11話 龍の谷
――サンドワームとの戦いから、約一ヶ月が経過した。
フィナは、驚くほどに順調に、否、それ以上の速さで冒険者として階段を駆け上がっていた。Bランク帯の魔物を単独で制圧する彼女の姿は、誰の目にも実力者として映る。
だが、私は見ている。彼女が時折見せる異質な瞬間を。
魔法の軌道、回避の角度、攻撃の意図。どれもが計算を超えて、何度も戦ってきたかのような精度で成立している。
フィナの中にいる何かは、彼女の危機に応じて、静かに目を覚ますのだ。正体はわからない。ただ、確実にいる。
そしてその存在は、彼女が本気で戦っている間だけ、情報にかけられたロックを緩ませる。
つまり、もっと強い魔物。もっと厄介で、深くまで彼女を追い詰める存在。
フィナに本物の死を意識させるほどの脅威。
それをぶつけるしかない。フィナの仮面を剥がすには。
彼女の中に潜む本当の姿を、この目で見届けるために。
「ニア、私、そろそろこの国を発とうと思うわ。ここに長居しても、もう何も変わらないもの」
それは、前から決めていたことだった。
ここでの日々は温かかったし、ニアの存在は心強かった。だが、これ以上いるのは甘えになってしまう気がして――怖かった。
私の原点である旅人を探さなくちゃいけない。自分の寿命を考えれば、足を止めてる暇なんて、本当は最初からなかった。
「フィナちゃん…私もついて行ってもいい?」
その言葉に、私は一瞬、目を伏せた。ニアの声は少しだけ震えていた。
「ごめん、ニア。これは私の旅なの」
言葉にすると、胸の奥がじんと痛んだ。
「感謝してるよ。でも、教えてもらったこと、全部一人でできるようになって、そしてその上で旅人の隣に立ちたいの。私は、誰かに守られるだけの存在じゃ終わりたくない」
微笑んで、ニアの顔を見たとき――
彼女の頬を、透明な涙がひと粒、静かに伝っていた。
「ニア…?」
私は驚いて言葉を止めた。いつも毅然としていて、感情に流されないと思っていたニアが、こんなにも脆くて、まっすぐな心を持っていたなんて。
「フィナちゃん、あなたは…本当は、私の初めての友達なの」
かすれるような声に、私の胸がぎゅっと締めつけられた。
「だから、フィナちゃんの旅を私は応援したい。でも……最後に私のお願いを一つだけ、聞いてもらってもいい?」
ニアの瞳はまっすぐで、真剣で、でも、少しだけ揺れていた。その涙は、彼女の孤独の証のように見えた。
「ニアの願いなら……なんでも聞くよ!」
私は即答した。
両手でニアの手をしっかりと握る。その手は少し冷たかったけど、強く握り返してくれる温もりがそこにあった。
「なら最後に…一緒に魔物討伐に行かない? 友達として、仲間として、最後にあなたと戦いたいの」
「もちろん!」
私は大きく頷いた。これは別れじゃない。それぞれの旅の始まりを、同じ瞬間に刻む、特別な時間なのだと――そう思えた。
「それで…ニアは何を狩る気なの?」
私が問いかけると、彼女は涙を拭い、自信たっぷりに頷いて、懐から一枚の紙を取り出した。パリパリとした質感、少し焼けた端。
「いいのがあるのよ! ほら、これ!」
ニアが差し出した紙に視線を落とす。
『B級討伐依頼――飛竜の討伐』
報酬金:7,000リル
依頼内容:龍の谷で活動している飛竜1体の討伐。個体数増加の報告あり。
飛竜。
文字を追った瞬間、私の背筋にかすかな緊張が走った。龍の名を冠する存在――それだけで、冒険者としての本能が、無意識に身を引き締める。
「飛竜って…どれくらい強いの?」
私の警戒を察してか、ニアは笑った。今度は、優しさを含んだ、しかし完璧に計算された笑みだった。
「まぁ、今のフィナちゃんなら――危ないことは、ないよ」
その一言には、友への信頼が込められているように聞こえた。
「そっか。なら、行こう。…この一撃、飛竜に捧げる!」
私は静かに笑った。心の奥に宿った緊張が、戦いを迎える高揚へと変わっていく感覚。
さぁ、最後の戦いへ。これは別れのための共闘なんかじゃない。始まりを飾るにふさわしい、最高のテストだ。
ニアと並んで歩き出す。目的地は、龍の谷――伝承によれば、かつて本物のドラゴンが眠っていたとされる古の地。
「……ねぇ、ニア。これ、もしかしてB級の皮を被ったA級だったりしない?」
「気のせいよ、気のせい。フィナちゃん、こういう時は振り返らないものよ!」
