18話 予知する魔物
床を蹴る衝撃と共に、視界の端から端までが流れ、周囲の木々が風に吹き飛ばされるように遠ざかっていく。
――気づけば、私は空にいた。
「……ま、待って。は? なんで? え、え、なにこれどういうこと!?」
脳が状況に追いつかず、体が空中でくるくると回転する。
頭と足の位置が反転し、空も地も見えない。
ただ、風圧と視界の端で、遠ざかっていく馬車だけが、現実だった。
そんな私の肩で、アストは信じられないほど安定した足取りで動いていた。
「フィナ、落ち着け。君はアルマフィエルの力を一度だけ解放している。その記憶がどこかに残っていれば、空中での立体的な感覚も掴めるはずだ」
「そんな冷静な解説してる場合!? 今、今私、飛んでますけど!?」
「それはこっちのセリフだっつーの! 上だ!来るぞ、避けろ!」
視界の隅が急に暗くなった。
振り返るより早く、空気を裂く咆哮とともに、1体の《ハングバッド》が高速で突っ込んでくる。
反射的に腰を捻る。
風圧が頬を切り裂く寸前で、私はそれを躱した。
バランスが崩れる。
体勢を立て直しながら、重力に引かれるように落ちていく。
だがそのまま、私は視界の端に映った木のてっぺんを目掛けて飛び移り、枝を軋ませながら着地した。
「っ、セーフ……!」
下は見ない。見ればきっと怖くなる。
代わりに私は、上を見た。
そこには、三体のハングバッドが、私を取り囲むように円を描いて旋回していた。
その姿はコウモリに近いが、はるかに大きい。
両翼はまるで帆のように広く、骨の部分が透けて見え、喉元から微かに火のような光が灯っている。
「フィナ、聞け。あれは《空中捕食》を得意とする群体魔物だ。連携と速度で仕留めてくる」
「じゃあやっぱ、落ちたら終わりってことね」
「正確には、 落ちる前に喰われるだな」
私の背筋に、氷の爪で撫でられるような感覚が走る。
でも、もう逃げ場はない。
空も、地も、今はどちらも敵だ。
なら、戦うしかない。
私は両足に力を込め、枝の上で身を低く構えた。空気がピリつく。風が、頭上を旋回する巨大な羽音に巻き込まれて唸りを上げる。
その瞬間――突如、甲高く耳を突き刺すような音が四方から降り注いだ。
「――ッ!」
耳を塞ぐ。それでも脳が揺さぶられる。目の奥に閃光が走るような感覚。意識が霞む。
「アスト……なに、これ……。」
「超音波だ、群れで連携して放つ高度な索敵手段……!奴ら、目が退化している代わりに、音で全てを視るのだ。空間だけじゃない、動きの癖、筋肉の収縮、呼吸のリズム……敵を細胞単位で立体的に把握する。」
私はごくりと唾を飲む。目の前が歪む。枝の上に立っているだけで、全身の毛穴が針で刺されたように感じる。まるで、全身を覗かれているような感覚。
「つまり……」
「そう、フィナ。ハングバッドは、君の次の動きを読む。未来予知に近い領域だ。感覚の速さと処理能力……奴らは、天敵を真っ向から潰すために進化した 狩猟者だ。」
「じゃあ、普通の戦い方じゃ勝てないってことね……。」
「普通なら、な。」
私は下唇を噛み、視線を空へ戻す。ハングバッドたちは群れを成し、円を描くように飛んでいる。あの動き……網だ。立体的な包囲網で、私の逃げ場を潰そうとしている。
でも、私は思い出す。――あの時。ニアと見た飛竜の動き、獣の呼吸、力の暴走の感覚。私は一度、 人ではない力に触れている。
「アスト、行けるかも。」
「……お前、まさか。」
「もう一人の私が教えてくれる気がする。あの時、谷の底で感じた……アルマフィエルの力。」
「――フ…それをすでに感じ取っているなら、私が口出しできることはもう少ないかもしれないな。」
アストの声が、どこか誇らしげに響いた。その口調は変わらず冷静だが、言葉の端に、わずかな期待と信頼が滲む。
「なら、私は君の知識の書庫となろう。君は己の内に宿る力に、全神経を注ぐんだ、フィナ。」
私は静かに頷いた。風が一瞬止んだような気がした。胸の奥で灯るあの力が、静かに目を覚ます。私は腰の剣へと手を伸ばす。
シュッ、と鞘から抜ける金属音が、やけに耳に心地よい。新しく鍛え直された刀身は、手のひらに吸い付くように馴染んだ。
