15話 新しい旅
「疲れているだろう? 家に上がりなさい。出発は――明日だ。」
その一言に、私は小さく頷いた。
「……わかりました、アストノストさん。」
その背中を追って、私は静かに扉の中へと足を踏み入れた。
⸻
―翌朝。
まぶたの裏に、やさしい白光が差し込む。まるで夢の余韻を切り取るように、ほんのりとあたたかい。
私はゆっくりと目を開けた。
窓からこぼれる日差しが部屋を満たし、世界を淡く染めていた。けれど、不思議なことに――そこには*音がなかった。鳥のさえずりもなければ、虫の羽音もない。ただ、風が草原を撫でる音だけが、時折ささやくように耳元に届く。
まるで、時の止まった箱庭。
私はベッドに腰を下ろす。寝具はふかふかで、洗いたての太陽の匂いがした。
足元には、昨日とは違う、白と紺のコントラストが清楚な、新しい衣装が丁寧にたたまれていた。
鏡の前に立ち、袖を通す。見違えたようだった。昨日までのボロボロの自分と、確かに何かが変わった気がした。
くるり、と一回転してみる。
そのとき、ふわりと重みが肩に乗った。
「キュー」
白いキツネ――旅の友が、どこからともなく飛び出してきて、私の肩にすっぽりと乗り込んできた。
「おはよう。……ふふ、ちゃんと起きてたんだね。」
キツネは私の頬に鼻先を寄せ、静かに目を細めた。体温がじんわりと伝わってくる。誰かがいてくれるぬくもりが、胸の奥にまで染み込んでいく。
私は鏡の中の自分を見た。昨日と同じ顔。けれど、瞳の奥には確かに決意が灯っている。崩れかけた私を、今、ようやく拾い上げた気がした。
外に出ると、乾いた風が頬を撫でた。
アストノストは小高い丘の上で私を待っていた。その立ち姿には、どこか穏やかな風があった。
「起きたか。早速で悪いが、そこの荷物を持って私の前に来てくれ。」
私は頷き、アストノストの隣へと歩みを進めた。彼女の足元――草を押しのけるようにして、巨大な魔法陣が地面一面に広がっていることに気づいた。
幾何学の文様、揺れる蒼光、浮かび上がる封印文字列。大地ごと異世界に書き換えるかのような気配があった。
「これが、フィナを龍の谷から外に運ぶ魔法だ。魔法陣の中心に立ち、私が魔力を注ぎ込めば、一瞬で**“地上”**へと転送される。」
「……はい。私の準備は、できてます。」
不安は、まだ胸の奥に残っている。けれど、それを飲み込んででも、私は進むことを選んだ。
それを聞いて、アストノストの口角がわずかに上がる。
「なら行くが良い、フィナ。君は見つけるだろう。
――幸せ、苦しみ、それらがひとつになった答えを。」
その言葉に、脳裏のどこかがかすかに震えた。
だが、考える間もなく、魔法陣が咆哮を上げるように光を放った。文字列が高速で回転し始め、大地が震えた。重力が…歪む。
刹那、世界がひっくり返った。
「――いってこい、フィナ。お前は、まだ何者でもないのだから。」
アストノストの最後の声だけが、光の中に深く残った。
そして私は、落ちた。
あの谷底の、果てのさらに果てから、
世界の表面へと――落下して行った。
どれだけの時間、落下していたのだろう。
何層もの風の膜を突き破りながら、私は地上へと転送された。
地上の空が、下にあった。
谷の底を抜けた瞬間、体が大きく揺れる。重力が地上のものへと戻った瞬間、私は無意識に体勢を整え、大地を、踏んだ。
そこには、見覚えのある景色が広がっていた。山肌は削れ、木々は黒く炭のようになり、地表は波打つように捻れていた。まるで、巨大な手で一面を抉られたようなクレーターが、そこには広がっていた。
私は、そっと両手を合わせ、黙祷の姿勢を取る。
――許してほしいなんて、思っていない。でも、忘れたくなかった。私が壊してしまったものを、ちゃんと胸に刻んで進みたいと思った。
だがその時。
「フィナ、君は、何を――」
あまりに唐突な声に、私は飛び跳ねるように振り返った。あの白いキツネが、のんびりと座っていた。
「まさか……アストノストさん……?」
「それ以外に何がいる? 察しが早いな。そうだ、私はこのキツネを通じて、お前に声を届ける。」
キツネ――アストは目を細めた。
「それよりも、祈っていたようだが……なぜ手を合わせていた?」
「……祈り、みたいなものです。多分……私のせいで、この地にいた植物も生き物も、全部消えてしまったんだと思う。ニアも。」
「そうか……」
キツネの目が細くなり、やがて空を見上げた。
「ならば、私も同じだ。もし君の旅路の中で、かつて私が消してしまった国を通るなら……その地に、祈りを捧げよう。」
静かで、少しだけ優しくなった風が流れる。私はその風を肺に満たす。少しだけ呼吸が、楽になった気がした。
新たな目的地の設定
「アストノストさん……それで、私は――ある人を探しているんです。」
私は頷き、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「男の人です。目は黄色。服は黒くて、全体的に影みたいに見える人。あと――エルフの種族だって、誰かが言ってました。」
キツネの口元がゆるりと動く。
「心当たりがないわけではない。――そういうのに詳しい奴が一人、いる。」
「……誰ですか?」
アストの目が細まり、キツネの姿のまま、それでいて明らかに鋭い気配を放った。
「神録のエリアノスだ。」
私は息を呑んだ。技極の第九席、神録の異名を持つ技極の管理者。
「奴の神眼はすべてを視る。過去も、現在も、場合によっては可能性の未来さえも見通す。君が探すその男の所在も、必ず知っているはずだ。」
胸が、熱かった。ようやく――探していたものが、道として再び目の前に現れた。
「だが……エリアノスに会うのは、正直、相当厳しいぞ。」
アストは現実を告げる。
「彼は空中神殿にいる。雲海の上、常に風が渦巻く、高度数千の空域に浮かぶ神域だ。通常の手段では辿り着くことすら困難。神殿の場所すら、世界に明かされていない。」
「……じゃあ、どうすれば?」
しかしアストは柔らかく笑ったように見えた。
「答えは一つだ。――探すしかない。」
「え?」
「旅をするんだ、フィナ。探すために。辿り着くために。目指すべき場所があるなら、手段は歩くだけでいい。」
「なるほど……。空に浮かぶ神殿を探す旅……うん、なんだか、本物の冒険って感じがしますね。」
「あと一つ、大事なことだ。」
「?」
「君も、技極のひとりなのを忘れるな。十席の名は世界中に知れ渡っている。下手に本名を使えば、ただの旅人では済まされなくなる。」
私は内心で唇を噛んだ。
「それなら……偽名を使えばいいんですね。」
「そうだ。私のこともアストと呼んでくれ。さすがにアストノストは目立ちすぎる。」
「了解です。じゃあ私も、新しい名前を考えなきゃですね。」
「うむ。旅を始めるなら、君も新しい自分になるべきだ。」
私は、ふと空を見上げた。
雲は、風に吹かれてゆっくり流れている。その先に、神殿があると信じて。
肩に乗っていた白いキツネが、私の頬に鼻先をこすりつける。
「……行こう、アスト。私だけの、新しい旅に。」
私はゆっくりと踵を返し、クレーターの縁から、新しい世界へと足を踏み出した。




