第189話 矢印の先!
翌日の午前、陸とエリナは特異事象対策庁の上階にいた。
黒い球体を二つ持ち込んだ日に通された、長いテーブルの部屋だった。大きな窓の向こうに都心のビルが並んでいるのは、あの時と変わらない。違うのは、テーブルの奥の壁に大きなモニターが掛けられ、その下に小さなカメラが据えられていることだった。
「先方の画面に映るのは、私と佐藤さんの席までです」
高瀬はテーブルの端で端末を操作しながら言った。
「佐藤さんのことは、JOHNとしてご紹介します。こちらから先方へお伝えしているのは、公開されている情報の範囲だけです。そこから先は、佐藤さんがお話しになっていい範囲で構いません」
「分かりました」
エリナは陸の隣の、カメラから外れた椅子へ上がった。テーブルの縁に前脚をかけ、まだ真っ暗なモニターを見上げている。部屋の隅では通訳の女性が席につき、ヘッドセットの位置を直していた。
しばらくして、モニターに光が入った。
映ったのは、テントの中だった。簡易机の上に端末と紙の束が積まれ、吊るされた照明が白く光っている。その机の前に、砂色の上着を着た大柄な男が座っていた。五十前後だろうか。短く刈った髪に白いものが混じり、目の下に濃い影がある。画面の右下にはもう一つ小さな枠が開いていて、どこかの部屋で眼鏡の女性が手元の端末に向かっていた。
男が口を開いた。少し遅れて、部屋の隅から通訳の声が重なる。
「現地の指揮を執っている、ウォーカーです。時間をもらって感謝します、JOHN。そちらは朝だと聞きました。こちらは夜です」
「JOHNです。よろしくお願いします」
陸が頭を下げると、ウォーカーは短く頷き、すぐに右下の枠へ目を向けた。
「前置きは省かせてください。外の様子は、昨夜見てもらったと聞いています。今日は、中の話をします」
眼鏡の女性が端末を操作すると、画面が切り替わった。
白い背景に、線が一本引かれている。入口と書かれた点から始まって、何度か折れ曲がりながら奥へ伸びていく線だ。折れ目ごとに小さな丸があり、1、2、3と番号が振られていた。
「調査記録を管理している者です」
女性の声は淡々としていた。
「これは、最初に内部へ入った班が持ち帰った経路図です。調査班は進みながら、一定の間隔で中継機を置いていきます。中との通信は、この中継機をつないで保っています。中継機には番号と、入口の方向を示す矢印を付けてあります」
画面に写真が一枚出た。
黒っぽい岩壁の通路の真ん中に、膝ほどの高さの三脚が立っていた。上に箱型の機械が載っていて、側面に大きく「3」とある。その下に白い矢印が一つ。矢印は、画面の右側に開いた通路の方を指していた。
「最初の班は六番まで中継機を置き、予定どおり戻ってきました。帰りも、この三番の矢印に従って右の通路を通っています」
経路図の線が一本増えた。最初の線をなぞるように進み、六番の先でさらに奥へ伸びている。
「翌日、二つ目の班が同じ経路をたどって、さらに奥を調べました。この班は、通った中継機に自分たちの印として、オレンジ色のテープを巻いています」
次に出たのは、隊員の胸の辺りから撮ったらしい映像の一場面だった。さっきと同じ三番の中継機に、手袋の手がオレンジ色のテープを巻きつけている。右側の通路から入ってきたところらしく、画面の端に、今通ってきた暗い通路の口が見えていた。
「これが行きです。そして、こちらが帰り」
二つ目の画像が、その隣に並んだ。
同じ三脚。同じ「3」の文字。脚には、さっき巻かれたオレンジ色のテープがそのまま残っている。
陸は二枚を見比べた。少し遅れて、どこがおかしいのかに気づいた。
「……矢印、壁を指してません?」
帰りの画像では、白い矢印の先が黒い岩壁だった。行きの画像で通路が開いていた右側には、何もない。代わりに、反対の左側に、行きの画像にはなかった通路の口が暗く開いていた。
「そうです」
女性はそれだけ言って、音声を流した。
雑音の向こうで、男の声が英語で何か言っている。通訳が、その声に合わせて静かに訳した。
『――三番に着いた。うちのテープもある。だが、矢印の先が壁になってる。右に道がない。左に通路が一本。ほかには何もない。……左を行く』
音声はそこで終わった。
「この後、二つ目の班の信号は三番から離れていきました。左の通路には中継機がありません。しばらくして、通信が途切れました。それ以降、連絡は取れていません」
部屋の中が静かになった。
「中継機を誰かが動かした、ってことは……」
「その場合、矢印の向きは変わっても、通路の位置は変わりません。帰りの映像では、来たはずの右側が岩壁になっています」
