第6話
「一旦逃げる! ついて来なさい!」
私が怒鳴ると、返ってきたのは――
「くすっ」
場違いなくらい柔らかな笑い声だった。
目元までふわっと緩めて、まるで冬が終わって春が来たみたいな顔で笑っている。
危機感がない。
それとも、余裕なのか。
どっちにしろ――大嫌いだった。
「灼焼煉火・全域開放!」
私は迷わず炎を解き放つ。
永遠みたいに伸ばしていた直線の太陽を、一気に周囲へ拡散させた。
空も。
海も。
敵も。
私も。
この白いのも。
全部まとめて、真っ赤な炎の中へ閉じ込める。
「あつっ!?」
腕を掴んだままの相手が、じたばた暴れた。
私は思い切り睨みつける。
どうせ嘘くさい。
「この手で直接操ってない炎じゃ、低級の霊獣しか殺せやしない! 暴れず大人しくしてなさい!」
炎の目的は攻撃じゃない。
目くらまし。
隠れ蓑。
私はすぐに刀を顕現させ、炎の最下層――海の底へ狙いを定めた。
「はっ!」
短く息を吐き、刃を一気に海底へ伸ばす。
そのまま固定。
そして、縮める。
海底へ。
一気に移動するつもりだった。
「きゃあああ!?」
「うるさいっ!」
思わず怒鳴る。
声で逃走経路がバレかねない。
怒鳴り散らしたいのは山々だったけれど、どうにか飲み込む。
……飲み込めていなかった気もする。
「ま、前が見えないー! ここどこなのー!?」
「黙れ黙れ黙れ海の底おおおお!!」
駄目だった。
完全にキレていた。
しかも最悪なことに、こいつが騒ぎすぎたせいで炎が揺らぐ。
海底を覆っていた赤が崩れ、闇に塗り潰される。
そしてその闇が――一気に逃げた。
しまった、と思う間もなく。
「ほら見付かったじゃない!」
真上から、光。
見上げれば、白夜の狼霊が大口を開けたまま海を駆け下りてきていた。
「食べられたくないー!」
「あんたがおびき寄せたんでしょうが!?」
口から出る言葉が安定しない。
いっそ餌として放り投げてやりたい。
でも、そうもいかない。
「くっ!」
真横へ跳ぶ。
狂犬みたいな牙が、私ごとこの白いのを噛み砕こうとしていた。
間一髪。
避ける。
そのまま全速力で走る。
海底の闇へ。
遠くへ。
隠れるように。
逃げ切るように。
――なのに。
影が、伸びた。
暗い海底に、二つ分。
そして次の瞬間には、急速に短くなる。
「うそでしょ!?」
振り向く。
いた。
すぐ後ろに。
明度を増した白夜の化け物が、もう目の前まで迫っていた。
「にゃー!」
「……は?」
場違いな声。
あまりにも場違いすぎて、聞き間違いだと思いたかった。
けれど視線を横に向けると、顔のすぐそばに妙な形の手がある。
猫の威嚇?
熊?
知らない。
でも声からすると、たぶん猫。
涙目で。
腰が引けていて。
へっぴり腰のまま。
それでも一生懸命、威嚇しているらしい。
「にゃーにゃー!」
しかも、繋いだ腕まで持ち上げられた。
巻き添えで私まで威嚇ポーズをさせられる。
なんなんだこの地獄絵図は。
目の前には岬みたいにでかい狼。
隣には猫の真似をするお荷物。
もはや牙を剥いてるメギドレイの方が仲間っぽいまである。
「ソウルブースト!」
私は霊界の力を体内に叩き込む。
今は刀を握らない。
手の中に顕現させるより、この力を体の中に留めた方が速く走れる。
結果は――正解だった。
お荷物な猫つきでも、メギドレイの喰らいつきから逃れる。
引き離す。
海底を走る。
街を駆け抜ける。
狼が海岸へ飛び出そうとした瞬間には、今度は雪を足場に雲の上へ。
追ってくる咆哮を背に、雲上を走る。
元の街へ飛び降りれば、そこは見通せない青い傘の海。
そして、霊界の獣には時間制限がある。
なら、逃げ回って時間を稼げばいい。
もちろん、その間も私は白い猫の口を片手でしっかり塞いでいた。
「んもーんもーんもー!」
「黙れ牛っ子!」
思わずツッコむ。
さっきまで猫だったのに、今度は牛か。
その瞬間、山の上で周囲を睨んでいたメギドレイと目が合った。
どきりとする。
だが奴は飛びかかってこない。
怒り狂ったように吠えるだけだ。
やがて向きを変え、駆けていく。
空へ。
割れ落ちた次元の断片を足場にして。
そして、まるで時を巻き戻すように。
メギドレイも。
霊界からの覗き穴も。
消えた。
「……さすがにタイムオーバーで弱体化してくれるほど、馬鹿じゃないか」
霊獣にとって現世は、温かい魂を喰える最高の狩場らしい。
でも、住むには向いていない。
「もっとも、干渉の度合いは年々強くなってるけど」
十六年前に初めて覗き穴が見つかって。
五年後には霊獣が現れた。
最初はただの影みたいなものだった。
人の霊体とも触れ合えなかった。
なのに今は違う。
狩る側と、狩られる側。
このまま干渉が進めば、いずれ霊獣は肉体の中の魂まで喰うようになる。
そうなれば、人類は終わりだ。
「んもーんもーんもー!」
「……さて」
私はそんな終末に興味はない。
仇さえ討てれば、それでいい。
今回仕留め損ねたのは痛い。
でも、あの怒りようからして、また襲ってくる気もする。
そして次に殺すには――もっと力がいる。
私は白いのの手首を掴んだまま、軽く跳んだ。
闇色に沈んだ傘海原から抜け出す。
傍らに小さな炎を灯し、見えた青い足場へ静かに降り立つ。
それからようやく、こいつの口を塞いでいた手を外す。
次こそ一番速く。
熱を寄越せと脅すつもりで口を開いた。
けれど。
「にゃんもーんもー!」
即、もう一度塞いだ。
「メギドレイはもう去ったんだから、少しは黙ってくれない!?」
「んも!?」
青い瞳がまん丸になる。
……どうしてだろう。
さっきまで化け物みたいな熱を放っていたくせに。
今は、ものすごく弱そうに見えた。




