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神災フィナの黙示録  作者: 鳩ポ
第二章 戦争編
22/38

22話 密入国

何ヶ月かたち――。


「嬢ちゃん、そろそろ国境だ。」


ダイルの低い声が馬車の軋みとともに耳に届く。

私は重い瞼を上げ、前方に広がる細い畦道を見やった。


「なんか…ここまでの苦労が重すぎて、着いて嬉しいを通り越して…もう、何も感じなくなりました。」


吐き出すような声。

けれど、その奥底ではまだ油断の糸がピンと張られている。


それにしても――。

ぐるりと周りを見渡す。濃い緑の森が馬車を包み込み、道は馬一頭がやっと通れるほどの細さ。

国境と言えば関所や監視塔、鎧姿の兵士…そんな風景を想像していたが、ここにはただ、沈黙と湿った土の匂いしかない。


「国境にしては、ずいぶんと何もないんですね…もっとこう、門とか柵とか…」


「密入国だからな。人がいたら困るだろ。」


淡々と放たれた言葉に、背筋がひやりと凍った。

――密入国。

確かに、戦争中の国に武器や剣を堂々と持ち込めるはずがない。


胸の奥がざわつく中、その音が聞こえた。

ザシュ、ザシュ、と浅い草を踏み分ける音。しかも一方向ではない…左右から、二つ。


直後、道の両脇から黒い甲冑をまとった兵士が現れ、槍をクロスして馬車の前を塞ぐ。

木陰に潜む冷たい金属の気配が、森の静寂を一瞬で壊した。


「はいはいー、とまってくださぁい。」

妙に間延びした声。しかし、その目は油断なく私たちを舐めるように観察している。


「そこの二人…荷物確認してもいいかなぁ?」


心臓がひときわ強く脈打った。

――バレる。

冷や汗がこめかみを伝い、指先がわずかに震える。


ダイルを見る。だが彼は相変わらず、まるで退屈そうな顔で兵士を眺めているだけ。


一人の兵士が私に向かって顎をしゃくり、降りろと合図を送る。

足が鉛のように重い。それでも地面に降り立ち、兵士の視線を避けるように俯く。


木箱の蓋がゆっくりと開けられる。

――あぁ、ダメだ。殺される。


箱の中には剣、盾、そして魔石。

兵士はそれらを品定めするように眺め、にやりと口角を吊り上げた。


「あれぇ…剣に盾、それに魔石までおまけ付きかぁ?

