第196話 専用口!
英語の看板を何枚見送ったか分からなくなった頃、車は大きな道路を降りて、背の高い建物が並ぶ通りへ入った。
エリナはまだ窓に張りついている。信号待ちで隣に並んだトラックが、日本で見るものより二回りは大きくて、エリナはその荷台が通り過ぎるまで首を回して追いかけていた。
しばらくして、車は一棟のビルの手前でウインカーを出した。ガラス張りの正面玄関に車寄せがあって、制服のドアマンが立っている。ホテルらしい。陸はシートベルトに手をかけたが、車は正面玄関の前をそのまま素通りした。建物の横を回り込み、裏手の地下へ下りるスロープへ入っていく。
スロープの途中に、遮断機があった。
黒いスーツの男が二人立っていて、一人が運転席の窓へ近づいてくる。助手席の通訳の女性が書類を見せると、男は車の中を一度だけ覗き込み、後部座席のエリナのところで少し目を止めてから、耳元の無線へ短く何か言った。遮断機が上がった。
「この建物の一部が、政府の管理している区画になっています」
通訳の女性が振り返った。
「一般のお客さまとは、入口もエレベーターも別です。ここが、お二人の滞在先です」
「……ホテルの、裏口ってことですか」
「裏口というより、専用口ですね」
地下の駐車場には、空港で迎えてくれた受け入れ担当の男性が先に着いて待っていた。案内されて乗ったエレベーターには、階数のボタンがほとんど付いていない。男性がカードをかざすと扉が閉まり、足元が軽くなるような速さで上がっていった。
扉が開いた先は、短い廊下だった。突き当たりに扉が一つだけあり、その横にもスーツの男が一人立っている。男性がカードキーで扉を開け、陸たちを先に通した。
「広っ!」
居間だった。正面の壁が一面ガラスになっていて、さっき車で走ってきた街が、ずっと下の方に広がっている。四角い屋根と、定規で引いたような道路。その向こうに、空港から見えたのと同じ茶色い丘が低く続いていた。窓の手前にはソファが何脚もコの字に置かれ、その正面の壁に、陸が両腕を広げても端まで届かないくらいの大きなテレビが掛かっている。
麻布台の部屋も広いと思っていた。ここは居間だけで、それより一回り大きい。
男性が英語で話し、通訳の女性が訳した。
「寝室は奥に二つ。キッチンと食事の部屋はこちらです。滞在中のお部屋代、お食事、警護の費用は、全部こちらの政府で持ちます。食事は時間を言っていただければ運びますし、ほかに必要なものがあれば、この番号へ。二十四時間、誰かが出ます」
テーブルの上の小さなカードには、電話番号が一行だけ印刷されていた。
「全部って……ご飯もですか」
「ご飯もです」
「帰るまで、ずっと?」
「帰るまで、ずっとです」
陸はキッチンの方へ回ってみた。大きな冷蔵庫を開けると、瓶の飲み物と果物、包装された肉やチーズが段ごとにぎっしり並んでいる。扉を開けたまま、しばらくそれを眺めてしまった。
「……住めるじゃん、ここ」
食事の部屋を覗くと、大きなテーブルの端に、脚の短い台が一つ寄せて置いてあった。上には縁の低い平たい皿が重ねてある。窓際の床には、大きな丸いクッションまで置かれていた。機内で、最初から一口ずつに切られて出てきた肉を思い出す。あれは、あの飛行機の中だけの気遣いではなかったらしい。
エリナは丸いクッションの匂いを嗅いで、前脚で一度押してみた。それからくるりと向きを変え、居間へ戻っていった。テレビの正面にある一番大きなソファへ飛び乗り、真ん中で一回転して座り直す。
「ここ、エリナの」
「そっちなんだ」
男性が通訳の女性に何か尋ね、女性が笑いをこらえるような顔で訳した。
「クッションの場所を変えましょうか、とのことです」
「あ、いえ、大丈夫です。たぶん本人、あのテレビが目当てなんで」
エリナはソファの上から、真っ黒な大画面をじっと見上げていた。それから、陸の方を振り返った。
「リク。あれ」
何が言いたいのかは、聞かなくても分かった。
陸はテレビの横へ回り込んで、裏側を覗いた。端子の口がいくつも並んでいる。所持アイテムを開いて、ゲーム機の本体を出した。ダンジョンに泊まる時のために、ケーブルと一緒にずっと入れっぱなしにしてあるものだ。続けて一覧の一番下の行に触れると、麻布台のテレビの前からエリナがくわえてきた二つのコントローラーが、青白い光と一緒に手の中へ現れた。
ケーブルを差し込み、テレビの電源を入れる。入力を何度か切り替えると、見慣れた起動画面が、見たことのない大きさで壁いっぱいに広がった。
「でっか!」
ソファの上で、エリナの尻尾がばたんと跳ねた。
受け入れ担当の男性は、一時間後にまた迎えに来ると言って部屋を出ていった。ウォーカーが、対策本部で待っているらしい。
陸は奥の寝室で着替えることにした。ベッドは、陸が横向きに寝てもまだ余りそうな幅があった。シャワーを浴びて、機内で付いた寝癖を直す。所持アイテムから一番まともに見えるシャツを選んで着替え、居間へ戻ると、テレビから聞き慣れた効果音がしていた。
エリナがソファの真ん中で、コントローラーを両前脚で押さえていた。画面の中では、エリナがいつも選ぶキャラクターが、誰もいない足場の上を一人で走り回っている。
「もう始めてるし」
「れんしゅう」
「誰と戦う練習だよ」
「リク」
画面のキャラクターが足場の端から勢いよく跳んで、そのまま下へ落ちていった。エリナは何も言わずに、最初からやり直した。
扉がノックされたのは、それから三回ほど落ちた後だった。
「エリナ、行くぞ。続きは帰ってから」
エリナは画面と陸を二回見比べてから、ボタンを一つ押した。画面が止まる。
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