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神災フィナの黙示録  作者: 鳩ポ
第一章 旅の始まり編
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3話 森の現実

狭く、光さえ容易には通さないほどに生い茂った木々の間を、私はただひたすら進んでいた。


両脇の草葉は容赦なく腕を打ち、湿った朝露が肌を冷たく撫でる。足元の土は柔らかく、ところどころ小さなぬかるみが執拗に靴底にまとわりついてきた。


獣道と見分けがつかないこの道を歩く者など、もうほとんどいないのだろう。かつて旅人が通った道も、こうして長い年月のうちに草に呑み込まれてしまったのかもしれない。


けれど、それでも私は進む。


「この道を真っ直ぐ行け。その先に、お前の探している街がある」


それが、あの旅人が残した唯一の言葉だった。

街までの距離も、道中に何が待ち構えているのかも分からない。頼れるのは、腰に下げた古びた方位針だけ。針は迷うことなく東を指し続けている。まるでそれが私の心臓の鼓動と連動して、進むべき運命を示しているかのように。

周囲は、息が詰まるほど深い森だ。


巨木が幾重にも重なり合い、空を完全に覆い隠している。枝葉の隙間から零れ落ちるわずかな陽光が、薄暗い地面を斑模様に染めていた。


耳を澄ませば、鳥の囀りと風に揺れる葉の擦れる音。時折、どこか遠くから聞いたこともない獣の野太い鳴き声が響く。


それでも、私に恐れはなかった。


この十年の間、私は村で生きる術を叩き込まれてきた。獲物の足跡を追い、魔物の微かな殺気を読み、命のやり取りを何度も繰り返してきた自負がある。


ふと、村での日々が頭をよぎる。あの村では、女が狩りをする習慣なんてなかった。十歳の頃の私は、その理屈が分からなくて、ただ認めてほしくて、がむしゃらに森を駆け回るトレーニングを続けていたっけ。


二年間、独りで泥にまみれ続けた私を、村長はやっと狩りに連れて行ってくれた。今にして思えば、私を孫のように思ってくれていた村長が、周囲の反対を押し切って無理やり通してくれたんだろうな。


それから八年。伝統の技を磨き、森の生き方を学んだ。生まれてからの最初の十年と、修業に明け暮れた今の十年。その密度の差に、自分でも驚く。


だが、夜の帳が下りると、その自信は音を立てて削られていった。


漆黒の空には頼りない月が浮かんでいるが、その光だけで森の底知れぬ闇を照らすには到底足りない。虫の鳴き声が鼓膜を突き刺す中、私は焚き火の微かな明かりに身を寄せ、じっと炎の揺らめきを見つめていた。


薪をくべ、手元の干し肉に歯を立てる。今日は運が悪く、獲物の姿を一匹も見かけなかった。夕食は味の薄い干し肉と、道すがら摘んだ茹でた山菜だけ。


――初めての、独りきりの野宿。


昼間はただの険しい森道に見えた景色が、夜の闇に塗り潰された途端、異界へと姿を変える。視界のほとんどが黒に支配され、木々のざわめきが妙に耳障りな囁きとなって脳を揺さぶる。


獣道の奥から、何かがこちらをじっと覗き込んでいるような気がしてならない。


「……こんなに、怖いものだったんだ」


ぽつりと漏れた声が、闇に吸い込まれて消えた。

特に、この辺りが「禁忌の地」と呼ばれる理由は嫌というほど知っている。


――シュブェルン。


その名を思い出した途端、全身の毛穴が逆立った。


「見えない魔物」。姿が映らないのに、確かにそこに存在する恐怖。犠牲者は自分が襲われたことすら気づかず、事切れる直前にようやくその存在を知るという。その体毛が周囲の光を歪ませ、景色に溶け込ませる性質を持っているのだ。


私は、一度こいつに殺されかけている。


村で夜の狩りが厳格に禁止されている理由そのもの。あの日、狩りの帰り道が少しだけ遅れた時、私は「それ」に遭遇した。いや、遭遇したのかさえ分からない。ただ、肉を抉られる熱い衝撃と、噛み砕かれる感触だけが闇の中で連続した。


気づけば体はズタズタで、駆けつけた仲間に発見されなければ、今頃は土の下だった。


頭から離れない、消えないトラウマ。


正体を知っているからこそ、その「無」の恐怖は増幅していく。


「出ませんように……お願い……」


小さく祈るように呟き、私は膝を抱えて焚き火の温もりにすがりついた。魔物が火を嫌うのは知識として持っているが、それが絶対の安全を保証するわけじゃない。

森の風が気まぐれに吹き抜け、炎を大きく揺らす。その度に闇が目前まで押し寄せてくるようで、心臓の音が早くなる。



その時だった。



――すう、と。



生暖かい何かが、私の右頬を優しく撫でた。


息が止まる。指先まで氷のように固まった。


風……なのだろうか?


だが、今しがた吹き抜けた夜風の冷たさとは明らかに違う。湿り気を含んだ、生き物の吐息のような、生々しい感触。


私は凍りついたまま、動くことができない。


耳を極限まで澄ます。


しかし、聞こえるのは相変わらず虫の声と焚き火のパチパチという爆ぜる音だけだ。足音も、唸り声も、何一つとして聞こえない。


それでも――確かにそこに、何かがいる。


「……いるの?」


震える声を絞り出し、ゆっくりと、首が折れそうなほど慎重に視線を巡らせる。

右にも、左にも、何もない。


視界に映るのは、焚き火に照らされた赤茶色の地面と、その先にある深い闇だけ。


でも、頬に残ったあの不快な温もりは。


「気のせいなんかじゃ、ない……っ」


全身を這いずるような悪寒。


私は震える手で腰のナイフに手をかけた。けれど、一瞬で距離を詰め、視覚さえ無効化する不可視の魔物に対し、この短い銀色の刃はあまりにも無力で、頼りなかった。

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