第194話 雲の上!
陸も向かいの席へ腰を下ろした。身体が沈む。肘掛けの横にボタンがいくつも並んでいて、試しに一つ押すと、足元から台がせり上がってきた。
「おお……!」
もう一つ押すと、背もたれがゆっくり倒れていく。慌てて戻すと、通訳の女性が少し離れたソファの席で、口元を手で押さえていた。
しばらくして、機体がゆっくり動き出した。
窓の外で、空港の建物が少しずつ横へずれていく。長い誘導路を進み、大きく向きを変えて、止まった。
エンジンの音が変わった。
低い唸りが一気に高くなり、背もたれが背中を押してくる。窓の外の景色が、見る間に速くなった。白い線が流れ、建物が流れ、遠くの機体が流れていく。
「うおっ……!」
陸は肘掛けを握った。ホバーバイクで飛ばすのとは、押される強さも、止まる気配のなさも違う。どこまで速くなるのか分からないまま速くなり続けて――ふっと、下からの細かい揺れが消えた。
身体が、少しだけ軽くなった気がした。
「リク」
エリナは窓ガラスに額をくっつけていた。
「じめん、とおくなる」
窓の外で、さっきまでいた空港が斜めに傾いていた。滑走路が細い線になり、並んでいた飛行機がおもちゃみたいに小さくなっていく。片側には海が広がり、反対側には建物がびっしりと続いていた。どこまでも続く屋根の間を、川と道路が細い線になって何本も走っている。
「あれ、全部東京か……!? タワーどこだ、タワー」
探しているうちに、機体はさらに上へ傾いた。
白いものが窓を覆った。
一瞬で外が真っ白になり、エリナがびくっと首を引っ込める。機体が小さく揺れて――それから、急に光が差した。
雲の上だった。
白い雲が、地面みたいにどこまでも下に広がっていた。でこぼこした表面に日が当たって、まぶしいくらいに光っている。その上には、何もない青だけがあった。
「くも、した……」
エリナが、ほとんど息みたいな声で言った。
第11階層の草原では、エリナは何度も空を飛んでいた。陸の周りをぐるぐる回って、風を受けて向きを変えて。それでも、雲を上から見たことはないはずだった。
「エリナ、自分で飛ぶのと、どっちがいい?」
エリナは窓から目を離さないまま、少し考えた。
「じぶんで、とぶ。……でも、ここまで、いけない」
「だよな。俺なんか、自分じゃ一センチも浮けないし」
エリナの尻尾が、クッションの上でゆっくり左右に揺れていた。
揺れが落ち着いてしばらくすると、制服の女性がテーブルに白いクロスを掛けてくれた。通訳の女性がそばへ来て、膝を折る。
「お食事は、お肉とお魚から選べるそうです」
「肉で!」
「にく!」
ほとんど同時だった。通訳の女性が英語で伝えると、制服の女性は笑って頷いた。
最初に小さなパンが何種類も入った籠が来て、温かいスープが来た。それだけで朝食には十分な量だったが、少しして運ばれてきた皿を見て、陸はスプーンを置いた。
分厚いステーキだった。焼き目のついた表面から湯気が上がり、横に野菜とソースが添えられている。
エリナの前にも、同じ皿が置かれた。
ただ、エリナの方の肉は、最初から一口ずつに切り分けられていた。皿も縁の低い平たいもので、クッションに座ったエリナが首を伸ばせば、ちょうど届く高さに置いてある。
「……エリナの分、切ってある」
誰かに言われたわけではない。どこかで、誰かが、エリナがどうやって食べるのかまで考えて用意していたのだ。
エリナは一切れくわえて、もぐもぐと噛んだ。噛むほどに、目が細くなっていく。
「おいしい」
「マジで? どれ……」
陸もナイフを入れた。ほとんど力を入れていないのに、すっと刃が沈んでいく。口に入れると、肉の味が一気に広がった。
「やわらかっ! え、これ機内食!? 飛行機の中で焼いてんの!?」
答える人はいなかった。エリナは次の一切れをくわえていた。
皿が半分ほど空いた頃、制服の女性がグラスに水を注ぎ足しに来た。陸の方を見て、英語で何か尋ねる。
「JOHN、――?」
最後の方は聞き取れなかったが、最初の名前だけははっきり分かった。
ランキングの画面で何度も見た名前だった。会議でも、ウォーカーにそう呼ばれた。けれど、目の前に立っている人に、当たり前のようにその名前で話しかけられたのは初めてだった。
「えっと……イエス。サンキュー」
何を聞かれたのかよく分からないまま頷くと、水のグラスがいっぱいになった。
食べ終わる頃、陸はソファの方へ顔を向けた。
「あの。これって、一回飛ばすといくらぐらいかかるんですか? この飛行機」
「……私も、伺ったことがありません」
通訳の女性は一拍置いて、それから笑った。
「想像しない方が、たぶん美味しく食べられると思います」
「ですよね……」
陸は皿に残ったソースを見下ろした。麻布台の家賃を聞いた時も同じようなことを思った気がするが、あの時は少なくとも数字があった。
最後に、小さなガラスの器に入ったアイスクリームが来た。エリナは一口目で鼻先を白くして、二口目でもっと白くした。陸がナプキンで拭いてやると、エリナは拭き終わるのを待たずに器へ顔を戻した。
食器が下げられると、窓の外の雲はいつの間にか切れていて、下には海しか見えなくなっていた。
どこまで行っても、青い。
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