22話 密入国
何ヶ月かたち――。
「嬢ちゃん、そろそろ国境だ。」
ダイルの低い声が馬車の軋みとともに耳に届く。
私は重い瞼を上げ、前方に広がる細い畦道を見やった。
「なんか…ここまでの苦労が重すぎて、着いて嬉しいを通り越して…もう、何も感じなくなりました。」
吐き出すような声。
けれど、その奥底ではまだ油断の糸がピンと張られている。
それにしても――。
ぐるりと周りを見渡す。濃い緑の森が馬車を包み込み、道は馬一頭がやっと通れるほどの細さ。
国境と言えば関所や監視塔、鎧姿の兵士…そんな風景を想像していたが、ここにはただ、沈黙と湿った土の匂いしかない。
「国境にしては、ずいぶんと何もないんですね…もっとこう、門とか柵とか…」
「密入国だからな。人がいたら困るだろ。」
淡々と放たれた言葉に、背筋がひやりと凍った。
――密入国。
確かに、戦争中の国に武器や剣を堂々と持ち込めるはずがない。
胸の奥がざわつく中、その音が聞こえた。
ザシュ、ザシュ、と浅い草を踏み分ける音。しかも一方向ではない…左右から、二つ。
直後、道の両脇から黒い甲冑をまとった兵士が現れ、槍をクロスして馬車の前を塞ぐ。
木陰に潜む冷たい金属の気配が、森の静寂を一瞬で壊した。
「はいはいー、とまってくださぁい。」
妙に間延びした声。しかし、その目は油断なく私たちを舐めるように観察している。
「そこの二人…荷物確認してもいいかなぁ?」
心臓がひときわ強く脈打った。
――バレる。
冷や汗がこめかみを伝い、指先がわずかに震える。
ダイルを見る。だが彼は相変わらず、まるで退屈そうな顔で兵士を眺めているだけ。
一人の兵士が私に向かって顎をしゃくり、降りろと合図を送る。
足が鉛のように重い。それでも地面に降り立ち、兵士の視線を避けるように俯く。
木箱の蓋がゆっくりと開けられる。
――あぁ、ダメだ。殺される。
箱の中には剣、盾、そして魔石。
兵士はそれらを品定めするように眺め、にやりと口角を吊り上げた。
「あれぇ…剣に盾、それに魔石までおまけ付きかぁ?
これは立派な密入だよなぁ。ていうかそもそも、関所を通らずにここ来てる時点で…アウトだろ?」
槍の石突きで地面を軽く突き、くるくると回しながら、兵士は私たちの周囲をゆっくりと歩く。
獲物をいたぶる肉食獣のように。
喉がからからに乾く。
どうする…殺す? いや、相手は人だ。私は――もう誰も。
その時、兵士の影が私に覆いかぶさった。
顎を持ち上げられ、視線が強制的に絡み合う。
冷たい鉄の匂いと、笑っているのに濁った瞳。
その口が、低くいやらしい言葉を吐き出した。
「あんたぁ、いい顔してんなぁ…。
よぉし、男から殺すぞ。女は……あとでゆっくり、楽しませてもらう。」
森の空気が一瞬で凍りつく。
その笑みが、私の中の何かを静かに切り裂いた。
ダイルの首元に、二方向から槍の穂先が突きつけられる。冷たい金属の光が、彼の喉元を線のように切り取っていた。
「お前、常習犯だろ? いつもこのルート使ってた。バレてんだよ、バカが。」
兵士の声には勝者の余裕があった。
だが、ダイルはただ横目で二人を流し見るだけだった。
「あんたら、その黒い鎧……ロサド王国、シャルム王朝側のやつだな。
なるほど、ここは前までザックス王朝支持者の土地だった。そこに物資を送る予定だったが――」
「そのまさかだよ、猿頭。ここはとっくにシャルム様の領土だ。」
胸の奥がきしむ。
このままじゃ、ダイルが殺される。
私は何もできないのか。
「アスト……」
肩にいる小さな狐――私の師であるアストを見る。
彼女は瞼を閉じ、首を小さく横に振った。
「フィナが、奴らに黒点を打てれば……まだ可能性はあるが。」
黒点……。
その単語だけで、背筋を嫌な冷たさが這い上がる。
使えばまた、アルマフィエルのように――人を殺すことになる。
私は拳を握りしめ、目を固く閉じた。
焦りと恐怖と、吐き気にも似た感情が胃を締め上げる。
その時だった。
――ドシャ。
鈍く湿った音が耳を打つ。
まるで生肉の塊が地面に落ちたような……いや、それよりもっと、重く、確実な音。
ゆっくりと目を開く。
――は?
