4話 いつもの景色
見えない。だが、確かにいる。
息を殺し、慎重に後ずさる。目を瞑った。視覚を捨て、耳を研ぎ澄ませる。虫の声、木々が揺れる音、焚き火の爆ぜる音……それらの奥に、確かに別の気配がある。空気の揺らぎ、足音にはならないほどのかすかな圧迫感。
一体……いや、三体。
私はそっと息を吸い、拳を握る。シュブェルン――見えざる捕食者。村の掟で「夜の狩りを禁ず」と言われた理由。視認できないその毛皮は、昼間に仕留めても解体するまで姿がわからないという。見えないまま、喉を裂かれて死んでいった者も多い。
次の瞬間、腕に温もりを感じた。吐息――!
反射的に身を翻し、転がるように地面へ伏せる。咄嗟にナイフを構えた。焚き火の火の粉が宙に舞い、奇妙な形で歪む。その歪みが、一瞬、狼の顔のように見えた。
私はナイフを強く握り、足を踏みしめゆっくりと立ち上がった。
「……旅ってのは、こうでなくちゃな」
額を伝う汗が、地面に落ちた刹那――闇が、動いた。
足音。小さいが確実に、ひとつ、こちらへ近づいてくる。
一瞬、景色が歪む。焚き火の揺らめきの中、その歪みを狙い、私は全身の力を込めてナイフを突き刺した。
――感触がある。だが、浅い。
毛をかすめた手応えが指先に残る。かすめた方向的に奴は右にいる。ならば、私は左に――!
刹那、身をひねり地を蹴る。空気がひやりと頬をなぞる。もし今の回避が少しでも遅れていたら――喉か、腕か、どこかが裂かれていたかもしれない。
まずい。焚き火の位置を見誤った。今、私の背に火がある。視界の前方に炎はなく、奴の輪郭を捉える手段が失われた。
そしてもう一つ、たった数秒の交戦で、すでに息が上がっている。足が痛み息が荒くなる。原因は……。
背中のリュックが、重すぎる。
動きのたびに肩が軋む。まともに振り向くだけで体勢が崩れそうになる。旅に必要なものを詰め込みすぎた――こうなることも予想できたはずなのに。
「こりゃ死ぬわ」
ナイフを握る手に、じんわりと力がこもる。
そもそも、こんなナイフで勝てる相手じゃない。
勝つには――眉間、もしくは首元。そこに刺せれば、一発で仕留められる。
……そんなの、いつもなら簡単に決まってる。
しかし、目に見えない相手の眉間や首元なんて、どうやって狙えっていうんだ?
いや、落ち着け。私はこれまで狩りをしてきた。昼だろうが夜だろうが、基本は同じ。
狙うべきは「感覚」。敵がいる位置、動き、攻撃のリズム――それさえ見切れば、勝機はある。
――技を使おう。
村の狩人たちに受け継がれてきた戦闘技術。
連発すればすぐに息が上がるが……今は出し惜しみしてる場合じゃない。
「……よし! どっからでもかかってこい!」
宣言するように声を張り上げる。
両手を広げ、深く息を吸う。肺に冷たい空気が満ち、意識が研ぎ澄まされる。
周囲の音、わずかな風の流れ、焚き火の揺らぎ――すべてが脳内で組み立てられ、一つの「形」として像を結ぶ。
その瞬間。
――右腕に、ざらついた歯の感触。
「ッ……!」
噛み切られる――そう直感した刹那、全身が反射的に動いた。
――『幻影』――
視界が一瞬、揺らぐ。
地面を舐めるようにして体がすり抜け、瞬時に回避。
そして、今自分がいた場所――まさにシュブェルンが噛みつこうとしていた地点へと、ナイフを突き立てる!
