37話 喧嘩の覚悟
私たち3人は、相変わらず景色の変わらぬ、眩い白晶岩帯をひた進んでいた。
アストは私の肩の上でふんぞり返り、シドは年季の入った杖を突きながら、どこか気だるげに足を動かしている。
「シドは……教授ってことは、学生に何かを教えてるんだよね? 具体的に何を教えてるの?」
私の純粋な問いに、前を歩いていたシドが少しだけ首を振り向けて答えた。
「そうだな……教えてはいるが、どちらかと言えば研究がメインだな。教壇に立つのも、研究費を稼ぐための義務みたいなもんさ」
「研究、なんの?」
私が首を傾げると、肩の上でアストの耳がピクリと反応した。その瞳に、隠しきれない鋭い好奇心が宿る。
「俺は、『魔術言語以外の魔法』を研究している」
「え? 魔術言語でいいじゃん。わざわざ別の方法を探すのって、なんかの役に立つの?」
私の率直すぎる言葉に、シドは苦笑いを漏らした。
「役に立つも何も、魔術言語じゃダメなんだよ。……いや、『足りない』と言った方が正しいかな」
「……なぜだい?」
それまで黙っていたアストが、重々しく口を挟んだ。
そうだ。シドは知らないんだ。今自分の目の前にいるこの小さなキツネが、全人類に魔術言語を授け、現代魔法の基礎を築いた張本人――「原初の魔法使い」だなんて。
シドは立ち止まり、空を仰ぐようにして言った。
「そうだな、例えばフィ。もしあんたが、自分と同じくらいの練度を持つ魔法使いと殺し合いをすることになったら……何が勝敗を分けると思う?」
「え、それは……魔力の量とか、術の威力とか?」
「……いや、違うな。答えは『速度』だ」
シドは杖の先で地面に円を描いた。
「魔術言語は素晴らしい発明だ。誰でも同じ現象を引き起こせる。だがな、言葉を紡ぐという行為には、どうしても『時間』がかかる。一文字でも、一音でもだ。……一瞬が命を分ける戦場において、呪文を唱えている時間は、そのまま『死』を待つ時間と同じなんだよ。俺はそこを打破したいのさ」
アストは目を細め、鼻を鳴らした。自らが作り上げた完璧なシステムに、真っ向から異を唱える男を品定めするように。
「それでも、世界で広まり確立されたのは魔術言語だろ? その合理性があったからこそ、魔法は発展したはずだ」
アストの問いは、創設者としての自負が滲む鋭いものだった。けれどシドは、どこか遠くを見るような目で首を振る。
「あぁ、その通りだ。否定はしねぇよ。……じゃあ、もう一つ例を出そう。フィナ君、あんたは燃え盛る火を見て、何を思い浮かべる?」
「えぇと……熱そう、とか。あとは、ちょっと怖い、とか?」
「それよりももっと単純だ。火を見て最初に脳に浮かぶのは『火』という言葉そのものだ。魔術言語は、その認識をそのまま魔法に組み込んだ形態なんだよ。あまりに直感的で、簡単すぎる。誰でも使えて、誰にでもわかる。そりゃぁ普及もするだろうよ」
シドは杖の先を弄りながら、言葉を継ぐ。
「イメージを言葉に置換し、それを魔力で出力する。そのプロセスがあまりに完成されすぎていて、誰もその『外側』を疑わなくなった」
「だからこそ、熟練者のために省略という技術があるんじゃないの? 言葉を削れば、それだけ早くなるはずでしょ」
私が食い下がると、シドは力なく笑った。
「いや……それでも遅いんだ。一文字でも介在する以上、それは『思考』を『言語』というフィルターに通していることに変わりはない。……正直、フィナ君、あんたみたいなのは初めて見たよ。全略――一言も発さず、思考と同時に現象を引き起こすなんて、お伽話の領域だと思ってたからな」
シドの言葉に、私は少しだけ居心地が悪くなった。厳密に言えば、私のは修行して辿り着いた全略とは違う。私が魔法そのものだから、勝手に出てしまうだけだ。
……そういえば、アストは言っていた。自分は全略が使える、と。
本物の「全略使い」を目の前にして、その生みの親に「言語じゃ遅い」と説法を垂れるシド。
私は冷や冷やしながら、肩の上で黙り込んでいるアストの様子を伺った。アストの尻尾が、不機嫌そうに、あるいは思案に耽るように、ゆっくりと左右に揺れている。
二人の激しい議論を横目に歩きながら、私はどこか微笑ましい気持ちになっていた。
