61、シリスの婚約
あいにくの雨の中、玄関のぎりぎりまで側に寄った馬車から二人の女性が降りてくる。
同伴して来た護衛騎士の手を借りてシリスが、次いでフォルセアが軽快に地面に降りた。
「お招きいただきありがとうございます」
「フォルセア!」
「ようこそお越しくださいました」
フォルセアの来訪をベルツ兄妹と使用人達が迎える。
フォルセアは伯爵邸には二度目の来訪だ。使用人達は可能な限り仕事の手を止め、未来の伯爵夫人を迎える。
前伯爵夫人フレデリカが居なくなってから、使用人の数は減らされた。彼女に取り入り、気に入られていた者達がベルツ家から出されたためだ。
もうこの屋敷には、フォルセアに害意を持つ人間はいない。
「フリージア、ラングルト様」
朗らかに笑むフォルセアは、差し出されたラングルトの手を取ると、礼をしている家令のホーエン達に、向き直った。
「パティスト殿、先月の婚約式ではお世話になりました」
家令一家はラングルトとフリージアの補佐として三人とも離宮に来てくれていたのだ。
「畏れ多いことでございます。改めましてフォルセア様におかれましては、ご婚約おめでとうございます。ベルツ家に仕える者として誠に嬉しく思います」
「そう言っていただけるととても嬉しい」
告げるフォルセアにホーエンは更に深く頭を下げた。
「フォルセア様、こちらへ。ホーエン達も」
ラングルトが促す。
「かしこまりました」
ラングルトとフォルセアとフリージア。そしてシリス、その後にホーエン達三人は続く。護衛騎士は他の使用人から別室へと案内される。雨の中御者と座っていたので彼もびしょびしょだ。
魔道伯爵としてのラングルトの屋敷よりも広いベルツ邸だが、応接室に七人が集まると少し窮屈だった。
しん、と静まると窓の外から雨の音がわずかに伝わる。
「さて」
ラングルトはフォルセアをソファに案内し、しばし逡巡してから向かい側に座った。まず当主として済まさなければいけないことがある。
「フォルセア様。先日お申し出のあったシリス殿と我が家の執事ロイドの結婚の件、謹んでお受けいたします」
「そうですか」
フォルセアは傍に立つシリスを見上げる。
シリスは表情を変えないまま、軽く頭を下げた。
フォルセアがシリスに結婚の提案をしたその日の夜の内に、アニエスとライゼルがさっさと話を進めてしまったのだ。フォルセアのせっかちはある意味で親譲りなのである。
シリスの父、ルドベキア家家令のエディアンも、先方が良ければ、と前置いて承諾してしまっている。
パティスト家がこの話を受諾した今この時点で、シリスとロイドの結婚が内定したことになる。
「ありがとうございます。ロイドさん、シリスをよろしくお願いします」
「私にとっても光栄なお話です、ありがとうございます」
フォルセア直々に声をかけられ、ロイドは慌てて頭を下げる。
「父に伝えておきます、手続きなどはまた後日。急ぐお話ではありません、しっかり準備をしましょう」
心なしかフォルセアの声音が弾んでいる。
喜んでいるのだろう、ラングルトは目元を緩めた。
「シリス、良かったな」
「はい」
フォルセアがわざわざ立ち上がって侍女の手を取る。
シリスの表情は背の高いフォルセアに遮られて見えないが、声音が少し高い気がする。
シリスを良く知るフリージアはそれに気付いて少し、どきりとする。もしかして、シリスも嬉しいのかしら。
「では、この話はここまで。ロイド、シリス殿をもてなすと良い」
「はい」
ラングルトの言葉にロイドは一礼する。心の中はまだまだ混乱中であるが、執事の役割が無意識に彼の身体を動かす。
「シリス殿、ロイドは我々兄妹の兄がわりであり友人です。彼をよろしくお願いします」
ラングルトが、す、と立ち上がりシリスに一礼した。兄の行動に驚き、フリージアも急いで立ち上がって深く頭を下げる。
「畏れ多いことでございます!」
魔道伯爵自ら頭を下げたことにシリスは一転して顔色を変えた。