「来なさい……ハングバッド! 未来予知だろうが、完封してみせるわッ!」
声と共に魔力が一気に高まる。風が逆巻き、枝葉がざわめく。私の声に反応したかのように、円を描いていたハングバッドのうちの一体が、くるりと鋭角に旋回し、翼を折りたたんで急降下してきた。
空気が引き裂かれる。
瞬間、私は一歩だけ動いた。いや――動こうと「した」瞬間には、すでに身体が加速していた。
地面との距離は数メートル。枝の上。時間にすれば1秒以下。にもかかわらず、全てがスローモーションのように見えた。
「……来るッ!」
ハングバッドの喉が振動する。小さく鳴った音波が空間を震わせる。あの超音波。次の動きを読まれる。普通なら、それで終わり。
だが今の私は、普通じゃない。
「ッ!」
身体を捻り、腰を軸に回転。剣の軌道を、敵の読みを外すように最後の瞬間で微細にずらした。
ハングバッドの肩口に向け、斜めに切り裂く――はずだった刃は、
……ミリ単位で届かない。
スカッという空気を裂く音とともに、私はわずかに重心を崩した。
「なっ……!」
刃が通ると確信していた。いや、確かに当たっていた。目の前に、確かにハングバッドの肉があったはずだった。
それでも奴は、先に知っていた。
これが――未来予知。
私は全身に冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。視界の端に、黒い影がうごめく。次の瞬間には、周囲を包囲するように3体のハングバッドが、枝や空中を使って位置取りを完成させていた。
「囲まれてる……ッ!」
木の上、斜め後方、真下、空中、枝の影……すべてに敵の気配がある。ひとつひとつが、息を合わせるように羽音を打ち鳴らす。その音が波紋のように広がっていく。
ギィィィィ……ィ……
鋭く、耳を突き刺すような高周波の共鳴。音が、脳に、骨に、内臓にまで響いてくる。
「……うぐっ……!」
思わず身体を沈め、頭を抱えそうになるが、動きを止めた瞬間、それが 死に直結すると理解している。
牙を剥く。翼がしなる。空気が割れるような気配。
「来る――!」
私の意識がそこに向かった瞬間、3方向からの同時攻撃が襲い掛かった。
当たる、その瞬間――
私は 幻影を使ってずらす。ひとつの分身が攻撃を受け、空気がはじけるように破裂する。
しかし、アストの声が飛んできた。
「ミスだフィナ! 幻影は使うな! 音波の索敵には効かない!」
その言葉が届いた瞬間、冷水をぶっかけられたように、頭の中が冷える。
そうだ。あいつらは、目じゃなく 音で位置を取ってる。幻影は……無意味。
その間にも、後方から一体が接近していた。私は、床を蹴って勢いよく身体を反転――そして足で蹴り上げる!
「――ッ!」
爪先が触れる寸前、ハングバッドはまるでバネのように身体を跳ね、後退した。
ピシャッ、と空を切る足。その軌道に、黒い羽が一枚、ひらりと舞う。
「逃げられた……!」
私の蹴りは、空を斬っただけだった。
しかも、今の動きで次の着地場所が読まれる……!
「ッ……ッ!」
焦りが、喉元に張り付く。未来を読まれる、連携される、幻影は効かない――。
この敵――
この空中を自在に飛び、連携し、未来を読むコウモリの化け物たちは、手強すぎる。
私の周囲を旋回しながら、時に突き、時に囮となり、まるで 群れそのものが意志を持っているかのように、動きに一切の無駄がない。
だが、私はそれでも落ちていない。
幻影は効かないと分かった今、代わりに 反射に賭けている。
本能と筋肉が覚えた軌道で――ギリギリで避ける。
剣を構え直す暇もない。刃を振れば、そこに 次の攻撃が来る。
回避、回避、また回避。枝から枝へ飛び、時に幹を蹴って飛ぶ。
だがこれでは、反撃に回れない。
「っく……頭が、パンクしそう……!」
全身から汗が噴き出す。息も、整わない。
空中戦、立体的な音波索敵、未来予知。情報が脳に詰まり、処理が追いつかない。
「アスト! あんた、アルマフィエルと戦ったことあるんでしょ!? なら……!」
その強さの中に、私が 開く鍵がある気がした。
今、私はアルマフィエルの力を抱えている。ならば――知ることで、引き出せるはずだ!