魔法を極めた「原初の主」と、現代の限界を突破しようとする「異端の教授」。教える立場にある者同士、どこか通じ合うところがあるのだろう。アストの瞳も、いつもより楽しげに細められていた。
――だが、その平穏は突如として断ち切られる。
ふわり、と足が地面を離れた。
感覚が狂う。まるで水中に投げ出された直後のように、重力がその意味を失って私の体を宙へ浮かび上がらせる。
「アスト、これは……フィールド!」
「ククッ……やっと本物の魔物のお出ましというわけか」
アストが不敵に笑う。やはりフィールドは厄介だ。どこで戦おうと、敵の理に無理やり引きずり込まれ、こちらが一方的に不利になる。
でも、もし――もし私自身がフィールドを扱えるようになったなら。
たとえ空の上だろうと、あの空中神殿ですら私の縄張りに塗り替えられるはずなのに。
視界の端、岩陰から「空を泳ぐように」細長い影が這い出してきた。
「あれは……ヘビ?」
私は咄嗟に空を掻き、泳ごうとするが、腕は虚しく空を切るだけ。
「落ち着けフィナ。これは水とは訳が違う。泳いで逃げるのは無理だ」
なら、どうすれば。焦りが思考を曇らせようとした瞬間、シドが力強く前に出た。
「俺がやろう……」
シドが、年季の入った杖を静かに構える。
そこに詠唱はない。すでに「登録」された術式が、彼の魔力に呼応して起動する。
「フィールド――『暗転』」
一瞬、視界が真っ暗に染まった。
直後、空間そのものがガラスのように砕け散る。
強引に上書きされた理がさらに破壊され、世界に正しい重力が息を吹き返した。
「……ッ! フィールドをフィールドの内側から展開して、相殺き飛ばしたのか!」
アストが驚嘆の声を上げる。シドの荒技によって、宙に浮いていた私の足がガツンと岩場を捉えた。
「フィナ、今だ、あの蛇を殺せ」
魔法使いとしてのシドが放った、凄まじいまでの圧。
それに背中を押されるように、私は全身から漆黒の魔力を噴出させる。
シドは言っていた。魔法において、速さこそが最大の武器なのだと。
なら、私のありったけの速さで。思考をそのまま「形」に変える。
不定形――錬成。
描くのは、さっきシドを止めたあの――鉄の杭。
相手に反撃の余地も、逃げる隙も与えない。
無造作に、けれど音速を越える速度で、数十本の太い杭が空間を埋め尽くす。
鈍い音が連続し、蛇の巨躯を岩盤ごと深々と貫いていく。
当たっているのか、致命傷なのかは分からない。
激しい土煙が視界を遮る。それでも私は、止まらなかった。
死の気配を完全に断つまで、黒い鉄の雨を叩き込み続けた。
やがて、煙がゆっくりと晴れていく。
「……あ」
そこに横たわっていたのは、もはや生き物の形を留めていない、凄惨なまでに杭に打ち抜かれた蛇の死骸だった。
「アスト……これで、よかったんだよね?」
返り血を浴びたわけでもないのに、自分の手がどろりと汚れているような感覚。
「魔物にまで心を痛める必要などない。今さら何を言う。今までと同じ、ただ殺し方の問題だ」
アストの声はどこまでも冷徹だった。
……自分がバケモノだと自覚したのは、これで何度目だろう。私はその苦い感情を無理やり喉の奥へと飲み込んだ。
「シド、ありがとう。助かったよ」
――返事がない。
嫌な予感が背筋を駆け抜け、私は弾かれたように後ろを振り向いた。
「動くな……」
そこには、先ほどまでの気だるげな表情を消し去り、氷のように冷たい目を向けたシドが立っていた。
その手にある杖の先は、まっすぐに私を捉えている。
「今の攻撃で嫌でも分かったよ。俺も馬鹿じゃぁない。……なぁ、『神災』フィナ。それから、肩の上のキツネ。アスト……だったか」
シドの指先が、杖の木肌を強く軋ませる。
「その異常なまでの魔法の知識。そして、やけに魔術言語の『祖』であるかのような固執。……お前、アストノストだろ?」
白晶岩帯の冷たい風が、三人の間に吹き抜ける。
シドの視線は、もはや迷子を見守る大人などではなく、歴史的な脅威と対峙する「魔法使い」のそれだった。
「リリスの禁書庫に記された記述と、目の前の化け物じみた現象……。一致しちまったんだよ。……俺は、とんでもない貧乏クジを引いちまったらしいな」




