2話 旅路の一歩
鳥の囀りが、薄桃色に染まる空の下、朝日とともに響き渡る。
普段なら、柔らかな羽音や囀りを耳にしながら、私は重たい瞼を閉じ続けるだろう。けれど、今日ばかりは違った。
目を覚ますと、部屋には淡い朝の光が満ちていた。窓の外では朝露を纏った木々が静かに揺れ、土の香りがかすかに漂ってくる。
私は布団を押しのけ、ゆっくりと身を起こした。
視線の先、部屋の隅には、昨日までとは違う圧倒的な存在感を放つものがある。
それは、私の肩ほどの高さにもなる大きなリュック。
――この一週間、夜な夜な準備を重ねた、私の十年分の覚悟だ。
母が持たせてくれた保存食。村で作られた布の包み。少しの薬草と、使い込まれた水筒。隙間を埋めるように詰められたのは、外の世界で生き抜くための道具たちだった。
私はリュックに手を添え、その重みに改めて決意を感じる。
今日、私は旅立つ。
心の中で繰り返した言葉は、不思議なほど静かだった。それは、もはや問いかけではなく、確固たる事実だった。
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寝巻きを丁寧に畳み、母が縫ってくれた新しい服に袖を通す。
肩を包む生成りのシャツに、しっかりとしたロングスカート。そして、冷たい外気に耐えるための茶色のコートを羽織った。
鏡に映る自分の姿を見つめる。
白い髪は、コートの襟元から細く滑るように流れ落ち、背に沿って揺れていた。
「……よし」
小さく呟いて、リュックを背負う。
革のベルトをしっかりと締め、肩にずしりとした重さを感じながらも、一歩踏み出した。
床板がわずかに軋む音。
その音すら、今の私には確かな一歩に思えた。
家の玄関へと向かう。
木の扉の取手に手をかけた瞬間、背後から柔らかな声が響いた。
「フィナ……」
振り返ると、そこには眠たそうに目を擦る母の姿があった。
母は私の旅装を見た途端、指先を止め、瞳を大きく見開いた。
驚き、戸惑い。
けれど、次第にその瞳には、どこか懐かしむような、それでいて寂しげな色が滲んでいった。
「行くのね……」
母の声は震えていた。
それでも、無理に笑おうとしているのがわかる。
私は真っ直ぐに母を見つめ、静かに、けれど力強く頷いた。
「うん、行ってきます。」
齢二十――私は旅に出る。
それは決して迷いのない、十年の時をかけた答えだった。
扉を開けると、朝の光がまぶしく差し込んできた。
澄んだ空気が、私の頬を優しく撫でる。
村の風景は、何一つ変わらない。
曲がりくねった畑道、枯れ草の香り、遠くから聞こえる川のせせらぎ。
でも、私の目に映るその景色は、昨日までとはどこか違って見えた。
――私の世界は、今、確かに広がろうとしている。
リュックの重みを改めて感じながら、私は一歩を踏み出した。
それは、十年前の旅人が去っていった道。
そして、私が彼を探すための、約束の最初の一歩だった。
新しいブーツは固く、少しぎこちないが、それさえも旅立ちの実感として心に刻まれていく。
歩みを進めるほどに、村の景色が少しずつ遠ざかっていく。
左右に広がる畑には、朝露に濡れた黄金色の小麦の穂が、風に揺れてざわざわと囁くような音を立てていた。
曲がり角に差し掛かった時、ふと後ろを振り向いた。
視線の先、村の端に立つ母の姿が見えた。
小さくて、まるで米粒みたいに遠い。それでも、母は最後まで見送ってくれていた。
朝日に照らされた母の顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
私はリュックの紐を握り直し、もう一度大きく手を振る。
母の手も、ゆっくりと揺れた。
その動きを最後に、母の姿は曲がり角の向こうに消えていった。




