40話 不穏なメロディー
「じゃあ……そういうことだから。短い間だったけど、ありがとな」
検問所の巨大な石門を仰ぎ見る手前で、シドはふと足を止めた。その横顔には、これまでの喧騒が嘘のような、どこか寂しげな色が混じっている。
「そっか……。シドは指名手配されてるんだもんね。一緒には入れない、か……」
私が俯きかけると、それまで沈黙を守っていたアストが、重々しく、けれど拒絶を許さないトーンで口を開いた。
「私は……一度弟子を取れば、私が満足するまでその弟子を手放すことはない」
「………………え?」
シドの口がぽかんと開いた。あまりに唐突な「師匠宣言」に、思考が追いついていないらしい。
「いや、それって……どういう……。俺は追われてる身なんだぞ? 魔法大学の連中に見つかったら、あんたらまで――」
アストは私の肩を蹴って、ひらりとシドの肩へと飛び移った。
そして、その小さな耳元で、逃げ場のない確定事項を告げる。
「逃げられると思うなよ」
「……っ!」
シドの背筋がピンと伸びる。伝説の第一席に肩に乗られたその圧力は、どんな魔導障壁よりも重い。
「シド……。アストがこう言ったら、もう無理だよ。諦めて」
私は苦笑いしながら、シドに向かって手を差し出した。
「リリスの『教授』としてじゃなくて、私たちの『仲間』として。一緒に潜り込もうよ。アストの知識と、シドの技術、それに私の『黒装』があれば、検問なんて突破できるでしょ?」
「……ハハッ。全く、とんだ貧乏クジだ。技極の第一席に目を付けられた挙句、弟子とは……魔法を学び始めて30年、今全盛期だな。」
シドは降参だと言わんばかりに両手を上げたが、その口元には隠しきれない高揚の笑みが浮かんでいた。
「よし!じゃあ行くよ。不定形――変化……」
私の指先から溢れ出した黒い魔力が、シドの全身を薄膜のように包み込む。魔力がシドの輪郭を侵食し、やがて全く別の、見覚えのある姿を形作った。
「おぉ……これは? 俺の顔、どうなってるんだ?」
シドが自分の手を物珍しそうに眺め、不自然なほどシワの刻まれた皮膚に触れる。
「私の村の村長です!」
「えぇ……。よりによって、そんなヨボヨボのじいさんかよ……」
シドは困惑顔だったが、変装の効果は絶大だった。冒険者手帳を持つ私は、ロサドの時のような騒ぎを起こすこともなく、ごく自然な「孫娘と祖父」を装って巨大な石門を潜り抜けた。
門を抜けた瞬間、目に刺さるような黄金色の残光が私たちを迎え入れた。
リリスの街並みは、夕陽に照らされて古い羊皮紙のような温かい色に染め上げられている。
街の中央をゆったりと流れる運河は、空の輝きをそのまま写し取った鏡のようだ。水面には、岸辺に並ぶ赤いパラソルや石造りのテラスが放つ柔らかな灯りが揺らめいている。時折、音もなく進む小舟が描く波紋が、沈みゆく太陽の光を細かく砕き、まるで魔法の粉を振りまいたかのようにキラキラと飛散していた。
運河の淵には、長い年月を経て深みを増した赤レンガの建物が整然と建ち並び、その窓辺からは夕食の支度をする賑やかな声が聞こえてくる。
そして、街のどこからでも仰ぎ見ることができるリリスの象徴――白亜の大尖塔が、天を突くように聳え立っていた。緻密な彫刻が施された窓の一つひとつに、夕陽が最後の一太刀を浴びせ、白銀の輝きを放っている。
「あのでっかい塔が魔法管理局で、その下に俺が講師やってたリリス魔法大学があるって感じだな」
村長の姿をしたシドが、杖を突きながら顎でその塔を示した。その声には、懐かしさと、それ以上の緊張が混じっている。
すると、アストがシドの肩の上で、鋭い視線を大尖塔へと向けた。
「ここがリリスか……。私がかつてここを訪れた時は、魔法の『ま』の字もないようなただの田舎だったが。時というのは早いものだな」
アストが感慨深げに街並みを眺める。その瞳には、かつて自分が種を撒いた「魔法」という概念が、大樹となってこの地に根付いた様子が映っているのだろう。