肉を裂く、鈍い感触。
次の瞬間、何もない空間が弾けるように歪み――
鮮血が噴き出す。
焚き火の炎に照らされ、宙を舞う赤い雫。
見えなかったはずのシュブェルンの姿が、血しぶきで輪郭を持ちはじめる。
私は息を整え、ナイフを引き抜くと同時に再び構えた。
「……さて、狩りの続きといこうか?」
――あと、2匹。
傷ついたシュブェルンの血の臭いが鼻を突く。
この緊張感、研ぎ澄まされた感覚――
やばい、ちょっと楽しいかも。
私が使える技は2つ。
『幻影』――攻撃を受ける瞬間に残像を残し、カウンターを狙う回避技。
『潜伏』――完全に姿を消すことはできないが、気配だけならシュブェルン並みに消せる。
そして、この2つを同時に使えば……
――勝てる。
刹那――再び、鋭い歯の感触!
右腕に走るゾクッとする感覚、噛み砕かれる――
――『幻影』――
体が風のように滑る。
一瞬前まで私がいた場所に、何もない影が残る。
シュブェルンの牙は空を噛み、私は音もなく後方へ移動。
見えなくても、場所はわかる。
――『潜伏』――
シュブェルンの視界から消えた以上こいつに私の位置はわからない。
私は息を殺し、地を蹴った。
焚き火の灯りが届かない闇の中、無音で跳ぶ。
見えない背中へ――飛びかかる。
瞬間、シュブェルンの身体が沈んだ。
全身の重みを浴びせ、そのまま覆い被さる。
「……逃がさない」
腕を絡め、喉を締め上げた。
皮膚の下、異様な硬さの筋肉。その奥に、わずかに脈打つ鼓動。
シュブェルンが暴れる。
前足で地面を削り、後足が跳ねる。
振り払おうとするが、私はさらに強く締めた。
喉奥から、苦しげな唸りが漏れる。
動きが鈍る。
私はナイフを逆手に持ち替えた。
今なら、狙える。
眉間は…ここだ。
刃先を押し当て、迷いなく突き立てた。
皮膚が裂け、骨を貫き、芯へと届く。
直後――。
シュブェルンの体が痙攣し、足元で崩れ落ちる。
流れ出た鮮血が、見えなかった獣の輪郭を徐々に浮かび上がらせた。
私はその横に、大の字に倒れ込む。
荒い息が夜気に溶ける。
肺が焼けるように痛い。
目を瞑る。
鋭敏になった感覚が、静寂の奥で囁いた。
……三匹目は、もういない。
「逃げたな……弱虫め」
歪んだ笑みが勝手に浮かぶ。
焚き火の赤い光が、私の顔を照らした。
やり切った。
村では、狩りは複数人でやるのが基本だった。
それを、一人でやり遂げた。
まあ、そもそもシュブェルン自体、滅多に狩る相手じゃない。
あまりにも危険すぎる。
それでも、私は勝った。
息を整えながら、上体を起こす。
焚き火の向こう、倒れたシュブェルンの死骸を見つめた。
こいつらは、火があっても襲ってきた。
つまり、焚き火だけでは防げない。
このままでは、安心して眠れない――。
しばし考え、私はある妙案を思いつく。
「……いいこと、思いついた」
ニヤリと笑い、ナイフを構えた。
死骸を引きずり、焚き火の前に並べる。
その毛皮に刃を押し当て、手首を返した。
裂けた毛の下から、血の滲む肌が現れる。
剥がれた瞬間、透明だった毛皮は普通の獣皮へと変わっていった。
「……使えないな」
透明なままなら、これを被って擬態しようと思ったのに。
目論見は外れた。
仕方ない。
私は皮を投げ捨て、今度はナイフの刃を喉元に当てる。
ゆっくりと力を込め――首を切り落とした。
転がったそれを拾い、近くの枝に突き刺す。
乾いた血がじわじわと滲む。
そして、そのまま寝床の前に突き立てた。
――見た目はグロいが、これほど分かりやすい警告もない。
三匹目が仲間を置いて逃げたということは、
シュブェルンは復讐を考えるような生き物ではないのだろう。
ならば、これで十分だ。
私は深く息を吐く。
夜はまだ長い。
それでも、初めての旅の一日目を、私は乗り切った。
少しだけ、肩の力を抜く。
そして、寝床に入り満足感とともに目を閉じた。