「パティスト家に嫁ぎましたら、身命を賭して、フォルセア様とベルツ伯爵家にお仕えいたします」
シリスの真剣な声に、すん、と鼻をすする音が続いた。室内の視線がシリスからそちらへ移る。
アンがハンカチで隠すように涙ぐんでいるので、「母さん!」ロイドが顔を赤くして慌てた。
「だって嬉しくて」
すんすんと、目頭を押さえて言う妻に、ホーエンも苦笑する。
「御主人様申し訳ありません。どうにも涙もろい妻で」
「構いません。ホーエン、アンを休ませてください」
「ありがとうございます」
ホーエンはアンの背に手を添えて応接室を出た。ロイドが気まずそうに少し笑って、「では」とシリスに声を掛ける。
「シリスさんも、良ければどうぞ」
シリスはフォルセアを見上げる。「うん」と頷くフォルセアに一礼して、
「はい」
とロイドにいざなわれて部屋の外へ出て行った。
すっかり人数が減った部屋の中で、フリージアがくすりと笑う。
「驚きましたけど、とても嬉しいですわ」
「こちらの申し出を受けてくださってありがとうございます」
「いえ」
フォルセアはまだ扉を見ている。シリスの事を気にしているのだろう。
「ロイドにも良いお話だったと思います」
ロイドはいずれホーエンの後を継ぐ。そのことも含めて、いずれラングルトが配偶者の采配をしなければいけない問題だったのだ。
フォルセアの腹心がロイドと夫婦になってくれるならば、これ以上の事はない。ラングルトはルドベキア侯爵夫妻の気遣いに感謝しなければいけない。
「では、私は部屋に戻りますわ。フォルセア、またお茶の時にご一緒しましょうね」
ふふふ、と笑ってフリージアは応接室を出て行ってしまう。
残ったのはラングルトとフォルセアだ。あんなに賑やかだったのにあっという間に静かになってしまった。
ぽつんと、ソファのそばで立ちっぱなしのフォルセアは、同じく立ったままのラングルトを見上げる。
ラングルトがフォルセアを見つめていたので、少しびくりとしてしまった。ふ、とラングルトの口元が上がる。
「フォルセア様」
背後から包むようにラングルトの腕が回されて、フォルセアの手を掬い上げた。持ち上げられた指にキスされる。
屈んだラングルトの顔が至近距離に寄る。
しかし、
「ラングルト様、婚約式の後、お忙しかったのではないですか?お疲れは大丈夫ですか」
ずっと気になっていたんです。
ラングルトの行為をかわすつもりはまったく無いようだ。ただ気遣うフォルセアの表情に、ラングルトは苦笑する。
掬い上げた手をそのままに、後ろからフォルセアをゆるりと抱き締めた。
「貴女にお会いする方が大事ですので」
フォルセアはわずかに身じろぎした。
「…お疲れではあると」
「貴女に会えた方が回復します」
フォルセアの指摘に、しれっとラングルトは返す。「ふふ」とフォルセアは笑った。
「遠征先からのお手紙にも書いてありましたね、生き返ると。過分な表現だと思いましたが」
「いえ、あの時は疲労困憊で、本当に助かりました。その代わり心底帰りたくなりましたが」
結局帰れたのはそれから半月以上も後だ。ラングルトは思い出して遠い目をする。
「思い付いたら我慢できなくてついお手紙を出しましたが、お役に立てて良かったです」
ほっと、フォルセアは息を吐く。なのに少し肩に力が入った。おや、ラングルトは思う。
フォルセアはくるりと向きを変えた。
ラングルトは咄嗟にフォルセアの手を離す。添えてあったもう片方の手が腰に回ると、手に丸い小さなものが触れた。
ラングルトの眉が動く。しかし、フォルセアは気付かぬようだった。
「…先日から気になっていて…、婚約式の後からラングルト様への世間の注目がとても増えてしまいました。市井の女性たちもラングルト様に夢中のようです。他の女性からの防波堤になるとお約束しての婚約でしたのに、不甲斐ないばかりです。お仕事の障りにはなっていないでしょうか」
ずっとこれを聞きたかったのかもしれない。
