第197話 まだ何もしてないのに!
対策本部が置かれていたのは、街の外れにある背の低い建物だった。周りを高いフェンスが囲み、入口では空港やホテルよりもさらに念入りに書類が確かめられた。中の廊下では、制服の人と私服の人が同じくらいの数で行き来していて、誰もが早足だった。
通されたのは、壁一面に大きな地図が映された部屋だった。
テーブルの奥で、一人の男が立ち上がった。
砂色の上着。短く刈った、白いものの混じる髪。画面越しでは分からなかったが、背が高い。陸より頭一つ分は上にあって、肩幅は倍くらいありそうだった。目の下の影は、あの夜のテントで見た時より、いくらか薄くなっている気がした。
「ウォーカーです」
差し出された手を握ると、彼は一度だけ強く握り返して、すぐに離した。
「直接会えてよかった、JOHN。長い移動だったでしょう。中の話は、もう画面で十分にしました。今日は、明日からのことを決めます」
陸の隣の椅子へ上がったエリナに、ウォーカーは短く目礼した。エリナも、首をこくりと動かして返した。
「その前に、先に渡すものを渡しておきます」
ウォーカーが目で合図すると、テーブルの端にいた女性が端末を持って前へ出てきた。灰色のスーツで、いかにも事務方という雰囲気の人だった。
「日本側との取り決めに基づく、任務参加の着手金です」
通訳の女性が、その言葉を追いかける。
「今回の任務に参加していただくことに対して、先にお支払いする分です。成功報酬は、任務が終わった後に別途。着手金の方は、たった今、送金の手続きが完了しました。日本側から指定されていた、ご本人名義の口座宛てです」
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
取り出すと、画面の上に銀行のアプリの通知が一つ出ていた。渡航の書類を揃えた時に、受け取り用にと高瀬に言われて開いておいた口座だった。通知を押す。アプリが開き、入金の一行が表示された。
200,000.00 USD
陸は一度アプリを閉じて、もう一度開いた。数字は変わっていなかった。
「にじゅう……まん、ドル」
「はい」
「ドルって、えっと、日本円だと――」
指で数えかけて、車の中でも同じことを途中でやめたのを思い出した。通訳の女性が、小さな声で助け舟を出してくれた。
「三千万円くらいですね」
「さんぜんまん!?」
声が天井まで跳ね上がった。地図の前で作業していた何人かがこちらを振り返る。陸は慌てて口を押さえたが、スマホの画面からは目が離れなかった。
「まだ何もしてないのに!? 着手金って、始める前にもらえるやつなんですか!?」
「始める前にお渡しするから、着手金です」
事務方の女性は端末に何か書き込みながら答えた。表情はほとんど変わらなかったが、口の端だけがほんの少し動いていた。
ポイントなら、もっと大きな数字を見たことはある。ボスバトルで一位を取った時は、一度に一億ポイントだった。けれど、これはポイントではない。海の向こうの国の政府が、陸の名前の口座に、陸がこれからする仕事に対して払ったお金だった。
「エリナ、見てこれ」
エリナが椅子から首を伸ばして、画面を覗き込んだ。
「すうじ、いっぱい」
「いっぱいなんだよ」
「……それで、げーむ、かえる?」
「何台でも買える」
エリナは少し考えてから、首を引っ込めた。
「いまの、いちだいで、いい」
ウォーカーに促されて、陸たちは廊下の奥の部屋へ移った。
研究室の試験区画に、少し似ていた。床が硬く、壁際に工具の棚が並んでいる。部屋の中央の台座に、スーツが立っていた。空港で別の車に積まれていった三つの黒いケースは、壁際に蓋を開けたまま並べられていて、一番大きなケースの人の形の窪みは空になっている。
台座の横で、作業服の男性が二人待っていた。一人は、空港で機体の後ろから親指を立ててくれた人だった。
「背中を上にしたまま運んで、ここで台座に戻しました。日本の研究班と回線をつないで、点検の項目も向こうの立ち会いで一通り済ませてあります。異常はありません」
陸は台座の後ろへ回った。背中の窓の中で、蒼星鉱がいつもの速さで瞬いている。
「ほし、ついた」
エリナが台座の脚の間から見上げていた。
「ついたな。ちゃんと」
作業服の男性が、壁際から別のケースを台座の前へ運んできた。日本から持ってきた浅いケースではない。銀色の、もっと大きくて分厚い箱だった。留め具を外して、蓋を開ける。
魔石が並んでいた。
細かい仕切りの一つ一つに一個ずつ、隙間なく収まっている。浅いケースに入っていた親指ほどの魔石より、一回り大きい。どれも内側で、同じ色の光がゆっくり揺れていた。この一年、数えきれないほど拾ってきた光り方だった。
「これ……全部Cランクですか?」
「Cランクの魔石、二百個です。こちらの保管分から、スーツの補給用に用意しました」
「にひゃく……!」
「任務の間は、必要なだけ使ってください。使った数はこちらで記録して、残った分は任務の終了後に返却していただく形になります。差し込み口に合うことは、日本の研究班とも確認済みです。ただ、向こうからの伝言で――最初は低い出力から、一個ずつ様子を見てほしい、と」
研究担当者の、隈の濃い顔が浮かんだ。
「了解です。いきなり全部はやらないって、伝えといてください」
大阪で試した時は、強い風を何度か撃っただけで、魔石の減りが早いと言われた。替えはどれだけあっても困らないはずだった。所持アイテムの中にも陸自身のCランクの魔石はあるが、あれはあれで、研究班に回す分にも、売る分にもなる。
「じゃあ俺の、減らさなくていいんだ……。っていうか、これだけあったら、風も途中で切れる心配しなくていいってことですよね!? 全開は、一個ずつ試してからですけど!」
「途中で切れないように、用意しました」
作業服の男性が、蓋の内側に挟まれていた紙を一枚抜き出した。個数と日付と、何かの番号が並んだ表で、一番下に署名の欄がある。陸がそこへ署名している間に、もう一人の男性がケースの番号を端末へ打ち込んでいった。
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