42話 天才と凡才
「行くよ! みんな!」
私は全身に『黒装』の波動を纏わせ、地を蹴る構えを見せた。しかし、その一歩を踏み出すより早く、私の肩からアストがひらりと飛び降りた。
アストは小さな体で、悠然とタクトの前に立ちはだかる。
「貴様……なぜ我々を襲う?」
黄金の瞳が、宙に浮く純白の使いを鋭く射抜いた。
「アストノストか。先ほども言っただろう。すべては『歴史の修正』のためだ。エリアノス様より、貴様ら……正確に言えば、フィナを殺すよう天命を受けた」
タクトの言葉に、私の心臓が冷たく波打つ。
「ねぇ、アスト……一体どういうこと? 歴史の修正って……」
「わからん。だが、アルマフィエルの力が何かしら世界に改変をもたらしたか……。それにしても、エリアノスが我々と明確に敵対した以上、奴に届き得るのはフィナ、お前だけだ。だが、こんなところで魔力を消費させるわけにはいかない」
「つまり……」
私は振り返り、シドの横顔を見た。
杖を握りしめる手は、恐怖からか、あるいは武者震いか、微かに震えている。けれどその呼吸は、驚くほど深く、静かだった。周囲の喧騒が消え、彼一人だけが異常な集中力の渦の中にいる。
「シド……タクトはお前が相手をしろ。フィナの魔力は、温存する」
アストの宣告を受け、シドがゆっくりと前に出た。
魔法使いであるはずの彼の背中が、その瞬間、守るべきものを持つ歴戦の剣士のように大きく、頼もしく見えた。
「――話は終わったかい? 私は優しいからね。遺言くらいは残させてやるよ」
タクトが嘲笑混じりに高度を下げ、シドの鼻先まで顔を近づけた。巨大な白い翼が、檻のようにシドの周囲を囲い込む。
「なぁ、お前……」
低く、地這うようなシドの声。
「なんだい?」
「フィナを倒したいってんなら……まず、この俺を倒してからにしろ」
見上げるシドの鋭い眼光が、タクトの冷徹な瞳と至近距離でぶつかり、火花を散らした。
音階魔法は『音』という不確かなものに意味を紐づける、天才の魔法だ。
理論を積み上げる俺の努力が、その天賦の才にどれだけ通用するか……。
「まずは小手調べだ!」
俺は後方へ大きくステップを踏みながら、手持ちの最速魔術をショートカットで叩き込む。
「貫け紫電! ——『雷柱』!」
轟音と共に雷光が走り、タクトを飲み込む。その余波を背に受けながら、俺はさらに術式を編み上げた。
「踏みしめよ虚空。風よ、道となれ! ——『エアライド』!」
足元に展開させた圧縮空気の渦が、重力を無視して俺の体を宙へと押し上げた。地上戦では音の振動をまともに受ける。空中戦こそが、この「鳥野郎」と同じ土俵に立つ唯一の手段だ。
雷柱が着弾した上空を、俺は旋回しながら見下ろす。
「……やったか?」
土煙が舞う中、一瞬の静寂。
その時だった。
奈落の底から湧き上がるような、あまりに美しく、心を奪われるような『歌声』がえぐれた床から響き渡った。
刹那――内臓を直接掴み、捻り潰されるような激痛が俺を襲う。
「……ガハッ……!?」
視界が火花を散らし、肺から空気が漏れる。
ダメだ、これが音階魔法か。魔力が動く予兆はわかる。魔法が来ることもわかる。
だが、その音色にどんな意味が込められているのか、何が来るのかが全く予測できない……!
「……不快な音だ。私の旋律に、そんな不純な魔力を混ぜるな」
煙の中から、傷一つないタクトが悠然と浮上してくる。
奴は手元で、魔力が音叉のように震わせ、次の「一節」を奏出た。
今度は、鼓膜を突き抜けるような高音――。
来る! 何か、とんでもなく鋭い一節が!
「防げ、真空の障壁! ――『真空盾』!」
空気という媒体を消せば、音の伝達は遮断できる。理屈は完璧だ。だが、タクトは嘲笑うように細い指先を踊らせた。
「そんなので守れるほど、私の旋律は甘くないよ」
刹那、真空の壁を「透過」して、全身を焼き切るような痛みが走り抜けた。
「――っ、が、あ……っ!」
筋肉が異常な速度で硬直し、制御を失った体が重力に引かれて地面へと叩きつけられる。石畳の冷たさが頬に伝わるが、指一本動かすことすらままならない。
くそ……なんだ、この魔法は。
『猛毒』か? いや、違う。もっと直接的で、もっと凶悪だ。神経系に直接干渉して信号を狂わせている。
……なぜだ。なぜ、あんな短い一節で、これほどまでに精密で複雑な術式指定ができるんだ……!