女性は、最初の班の経路図と、二つ目の班の行きの記録と、帰りの記録を順に重ねてみせた。最初の二つは、三番の右側で同じ通路につながっている。帰りの記録だけが、そこで食い違っていた。
「よく似た別の場所を三番と見間違えた可能性。記録の側に何か問題が起きた可能性。中の形そのものが変わった可能性。どれも検討していますが、どれだとも言えません。中の形が変わるところを、実際に見た者はいません」
「分かっているのは」
ウォーカーが口を挟んだ。
「戻ろうとした班が、戻れなかったということだけです」
陸は、並んだ二枚の画像から目を離せなかった。
昨日、第12階層の右奥で、正体の分からない跡を見て引き返した。全員を呼び戻して、来た道をそのまま戻った。戻ろうと思えば戻れる。それを疑ったことは一度もなかった。
あの班も、たぶん同じだったのだ。中継機を置いて、矢印を付けて、印のテープまで巻いて、帰り道を何重にも確かめながら進んでいた。危ないと思ったら引き返す。そのための準備は全部していた。
それで、帰る道の方がなくなっていた。
強い人を増やせば済む話じゃない、と思った。どれだけ強くても、帰れなかったら同じだ。
隣で、エリナが前脚で陸の袖を小さく引いた。
「このひとたち、まだ、なか?」
「……たぶんな」
陸は声を落として答えた。エリナはそれ以上聞かず、画面の左側に開いた暗い通路の口を見ていた。
「ここからが、お願いしたいことです」
ウォーカーが机の上で両手を組んだ。
「あなたの召喚体について、いくつか確認させてください。まず、召喚体だけを、あなたから離れた場所へ行かせることはできますか」
「できます」
陸は少し考えてから続けた。
「ウルフとバットを二体で一組にして、何組か別々の方向に出してます。上からは、飛べるやつを一体。見つけたら戻ってくるとか、上で回るとか、合図は先に決めておきます。昨日も、それで奥まで――」
言いながら、声が少し速くなっているのが自分で分かった。昨日、第12階層で探索班を出したら、サモンマップの線が今まで歩いて埋めてきた範囲の外まで何本も伸びたこと。片方の隊が戦っている間に、もう片方が次の場所へ向かっていたこと。そこまで一気に話しかけて、陸は口を閉じた。
「……あ、すみません。とにかく、何組かを同時に出せます」
ウォーカーの表情は変わらなかった。ただ、手元の紙に何か書き込んでいた。
「では、その召喚体が見ているものを、あなたは見ることができますか。映像として」
「あ、それはできないです」
ウォーカーのペンが止まった。
「公開されている情報から、映像を共有できると受け取られていたかもしれません」
高瀬が穏やかに言葉を挟んだ。
「佐藤さんのスキルでは、どこにいるかと、どこを通ったかが分かります。何を見たかまでは分かりません。ですので、先ほどの三番のような場所で何が起きたかを、その場で映像として確かめることはできません」
「そうです。俺に分かるのは、あいつらが今どこにいるかと、通った道です。通った道は、地図に線で残ります」
「その線は、中継機なしで残るんですか」
「残ります。中継機とかは何もいらないです」
ウォーカーはまた何か書いた。
「では、さっきの三番のような場所で、道が変わったとします。あなたの召喚体はどうなりますか」
陸はすぐには答えられなかった。
「……分かんないです」
正直に言うしかなかった。
「戻れって言えば、たぶん通ってきた道を戻ろうとすると思います。でもその道がなかったら、あいつらがどうするかは、やってみないと分かんないです。地図の方は、通った線が残るんで、線と実際の道が合わなくなったら、俺の方では気づけるかもしれません。けど、気づいたからって帰ってこられるかは、また別で」
言いながら、もう一つ思い当たった。
「ただ、帰ってこなかったら、そこで何かあったってことは分かります。何があったかまでは分かんないですけど……人が入る前に、そこが危ないってことだけは」
ウォーカーは顔を上げた。
「それです」
ペンを置き、彼は画面越しに陸をまっすぐ見た。
「私たちは、それを人で確かめてきました。三番がおかしいと分かったのは、二つ目の班が戻らなかったからです」
通訳の声が終わっても、ウォーカーはしばらく何も言わなかった。
陸は、膝の上の自分の手を見下ろした。探索班を出して、戻ってくるのを待つ。昨日まで、地図を広げるためにやっていたことだった。
ウォーカーは置いたペンをもう一度取り、手元の紙へ、さっきより長く何かを書き込み始めた。
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