だが、返ってきた声は冷静で、しかし容赦なかった。
「……無理だ。今のフィナには、その記憶は重すぎる。」
「無理って……じゃあ、他に方法はないの!?」
「なら、ほんの一部だけ見せよう。
あの神獣の力を構成する――《記憶の三原則》。」
私はその言葉に意識を集中させながらも、襲い来る攻撃を木の枝を使ってかわし続けた。
地面に降りる余裕もなく、空間が狭くなっていく。
「一つ、《完全模倣》。見た能力・魔術・動作を、あらゆる種族の間でも完全にコピーする。」
「……ッ!」
また一撃、目の前を掠める。枝が裂け、バランスを失いかける。
「二つ、《記憶継承》。前世も含め、あらゆる記憶と体験を、 過去の自分から受け継ぐ。」
それはまさに……!
「三つ、《思考透視》。目の前の相手の 次の行動を、心の動きごと読み取る力だ。」
私は、強く唇を噛んだ。
この3つは、確かに 未来予知の化け物を打ち破る鍵になり得る。
でも……今の私ができそうなのは――
「…… 記憶……!」
「そうだ、フィナ。アルマフィエルの力は 記憶から形になる。
君が かつて使った力ならば――思い出せさえすれば、再現は可能なはずだ!」
また一体が突っ込んでくる。
だが今度は私はただ避けなかった。
剣を強く握り直す。
谷の底……崩れた世界で、私の中から溢れ出たあの感覚――!
「思い出せ……私の力……!」
自分の本質を、自分に向けて解き放つ。
その瞬間、私の足元から立ち昇ったのは、禍々しくも神聖な黒の魔力。
それは煙でも光でもなく、 存在そのものが染まったような――異質で、それでいて懐かしい感覚。
「っく……!ダメだ! フィナ、これじゃ……また!」
アストが焦りの声を上げた。肩の上で、しっぽが逆立っている。
けれど、私は違った。
全身を包み込む黒の奔流――
それに呑まれる感覚を、私は拒絶しなかった。むしろ、迎え入れた。
目の前に、かつての 自分の姿がよぎる。
谷の底で、制御を失い、ただ破壊を繰り返したあの日――
「ダメ…アルマフィエル。あの結末は、私たちが、一番よく知ってるはずよ。」
目を強く閉じ、深く、深く息を吸い込む。
荒ぶる魔力の中に、自分の 核を探り当てるように。
私はアルマフィエル――でも、それだけじゃない。私は……フィナ!
目を開いた。
瞬間、黒の魔力が身体の内から指先に向かって一点集中する。
暴走じゃない。これは制御だ。
世界が、一瞬、静止した。
すべての音が消えた気がした。
そして私は、翼を広げ旋回する1匹のハングバッドに、指先を向けた。
「じゃあね。」
その言葉とともに、記憶の中で響いていた あの技の名を口にした。
「――黒点」
空間が破裂するような音も、閃光もなかった。
ただ、静かに、そこに 穴が開いた。
刹那。
指先から放たれた黒点は、何の軌道も見せずに、直線でもなく、 瞬間として敵の首に到達していた。
未来予知――敵が私の動作から 次の攻撃を予測し、脳が筋肉に指示を送るそのタイミング。
だがその前に、すでに 終わっていた。
貫通した首元の穴の向こうに、青空が揺れている。
バサァッ――と羽音がし、力を失った巨体がゆっくりと落ちていった。
「……1匹、撃破。」
私は短く呟いた。
そのとき、肩の上のアストがポツリと漏らす。
「……これ……私、もういらなくね?」
小声だったが、はっきりと聞こえた。
私は思わず口角を吊り上げた。
「アストがいなきゃ、ここまで辿り着けなかったわよ。」
唇をへの字に引き結んで、私は残りのハングバッドたちを見据えた。
「さあ――次、行こうか。」