「……いや、そうか。これが『音楽』の正体か……」
倒れ伏したまま、俺は血の混じった唾を吐き捨てて思考を加速させる。
魔術言語は一語一語に意味を込める。だが、音楽は違う。
ソプラノからバスへの跳躍、震えるようなヴィブラート、超絶技巧のコロラトゥーラ、そして叩きつけるようなフォルテ……。
音の高さ、強さ、音色、その組み合わせ。たった一小節の旋律に、俺たちが数百語を費やすほどの圧倒的な「情報量」を凝縮し、紐づけてやがる。
「……ハハ、とんだ化け物だぜ。一語一語積み上げてきた俺の『言語』が、数秒の『独唱』に情報密度で負けてるってのかよ……」
「気づいたところで、幕引きだ。死の休止符を授けよう」
タクトがゆっくりと空中で指を指揮の位置に据える。
次の一音で、俺の心臓の鼓動を止めに来る。
だが―――負けられない戦いがある。
「俺を……舐めるなよ」
石畳に這いつくばったまま、俺は血混じりの唾を吐き捨てて、残った魔力を根こそぎ絞り出した。
先ほどシドの展開したフィールド『暗転』が、タクトの音階魔法を防げた理由……。
フィールドとは、外に放出した魔力を自分にとって最適な空間に捻じ曲げる力だ。音に乗せた魔力の波長そのものを、俺の支配領域に引きずり込んで捻じ曲げ、無力化できる。
……防ぐ手段は、これしかない。
「――これで、終わりだ。協奏曲――展開」
タクトが静かに空に指を立てた。その瞬間、彼の背後に展開された光景に、俺は息を呑んだ。
「協奏曲……!? 1人でそんなことができる……わけ……」
見上げれば、タクトの周囲の空中に、ハープやヴァイオリンといった無数の楽器が浮遊し、さらに、不気味な石膏像の頭部が、まるでオーケストラの奏者かコーラス隊のように配置されていた。
「破滅の輪唱第1節」
タクトの指揮が、死の演奏を開始した。
一斉に奏でられる不協和音。それは先ほどまでの独唱とは比較にならない情報量と破滅の魔力を秘めて、俺を、いや、このリリスの街ごと圧殺しようと襲いかかってくる。
「――クソッ! 守る手段は、これしかねぇ……!」
俺はなけなしの魔力を杖に込め、全神経を集中させてフィールドを再展開した。
「フィールド――『暗転』!!」
俺を中心とした空間の音を、魔力で強制的に遮断する。だが、襲いかかるのは音だけではない。音に乗った「術式」という圧力だ。
俺の展開した『暗転』の膜と、タクトの『破滅の輪唱』が、空中でぶつかり合い、空間が悲鳴を上げた。
しかし、フィールドの維持にかかる魔力量は絶大だ。このまま「静止した守り」を続けていれば、先に俺の魔力が底を突き、この『暗転』の膜ごと押し潰される。
維持じゃ負ける……なら、一瞬の隙を作るしかない。
フィールドを展開して音波の暴力を一瞬だけ逸らし、その極小の隙間を縫って懐に飛び込む。だが、そのためには「防御」と「加速」、二つの高等魔術を同時に、それも寸分の狂いなく展開する必要がある。
俺は咄嗟に、杖の内部にあるストック魔法陣を確認した。
『暗転』と『暗視』。本来、視界を奪って一方的に立ち回るためのセットだ。だが、相手が「音」を媒介にする魔法使いなら、視覚を捨てても奴の居場所は「音の源」として予測できる。
俺は迷わず、長年愛用してきた『暗視』のストックを、その場で上書きして捨てた。
「大気を踏み、虚空を蹴れ。縛るものなき自由の風、その高みへ至らん。――『高速移動』!」
高度魔術。アスト直伝の省略法を以てしても、この詠唱の長さ。これを今、戦いの最中に発声するのは自殺行為だ。だからこそ、俺は一言も発することなく、すべての魔力を杖の「基盤」へと流し込み、物理的に術式を固定する。
これなら、詠唱を介さずにフィールドと同時に発動できる。
一度きりの、文字通りの「切り札」だ。
「……ハァ、ハァ……。アストさん、フィナ。死んでも、捕まえててやるよ」
俺の杖が、限界を超えた魔力の充填にキシキシと悲鳴を上げる。
上空では、タクトの「破滅の輪唱」が最高潮に達しようとしていた。無数の石膏像が口を開け、次の、最も残酷な一節を奏でる。
「……終わりだ、歴史の塵が」
タクトの指揮棒が振り下ろされる――。
「――今だ!!!」
俺は杖を叩きつけ、二つの術式を同時に解き放った。