「うそくさい励まししないでぇぇぇ!」
そうして、私たちは笑い合いながら、風の音に背中を押されるように一歩を踏み出した。
――そして、その数刻後には、龍の谷と呼ばれる禁忌の地に到達していた。
視界の先に広がる光景は、まるでこの世界から切り離された異界だった。
山肌は鋭く切り立ち、色彩は一様に褪せた鉛色。谷底は靄に包まれ、太陽の光さえ届かないのか、全てが不気味な影となって沈んでいた。
足元に続く一本道は、片側が断崖絶壁。もう片側は、覗き込む者を奈落へと誘う、底の見えない暗黒の裂け目。
私は歩みを止め、谷の縁に近づく。
下から吹き上げる風は、まるで生き物の吐息のように湿り気を帯びていて、私の肌に不快なざわめきを残した。
この谷には、確かにいる。
誰かの想像が作った怪物なんかじゃない。ここには、太古から生き延びた本物が息づいている――そんな確信が、私の内側を静かに侵食してくる。
「ねぇニア、飛竜って、本当にB級なの?」
ニアはわずかに笑って、谷を見下ろす私の肩にそっと手を置いた。
「……フィナちゃんがそう感じるなら、それが答えなんじゃない?」
その手のぬくもりは、かつてないほど優しくて温かかった。まるで、別れの挨拶のような、引き金を引く前の祈りのような。
「そろそろね……気をつけて、フィナちゃん」
その一言が、風より先に、私の心を震わせた。言われなくても、もう分かっていた。この場所には、ただの魔物じゃない、何かがいる。皮膚の下を這うような感覚、筋肉が自然に緊張するあの感じ――まるで、意識とは別の私が、戦闘の構えを取っているようだった。
――その時だった。
谷の底から、空気が逆流するような音が響いた。
それは山全体を通して吸い上げられた呼吸が、一気に噴き出すような、咆哮めいた風圧だった。
瞬間、私の横を、黒い巨大な影が稲妻のような速度で駆け抜けた。
視界の中央を縦一文字に切り裂いていく――それは、まるで空間そのものが一瞬ひび割れたかのような錯覚を与えるほど、異様な質量と速度だった。
その影は、私たちの背後、今まさに通ってきた崖道へ向かって着地した。
地鳴り。岩の破砕。空気が歪み、重力が狂ったように感じる。
私は、歯を食いしばって無理やり体を動かし、ゆっくりと後ろを向く。
そこに、いた。
黒曜石のように艶やかで、血を吸ったように深く濁った鱗。四肢には鋼鉄めいた筋肉が刻まれ、翼は裂けた布のように不揃い。目だけが異様に鋭く、黄昏の太陽を写したような金色をしていた。
「……飛竜……」
思わず呟いた。
それは災害だ。否、存在そのものが戦場を形成する領域だ。
現れただけで景色が変わる。空気が染まる。そういう種類の怪物。
「ニア……あれ、本当にB級なの……?」
喉の奥が乾き、心臓は嫌なリズムで脈打つ。このまま動かなければ、私の命はあっさり終わる。
それなのに、ニアは――
私の隣で微動だにせず立ち尽くし、ただ淡々と飛竜を見つめていた。その顔には、緊張すら見えなかった。
ゆっくりと、狂気じみた笑みを浮かべながら、ニアは呟く。
「ねえ、フィナちゃん。飛竜の最低ランクって知ってる?」
「今そんな話してる場合じゃ――!」
怒鳴った声は途中でかすれた。
それと同時に、またあの音が耳を打った。
――飛竜の吐息。たったそれだけで、生命の保証がすべて剥ぎ取られる。
「飛竜の最低ランクはねぇ……Sだよ?」
――……は?
思考が一瞬、完全に停止した。
「……っ、な……ん、で……」
「あはっ!」
はじけるような、明るすぎて不気味な声。
ニアは笑っていた。心底嬉しそうに、狂気に似た熱を帯びて。
「フィナちゃん、怖い顔してる。ああ、やっとだ……やっと見れるんだ、その顔が。私がずっと見たかった、本気のフィナ」
彼女は一歩、私の方へ近づいた。
その双眸は、もはや友達を見ているものではない。探求、執着、期待、そして狂信――そんな言葉がふさわしい光でぎらついていた。
「ねえ、お願い。今ここで全部見せて? あなたの中に眠るもの。あの時のサンドワームじゃ足りなかったの。私ね、知りたいの。あなたが何なのか、本当に何なのか……全部、暴かせて」
私は言葉を失ったまま、ただニアを見つめていた。
彼女の笑みは、嬉しそうで――どこまでも、どこまでも、哀しかった。
飛竜の存在に凍り付く恐怖と、友達に裏切られた絶望。二つの感情が、フィナの中で熱と冷たさとなって渦巻いた。




