。
「……こちらで幽閉しています。それが何の関係があるんです」
「タクトはエリアノスの刺客だ。同じ天使族……少し考えれば分かることだぞ。奴がなぜこのリリスを、そして俺たちを襲ったのか。その理由がエリアノスの意志だとしたら、ヘンリー団長がやっている『手柄の横取り』がどれほど危険な火遊びか、君なら理解できるはずだ」
フィナたちを連れて空中神殿を目指すなら、タクトをこのまま放置はできない。奴を連れ出し、さらには自分たちの安全を保障させるためには、俺たちを「殺せない理由」――つまり、管理局にとっての圧倒的な付加価値を提示しなければならない。
「それにライト、あのヘンリーの爺さんが勝てるわけないと言っただろう? それについてだが……タクトは音階をフィルターとして使用する、いわば『音階魔法』の使い手だ」
「……音階のフィルター。それは、先生がずっと続けている研究と……」
「あぁ。音階という多層的なフィルターに魔術を乗せれば、通常の防御結界は透過され、詠唱の何十倍もの情報密度で襲いかかってくる。これに対抗し、身を守るには、空間そのものを塗り替える『フィールド』を使うしかなかったんだ」
俺は机を指で叩き、ライトを凝視した。
「ヘンリー団長に、音階魔法の解析ができるか? フィールド魔術の展開理論を理解しているか? ……できない。今、このリリスで天使族の『音階』を理論的に解明し、無力化できるのは、世界でただ一人。……禁書を盗んでまで研究を完成させた、この俺だけだ」
「つまり、先生は……」
「俺を殺せば、リリスは次にエリアノスが送り込んでくる本物のに、無防備なまま晒されることになる。……ライト、君の正義感に聞きたい。この街を救うのは、老いぼれ団長のメンツか? それとも……」
「しかし、フィールドの原本は失われた! もう先生の杖にストックされた、その最後の一つしかこの世には残っていないじゃないですか!」
ライトが悲痛な声を上げる。原本を盗み、あまつさえそれを「処分した」と思われている俺への、彼なりの義憤だろう。
「あぁ……そうだ。残っているのはこの一つのみ。俺を殺せば、フィールドの技術はすべてなくなる」
俺の言葉に、ライトは軽蔑とも悔しさとも取れる歪んだ表情を浮かべた。
「……姑息な手を使うんですね、先生。そんなもの、あなたを裁き、その杖を国家が回収すればいいだけの話です。技術の独占を盾に逃げ切れると思わないでください」
「なら……俺の罪は何になる?」
俺があえて冷静に問いかけると、ライトは机の下の引き出しから何やら分厚い書類の束を取り出し、ペラペラと中を確認し始めた。めくられる紙の音が、静かな尋問室に冷たく響く。
「禁書の窃盗。あれは言わば封印に等しいんですよ。厳重な結界の奥から取り出すだけで国家反逆と同義の重罪だ。……殺されはしませんが、もう二度と、青い空を見ることはないでしょうね」
書類を机に叩きつけ、ライトが俺を真っ直ぐに見据える。その目は「これ以上、僕を失望させないでくれ」と訴えているようでもあった。
「終身刑、か。まぁ、貴重な禁書を盗み出したんだ、妥当なところだな」
俺は椅子の背もたれに深く体重を預け、自嘲気味に、不敵に笑ってみせた。
「あぁ……すまねぇなぁ、フィナ。戻ってくるのは……ちょっと難しそうだ……」
声は小さく独り言のようだったが、俺はそのままライトの目を鋭く貫いた。ライトもまた、一歩も引かずに俺の目を真っ直ぐに見返してくる。
こいつは俺の姑息な言い訳に釣られることも、昔の恩情に流されることもなく、ただ一人の法執行官として俺を裁こうとしている。立派になった。ライトなら、このリリスの正義を任せられる。
「なぁ、ライト……」
「……なんですか?」
「氷塊魔法において、術式を安定させる魔法陣のラインコードは何本だ?」
突然の、かつて講義室で何度も交わしたような問いかけ。ライトは一瞬だけ戸惑うように視線を揺らしたが、即座に淀みなく答えた。
「28本です。……いえ、対象の規模や射程によっては、30までラインコードが伸びます」
「正解だ。よく覚えているな」
俺は小さく笑い、それから一段と声を落として告げた。
「フィナとアストに罪はない。あの襲撃の最中、街の人々を陰で守り切ったのはあいつらだ。実質、この国を救った英雄と言っていい。……そして、あの二人はここで行き止まりじゃない。これから先、『神録』のエリアノスに挑むことになる」
「それは……。もちろん、彼女たちの無実が証明されれば即座に解放します。管理局としても、それ相応の謝罪と対価を――」
「そうじゃねぇんだ、ライト」
俺は首を振って、彼の言葉を遮った。
「あいつらは強いが、まだ未熟なんだ。世界の理不尽に立ち向かうには、あまりにも危うい。だがな、あいつらなら……俺や君が、かつて夢見た『魔法のその先』へ辿り着ける。世界を変えられるんだ」
身を乗り出し、俺を縛る見えない鎖を断ち切るように、ライトを見つめる。
「ライト……お前は俺の自慢の一番弟子だ。俺がここで消えても、お前の知性と、そのまっすぐな正義感があれば……あいつらを、正しい道へ導ける。兄弟子として俺の代わりに、あいつらの『先生』になってやってくれ」
自分の犯した罪の報いは受ける。だが、遺される者たちへの道標だけは、どうしても遺していきたかった。




