第190話 人より先に!
モニターの中で、ウォーカーはしばらくペンを動かしていた。
対策庁の会議室は静かだった。部屋の隅では通訳の女性がヘッドセットに手を添え、高瀬はテーブルの端で端末を開いたまま、画面の向こうの言葉を待っている。カメラの外の椅子では、エリナがテーブルの縁に前脚をかけていた。
ウォーカーがペンを止めた。
「もう一つ。あなた自身は、どこにいる必要がありますか。召喚体を先に行かせるとして、あなたはどこから命令を出すことになるのか」
「中です。外からだと、あいつらに命令が届かないんで。入口の近くでも、中には入らないといけないです」
「佐藤さんと同行者の安全については、日本側からの条件として、すでに先方へお伝えしています」
高瀬が付け加えると、ウォーカーは頷いた。
それから、しばらく誰も話さなかった。
ウォーカーは書き込んだ紙を見下ろしていた。画面の向こうで、テントの布が風に揺れる音が小さく聞こえる。
やがて彼は顔を横へ向け、画面の外にいる誰かへ短く何か言った。通訳は訳さなかった。足音が一つ、テントの外へ出ていく。続けて、ウォーカーは机の端に置いていた無線機を取り上げた。
彼が顔を横へ向けたことで、背後の入口の布が少しめくれているのが見えた。外は投光器の光で白っぽく照らされていて、車両の横に、装備を着けた隊員が何人か立っていた。ヘルメットをかぶり、背中に大きな荷物を背負っている。足元には、三番と同じ形の三脚がいくつも並んでいた。
ウォーカーが無線に向かって話した。
隊員の一人が耳元に手を当て、テントの方を振り返った。周りの隊員たちも、順にこちらを向く。何か言い返したらしい隊員に、ウォーカーがもう一度、さっきより短く答えた。
しばらくして、最初の隊員がヘルメットのあご紐を外した。それを脱いで、車両のボンネットの上に置く。隣の隊員が背中の荷物を下ろし、別の一人は、並べてあった三脚を一本ずつ車両の荷台へ戻し始めた。
ウォーカーは無線機を置いて、画面へ向き直った。
「今のは、明日の朝に中へ入る予定だった班です」
通訳の声が、少しだけ遅れた。
「二つ目の班を探しに行くための班でした。彼らは行くつもりでいましたし、私も行かせるつもりでいました。……ですが、同じ場所で同じことが起きた時に、次に誰を探しに行かせるのか。今の私には、その答えがありません」
ウォーカーは一度言葉を切った。
「人を先に入れるのは、やめます。あなたが到着するまで、新しい班は入れません。彼らには入口に残ってもらい、封鎖と通信、それから救援の待機に回ってもらいます。中を最初に確かめるのは、あなたの召喚体に頼みたい」
陸は、画面の奥の隊員たちを見た。脱いだヘルメットが、ボンネットの上で投光器の光を返している。荷物を下ろした隊員が、その横で腕を組んだまま、テントの方を見ていた。
自分が何か言ったから、あの人たちは明日、中へ入らないことになった。
それが、すぐには飲み込めなかった。
「記録は、全部そちらへ送れるように準備します」
右下の枠で、眼鏡の女性が言った。
「二つの班の映像と音声、中継機の位置、通信の記録。今お見せしたもの以外も全部です」
「ありがとうございます。……あの、それで、俺からもいくつか確認していいですか」
「どうぞ」
「中で、危ないと思ったら、途中でも戻します。それは俺が決めていいですか」
昨日、あの窪みの前で引き返した時のことが頭にあった。ああいう判断を、誰かに止められたくはなかった。
ウォーカーは迷わなかった。
「それを、お願いしたいんです」
「え」
「あなたの召喚体が戻らなかった場所で、あなた自身が止まる。私たちが欲しいのは、そういう判断です。進めと言うつもりはありません」
「……分かりました」
思っていたのと逆の返事だった。陸は少しだけ肩の力を抜いた。
「あと、エリナ……同行者も一緒に行きます。置いていくのは、ちょっと無理なんで」
カメラの外の椅子で、エリナが陸を見上げた。
「同行者一名、先ほど申し上げた条件に含まれています」
高瀬が言うと、ウォーカーは「了解しています」とだけ答えた。
「装備については、国内の手続きが一部残っています。輸送の段取りは、許可が下り次第、改めてご相談させてください」
高瀬の言葉に、陸は研究室の台座を思い出した。持ち出しの手続きを進めると言われたまま、スーツはまだあそこに立っている。
「輸送も含めて、こちらで便を用意します。日本からの移動、到着後の車両、現地での宿舎と支援の人員。必要なものがあれば、言ってください」
「報酬については、対策庁の案件と同じく、政府間で別途取り決めます」
「報酬……あ、はい。お願いします」
思わず聞き返しかけて、陸はそのまま頷いた。
「それから、佐藤さん。渡航の手続きには、お名前が必要になります。先方へお伝えするのは手続きに必要な範囲だけで、一般に公表されることはありません。よろしいですか」
「大丈夫です」
高瀬が頷き、それから陸の方を見た。
ウォーカーも、画面の向こうで黙って待っていた。右下の枠の女性も、手を止めている。
陸は、さっきの二枚の画像を思い出した。壁を指している白い矢印と、オレンジ色のテープ。
「やります」
声は、思ったより普通に出た。
「行きます。俺のスケルトンで、先に中を見ます」
ウォーカーは、組んでいた手をほどいた。
「感謝します、JOHN」
それだけ言って、彼は少しだけ頭を下げた。
「到着までに、こちらの準備を整えておきます。詳しい日程は、日本側とすぐに詰めます」
「国内の手続きは、こちらで進めます。特別便の手配については、本日中に先方とご連絡を」
「お願いします」
短いやり取りがいくつか続いて、通話が切れた。
モニターが暗くなり、部屋の中に通訳の女性が機材を片付ける小さな音だけが残った。高瀬はもう端末を耳に当てていた。
「高瀬です。受けていただけました。……ええ。渡航の件、今から段取りを」
陸は椅子の背にもたれ、暗くなった画面を見た。
エリナがテーブルの上へ前脚をかけ、身を乗り出すようにして同じ画面を見ていた。
「リク。さっきのひとたち、もう、はいらない?」
「入らない」
陸は答えた。
「代わりに、うちのが先に入る」
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