これは立派な密入だよなぁ。ていうかそもそも、関所を通らずにここ来てる時点で…アウトだろ?」


槍の石突きで地面を軽く突き、くるくると回しながら、兵士は私たちの周囲をゆっくりと歩く。

獲物をいたぶる肉食獣のように。


喉がからからに乾く。

どうする…殺す? いや、相手は人だ。私は――もう誰も。


その時、兵士の影が私に覆いかぶさった。

顎を持ち上げられ、視線が強制的に絡み合う。


冷たい鉄の匂いと、笑っているのに濁った瞳。

その口が、低くいやらしい言葉を吐き出した。


「あんたぁ、いい顔してんなぁ…。

よぉし、男から殺すぞ。女は……あとでゆっくり、楽しませてもらう。」


森の空気が一瞬で凍りつく。

その笑みが、私の中の何かを静かに切り裂いた。


ダイルの首元に、二方向から槍の穂先が突きつけられる。冷たい金属の光が、彼の喉元を線のように切り取っていた。


「お前、常習犯だろ? いつもこのルート使ってた。バレてんだよ、バカが。」


兵士の声には勝者の余裕があった。

だが、ダイルはただ横目で二人を流し見るだけだった。


「あんたら、その黒い鎧……ロサド王国、シャルム王朝側のやつだな。

なるほど、ここは前までザックス王朝支持者の土地だった。そこに物資を送る予定だったが――」


「そのまさかだよ、猿頭。ここはとっくにシャルム様の領土だ。」


胸の奥がきしむ。

このままじゃ、ダイルが殺される。

私は何もできないのか。


「アスト……」


肩にいる小さな狐――私の師であるアストを見る。

彼女は瞼を閉じ、首を小さく横に振った。


「フィナが、奴らに黒点を打てれば……まだ可能性はあるが。」


黒点……。

その単語だけで、背筋を嫌な冷たさが這い上がる。

使えばまた、アルマフィエルのように――人を殺すことになる。


私は拳を握りしめ、目を固く閉じた。

焦りと恐怖と、吐き気にも似た感情が胃を締め上げる。


その時だった。


――ドシャ。


鈍く湿った音が耳を打つ。

まるで生肉の塊が地面に落ちたような……いや、それよりもっと、重く、確実な音。


ゆっくりと目を開く。


――は?


「……兵士が、死んでる。」


音すらなかった。

ただ兵士の胴体が、甲冑ごと真っ二つに断たれ、上半身が私の目の前に転がっていた。

赤黒い液体が地面に染み込み、鉄の匂いが鼻腔を刺す。


腰が砕け、尻餅をつく。視界が揺れる。


「……は? 何して……何しやがった! テメェ!」


もう一人の兵士が絶叫した。

槍を握り直し、怒りと恐怖に顔を歪めながら、ダイル目掛けて突きを放つ。


――だが、その手には槍がなかった。

いや、それどころか……手首から先が、なかった。


血飛沫が弧を描き、森の緑を赤く染める。


震える兵士が声をあげようとする、その刹那――。


首が、落ちた。


まるで時間が止まったようだった。

ただ、落下する頭部と、立ち尽くす胴体の間に、重苦しい沈黙だけが満ちていた。


ダイルは、剣を抜いていなかった。

腰の鞘に収まったままの剣は、微動だにしていない。


――いや、抜かなかったのか、それとも……私が見えなかっただけなのか。

あまりに現実離れした出来事に、判断が追いつかない。


「……嬢ちゃん。」


低く、しかしよく通る声が私を呼ぶ。

視線を上げると、ダイルがゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。


足が動かない。

全身の筋肉が、恐怖に縛られていた。

理屈ではない――直感的に、「殺される」と思っていた。


けれど、彼が差し出したのは血塗れの刃ではなく、分厚い掌だった。


「立てるか? 危なかったなぁ。ゴールはすぐそこだ、行くぞ。」


あまりに何気ない口調。

まるで、今の出来事が日常茶飯事だとでも言わんばかりだった。


「……こ、ころ……殺した、人を……。」


自分でも情けないほど声が震えていた。


「あぁ、危なかったなぁ。奴らがここまで攻めてるとは予想外だった。」


「な、なんで……殺したの?」


問いかけた瞬間、ダイルの瞳が一瞬だけ鋭くなった。


「あぁ?」


その低い響きに、胸の奥がビクリと跳ねる。


「……殺すこと、ないじゃん……まだ気絶させるとか……」


「現実、見えてないのか?」


ダイルの声には、苛立ちと冷たさが入り混じっていた。


「お前、何のためにロサドに来たんだ。戦争って知ってるか? あの二人だって、何人も殺してる。」


「でも……それとこれは……」


「連れてきたのが間違いだったな。」


深く重い溜息と共に、彼は馬車へと乗り込む。


「言っておくが、お前が言ってるのは感情論だ。

殺してはいけない理由を、理屈で言えるようになってから物を言え。」


その目は刃のように鋭く、私の胸を貫いた。

そしてダイルは、私を道端に残し、手綱を打って走り去っていった。


残されたのは、二人の兵士の冷たい亡骸と、足元に広がる赤黒い染み。


――殺してはいけない理由。


そんなもの、言わなくてもわかると思っていた。

命は尊いものだから。

誰かが死ねば、悲しむ人がいるから。


……でも。


尊いって、誰が決めた?

悲しむ人がいるって、この兵士だって何人も殺してきたはずだ。


なら、お互い様――?


考えれば考えるほど、何かが崩れていく。

胸の奥にあったはずの「正しさ」が、音を立てて揺らいでいた。


私は薄暗い畦道を、ふらふらと、ただ前へ進んだ。

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