フォルセアが申し訳なさそうな表情でラングルトを見上げる。
(ああ、それでか)
少し、ラングルトは視線に剣呑なものを含ませた。
「少し、騒がしさはあります。成程、原因が分かり腑に落ちました。対処いたしますので、どうぞお気になさらず」
実は魔道伯爵邸の方に侵入者が増えたのだ。もちろん結界が張ってあるので外周をうろつくだけだが、やけに数と頻度が多い。
どうやら研究成果ではなく、ラングルトの外見や身分目当ての何某共の行動のようだ。
(反吐が出る)
結界に少し攻撃性を持たせよう。ラングルトはすぐに思い定める。
それにしても。
「…嫉妬はしていただけないようですね」
「嫉妬!?」
フォルセアは驚く。思いもしなかったという声音だ。
「私なんかが嫉妬なんて、おこがましいことです」
自分を低く見積もってしまうフォルセアの無意識の言葉に、ラングルトは腰に回した腕に力を込めた。
聞きたくない。
急にきつく抱き締められて、フォルセアはラングルトの肩口に顔をぶつける。
「ん、」
「申し訳ありません、失言でした。私には貴女だけですので、嫉妬は不要です」
少しラングルトの声が固い。フォルセアは瞬いた。ラングルトの唇が瞼に下りたので、反射のように目を閉じる。
「お気に障ることをしてしまいましたか」
「いいえ、フォルセア様は何も」
両方の瞼に一度ずつ触れて、ラングルトはフォルセアをソファへ導いた。計りかねたような表情を浮かべるフォルセアの手を取り跪く。
「私にとってはフォルセア様が一番大切な方だということを、知っておいて下さい」
いつか理解して欲しい。当たり前のように自分を卑下するフォルセアに、貴女は素晴らしい方なのだと。
「ありがとうございます」
ふ、とフォルセアは笑みを浮かべる。
ラングルトの言葉の真意には気付いていないかもしれないが。それでも。笑っていて欲しい。
そうしてフォルセアは、
「ラングルト様、そろそろ、少し、休憩を…」
とうとう限界が来たらしい。
耳が真っ赤になっている。ラングルトから手を離してフォルセアは自分の顔を覆って俯いてしまった。
ラングルトは口の端を上げる。
自分もソファに腰を沈め、フォルセアに寄り添った。
「許容量を超えましたか」
「最近、ラングルト様は意地悪になりましたね。それと、何故か、挑まれている気分になります」
ルドベキア邸でのあの夜から、ラングルトの意図的な接触が増えた。
フォルセアは意識して受け入れるし、受け流すし、更には結構耐える。しかし、まだまだ限界はあるのだ。
「挑むなど滅相もない。我ながら浮かれているのですよ」
声音は淡々としているが、ラングルトの表情は何と言うか、楽しげだ。
フォルセアは顔から少しだけ手を離して、ちらりとラングルトを見上げる。ふむ、と内心で算段をして、ラングルトに少し寄りかかってみた。
このぐらいは、自分もやってみても大丈夫なのではなかろうか。ラングルトからは否定されたが、フォルセアは挑まれれば迎え撃ってしまう気質を持っている。
フォルセアからの行動に、ラングルトはわずかに驚いて、そのままフォルセアを引き寄せるように腰に手を回す。
「ところでフォルセア様」
「はい」
「杖に付いているこの石はどうされましたか。以前は無かったかと思いますが」
少し、魔力を帯びていますね。
考え込むように問うラングルトに、フォルセアはすぐに腰の定位置に差した杖を取り出した。
「婚約の祝いに貰ったのです。覚えていますか、オルソーという友人です。海の魔亀の甲羅だそうですよ」
フォルセアは貰った時の喜びを思い出し、ぱっと笑みを浮かべる。ラングルトの手に杖を乗せれば、
「ふむ」
ラングルトの声が明らかに低くなった。
見分するように石を見つめる。
「私はそれなりに嫉妬深いようです。お心に留めておいていただけるとありがたく思います」
「…はい」
ちょっとだけ、フォルセアの返事に怯むものが混ざった。
初めての事である。




