35話 フィールド
「それで……この白晶岩帯には、具体的にどんな魔物が潜んでいるの?」
私の問いに、アストは歩みを止めずに、どこか遠くを見つめるような仕草を見せた。
「あー、そうだな……。例えば――」
刹那、世界から色彩と光が消え失せた。
何が起きたのか理解する暇もなかった。目を奪われたのか、あるいは世界そのものが一瞬で夜に沈んだのか。視界は文字通り「無」に支配される。
「来たな……」
暗闇の中で、アストの落ち着き払った声だけが響く。
「来たって……何が!? 今どうなってるの、これ!?」
「安心しろ。ただ、辺りが暗くなっただけだ」
「それが最大の問題なんだけど……!」
自分の手すら見えない。転移させられたのか、あるいは何らかの術に嵌ったのか。状況が全く読めない恐怖に、私は思わず一歩前へ踏み出そうとした。
「動くなフィナ。そのまま進めば、奈落の谷底に落ちるぞ。止まって、私の声をよく聴きなさい」
アストの鋭い制止に、私は氷ついたように身体を固める。
「この白晶岩帯に棲まう魔物のランクは、地上とは比較にならんほど高い。そして、そうした高位の個体は、例外なく『あるもの』を持っているのだ」
「あるもの……?」
「『強制縄張り(フィールド)』。……魔物から漏れ出る強大すぎる魔力が、周囲の法則を捻じ曲げ、己の生存に最も適した環境へと強制的に上書きする領域だ。この暗闇は、今この場に現れた『主』が作り出した、絶対の縄張りだよ」
闇の奥から、コツコツと硬質な何かが擦れ合う不気味な音が聞こえ始める。
目に見える情報が遮断された今、耳に届く音だけが、死の接近を知らせていた。
暗闇というものは、強さに関係なく生物が抱く根源的な恐怖だ。アストの言っていたことを考える。暗闇が適しているなんて、ほとんどの夜行性の生物が当てはまってしまう。
暗闇じゃなきゃいけない理由……。
私は人差し指を立てた。そこに黒い魔力を凝縮させていく。感覚は、あの時放った黒点に近い。でも、私の力なら多分、この魔力を望んだ術に変えられる。私自身が魔法のプロセスで言う「フィルター」そのものなのだとしたら。
不定形――フラッシュ。
指先が鋭い輝きを放ち、一気に視界が拓けた。
照らし出された光の先。そこにいたのは――人?
ボロいフードで顔をは見えない。古びた杖を手にしている。魔法使いだろうか。魔物じゃ……ない。
「フィナ、逃げろぉぉぉ!」
アストの悲鳴に近い絶叫が鼓膜を打った。
その声に弾かれるように、私は反射的に後方へ跳ぼうとする。しかし、瞬きをするほどのわずかな合間に、目の前にいたフードの姿が掻き消えるように消失した。
こういう時、相手がどこに現れるかは大体わかる。背後か、あるいは――サイド。
今は相手の術中にいる以上、先読みできない攻撃は死に直結する。まずは安全圏まで距離を稼ぐのが先決だ。
私は両手を水平に伸ばした。イメージするのは、すべてを弾き飛ばす爆風。
不定形――エアバッシュ。
直後、左手に確かな衝撃が伝わった。ビンゴ。
横は依然として深い暗闇に包まれており、相手の姿を捉えることはできない。けれど、そこに「いる」ことだけは肌に突き刺さる殺気で理解できた。
不定形――錬成。
相手を吹き飛ばした先は岸壁側だ。そこから逃げられないよう、闇の奥の標的を強引に壁へと固定する。
放ったのは重厚な「コの字型」の鉄杭。
ガギィィィィンッ! と硬質な音が闇を切り裂き、岩盤に深く打ち込まれる響きとともに、呪縛が解けたようにゆっくりと周囲の暗闇が晴れていった。
暗闇が完全に霧散し、白晶岩帯の冷たい岩肌が露わになる。
そこには、私の鉄杭によって壁に縫い付けられた、ボロボロのフードを深く被った男の姿があった。
足元には、彼が落としたであろう年季の入った木の杖が転がり、頼りなくカランと乾いた音を立てる。
「フィールドが閉じたのは……彼が杖を落としたから?」
私の問いに、肩の上でアストが深く、重いため息をついた。
「あぁ……そうだ。正直、人間でフィールドを作り出すほどの魔法使いを、私は初めて見たよ。……アストノスト、一生の不覚だな」
アストの自嘲を余所に、気絶していた男の指先がピクリと動いた。
男はゆっくりと顔を上げ、フードの奥に隠された鋭い眼光で私を射抜く。
「あんた……も、魔法使いか」
不意に投げかけられた掠れた声に、私は一瞬言葉を詰まらせた。
「そう……よ」
自信のなさが透けて見えるような、曖昧な肯定。
それを聞いた男の口角が、皮肉げに、けれどどこか愉快そうに少しだけ上がった。
「へっ……その出鱈目な強さを持っていて、よくもまぁそんな自信なさげな返事ができるもんだ」
男は吐き捨てるように笑う。だが、その口角はすぐに、重苦しい現実を思い出したかのようにゆっくりと下がっていった。
「こんな地獄の底みたいな場所に人がいるなんてなぁ……。世の中、死にたがりの馬鹿な冒険者もいたもんだぜ」
男は諦念の混じった視線を空へ投げ、自らの不運を呪うように低くつぶやいた。
そんな時だった。
私の肩にいたアストがふわりと飛び上がり、軽やかな足取りで男の前へと歩み寄った。
「おい……魔法使い」
「あぁ? なんだこの狐、喋ったぞ……」
男の驚きも無理はない。アストは普段、余計な混乱を避けるために人前では決して言葉を発しないようにしているはずだ。それなのに……。
「そんなことはどうでもいい。それよりも答えろ、どうやってやった?」
アストの問いには、これまでにない熱が孕んでいた。
「は? なんだ……何の話をしてやがる」
「白を斬るな! どうやって魔物特有の現象である『フィールド』を再現したんだ! 術式の構成は? 魔力のバイパスはどう繋いだ!」
アストはすでに男の膝まで乗り上げ、鼻先を突き合わせるほどの勢いで詰め寄っている。
「……アストさん。一応確認だけど、今、普通に喋っていいんだっけ?」
私が恐る恐る口を挟むと、アストは振り返りもせず鋭い一喝を飛ばした。
「フィナは黙っていろ! これは私の純粋な知的好奇心によるものだ。魔法の真理を前にして、些細な正体隠しなど二の次、三の次だ!」
……そうだった。
仮にも技極第一席、数多の魔術言語の生みの親である「原初の魔法使い」アストノスト。
彼にとって、未知の魔法理論との遭遇は何物にも代えがたい「ご馳走」なのだ。魔法の探求において、この狐に妥協という文字は存在しない。
呆れ果てる私を余所に、男は眼前の喋る狐と、その後ろに控える「バケモノ級」の少女を交互に見て、乾いた笑いを漏らした。