「ああ。ここは魔法もそうだが、建築や料理、その他諸々の『最新』があると思っていい。……ま、最近の発展に関しては、俺のおかげって部分も大きいんだけどな」
シドが村長の姿のまま、不敵に鼻を鳴らした。
「シド、前に『魔術言語以外の研究』をしてるって言ってたけど……それって、今の発展に関係があるの?」
「ああ、見てな」
立ち止まったシドは、愛用の杖のちょうど真ん中あたりにある装飾用の金具を器用に外した。すると、杖がパカッと縦に開き、その断面が露わになる。
そこには、肉眼では追いきれないほど精密で細い線が、びっしりと彫り込まれていた。
「これ……魔法陣だよね?」
「ほう……。これで魔法のストックをしているというわけか。にしても、ここまで小さいとはな」
アストが身を乗り出して断面を覗き込む。
私が初めてアストと出会い、龍の谷から脱出した時に見た魔法陣は、丘一面を覆い尽くすほどの巨大なものだった。それが普通だと思っていたけれど……木の枝の断面に収まるほど小型化されているなんて。
「アストノストがやっているのが『言語の省略』だとしたら、これは『魔法陣の省略』だ」
シドは自慢げに杖を閉じ、カチリと金具を戻した。
「魔術言語を知らなくても、この陣に魔力を流し込めば術が発動する。……難点があるとすれば、イメージの定着が言語より遥かに難しい点だな。魔法陣の構造を完璧に理解してなきゃ使えねぇ。まだ、誰でも使える『言語』の普及率には到底及ばないがね」
「……なるほど。言語という『回路』を通さず、あらかじめ彫り込んだ『基盤』に直接魔力を流すか。効率という点では、確かに理に叶っている」
アストが珍しく、素直にシドの技術を認めるような口振りで呟いた。
ひょっとして、シドって私が思っている以上に、この国の魔法体系を根底から変えようとしていた凄い魔法使いなんじゃ……。
「ま、そんな『異端』の研究をしてたからこそ、大学の保守派に睨まれて、禁書に手を出した瞬間に追い出されたわけだがな」
シドは苦笑しながら、大尖塔の足元に広がる壮大な学舎――リリス魔法大学を指差した。
「さて、まずは腹ごしらえだ。この近くに、俺の教え子のライトって奴がやってる酒場がある。村長の姿なら、そう簡単にはバレねぇだろ」
ゴーン――、ゴーン――……。
重厚な鐘の音が、リリスの街並みに低く、けれど鋭く響き渡った。
「もうこんな時間か……。飯時にもちょうど良いな。ライトの店、はな、煮込み料理が美味いんだぜ」
シドが村長の姿で鼻を鳴らし、のんきに笑う。
夕陽が沈み、空の境界線が燃えるような朱色から深い紫色へと溶けていく。そのあまりに幻想的なグラデーションと、街全体を包み込む鐘の音に、私は一瞬だけ心を奪われていた。
――だが、その平穏は「音」と共に断ち切られた。
私のすぐ横を通り過ぎようとした女性が、糸が切れた人形のように、崩れるように倒れた。
「え……?」
助けようと手を伸ばしかけた瞬間、今度は前を歩いていた男性が、苦悶の声すら上げずに石畳に沈んだ。
それを合図にしたかのように、一人、また一人と、道ゆく人々がバタバタと折り重なるように倒れていく。
「何……これ。……っ、私も、なぜか、頭が……急に……」
視界がぐにゃりと歪み、膝から力が抜ける。まるで脳の中に直接、冷たい楔を打ち込まれたような感覚。
「シド!! 今すぐフィールドを展開しろ!!!」
アストの叫び声が、私の混濁する意識を強引に引き戻した。その声は、かつてないほどの危機感を孕んでいる。
「はぁ!? 何が起きてるんだよ……いきなりフィールドって、こんな街中で――」
「早くしろ!! 殺されるぞ!!!」
アストの形相に、シドの顔から余裕が消えた。彼は反射的に杖を突き出し、ストックを絞り出す。
「……ッ、クソッ! フィールド――『暗転』!!」
視界が、一瞬にして完全な闇に塗り潰された。
第3章 神殿編 開幕