「……兵士が、死んでる。」
音すらなかった。
ただ兵士の胴体が、甲冑ごと真っ二つに断たれ、上半身が私の目の前に転がっていた。
赤黒い液体が地面に染み込み、鉄の匂いが鼻腔を刺す。
腰が砕け、尻餅をつく。視界が揺れる。
「……は? 何して……何しやがった! テメェ!」
もう一人の兵士が絶叫した。
槍を握り直し、怒りと恐怖に顔を歪めながら、ダイル目掛けて突きを放つ。
――だが、その手には槍がなかった。
いや、それどころか……手首から先が、なかった。
血飛沫が弧を描き、森の緑を赤く染める。
震える兵士が声をあげようとする、その刹那――。
首が、落ちた。
まるで時間が止まったようだった。
ただ、落下する頭部と、立ち尽くす胴体の間に、重苦しい沈黙だけが満ちていた。
ダイルは、剣を抜いていなかった。
腰の鞘に収まったままの剣は、微動だにしていない。
――いや、抜かなかったのか、それとも……私が見えなかっただけなのか。
あまりに現実離れした出来事に、判断が追いつかない。
「……嬢ちゃん。」
低く、しかしよく通る声が私を呼ぶ。
視線を上げると、ダイルがゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。
足が動かない。
全身の筋肉が、恐怖に縛られていた。
理屈ではない――直感的に、「殺される」と思っていた。
けれど、彼が差し出したのは血塗れの刃ではなく、分厚い掌だった。
「立てるか? 危なかったなぁ。ゴールはすぐそこだ、行くぞ。」
あまりに何気ない口調。
まるで、今の出来事が日常茶飯事だとでも言わんばかりだった。
「……こ、ころ……殺した、人を……。」
自分でも情けないほど声が震えていた。
「あぁ、危なかったなぁ。奴らがここまで攻めてるとは予想外だった。」
「な、なんで……殺したの?」
問いかけた瞬間、ダイルの瞳が一瞬だけ鋭くなった。
「あぁ?」
その低い響きに、胸の奥がビクリと跳ねる。
「……殺すこと、ないじゃん……まだ気絶させるとか……」
「現実、見えてないのか?」
ダイルの声には、苛立ちと冷たさが入り混じっていた。
「お前、何のためにロサドに来たんだ。戦争って知ってるか? あの二人だって、何人も殺してる。」
「でも……それとこれは……」
「連れてきたのが間違いだったな。」
深く重い溜息と共に、彼は馬車へと乗り込む。
「言っておくが、お前が言ってるのは感情論だ。
殺してはいけない理由を、理屈で言えるようになってから物を言え。」
その目は刃のように鋭く、私の胸を貫いた。
そしてダイルは、私を道端に残し、手綱を打って走り去っていった。
残されたのは、二人の兵士の冷たい亡骸と、足元に広がる赤黒い染み。
――殺してはいけない理由。
そんなもの、言わなくてもわかると思っていた。
命は尊いものだから。
誰かが死ねば、悲しむ人がいるから。
……でも。
尊いって、誰が決めた?
悲しむ人がいるって、この兵士だって何人も殺してきたはずだ。
なら、お互い様――?
考えれば考えるほど、何かが崩れていく。
胸の奥にあったはずの「正しさ」が、音を立てて揺らいでいた。
私は薄暗い畦道を、ふらふらと、ただ前へ進んだ。




