40、ベルツ前伯爵夫人
ベルツ前伯爵夫人フレデリカはヤージュ男爵家の次女だった。
姉と共にその美貌で数々の浮き名を流し、ついに当時のベルツ伯爵家の嫡男に見初められた。
当時のベルツ伯爵夫妻は評判の良くない男爵家の娘との結婚に反対したのだが、嫡男たる息子は聞く耳を持たず強引にフレデリカを妻にした事で、両親との仲は険悪なものになった。
彼は両親を追い落とし伯爵の地位を継承すると、フレデリカと共に一男一女をもうける。それがラングルトとフリージアだ。
晴れて伯爵夫人となったフレデリカだが、男爵家でのうのうと暮らしてきた女性とって伯爵夫人としての肩書きは厳しいものだった。
社交界では自分より身分が下の者としか話せず、政治も芸術も話題を振られてもうまく返事ができない。できるのは悪口や噂話ばかり。
プライドを傷付けられフレデリカは鬱屈を溜めた。その矛先は二人の子供達に向かった。子供を厳しく完璧に教育する事で、自分の立場を上げようとしたのだ。
産んでからすぐに育児の全てを乳母たちに任せていたフレデリカは、教育という分野にだけ苛烈なまでに口を出し、厳しい教師を付け子供たちの自由を奪った。
ベルツ伯爵は美しい妻の言いなりだった。
やがて伯爵が亡くなり、継承権を得たばかりのラングルトが後を継ぐことで、子供たちは母親から少しずつ距離をおきはじめる。
そして、ラングルトが魔道伯爵に叙されたとき、兄妹はようやく母から離れることに成功したのだ。
「なぜ母上がこれを実行できた、お前たちはなぜ把握できていない」
婚約誓約書を机に押し付け、ラングルトはホーエンに厳しい視線を向ける。
「春の初め頃に、大奥様がご実家の姉君のところへ出掛けることが多くありました。我々の随伴を拒否し、ヤージュ家の従者を伴っておりました。おそらく、その時なのでしょう」
申し訳ありません、と家令は頭を下げる。
まさか、侯爵家と婚約が決まった息子に別の婚約者をあてがうなど、誰も思いつかない。
「モンステラ男爵は王都にいるはずだ。ロイドを向かわせて契約の詳細を確認させろ、男爵が騙されているのか共犯なのかを明らかにした上で、婚約を取り下げると誓約書を書かせ持ってこい」
ロイドはホーエンの息子で、ベルツ家の執事をしている青年だ。行政府の玄関先で待機している。
「はい、ただちに」
「お前は今すぐ屋敷に帰り、これ以降決して母上を外に出すな」
「かしこまりました」
「ノルマン」
ラングルトは一言も口を挟まずそばにいた補佐官を呼ぶ。
「はい」
「このようなことになっているので、私はしばらく不在にします。後は任せました」
詳細はほぼ伝えていないが、ダナンは察しがいい。目の前の会話だけで何が起こったのか理解する。
「お気をつけて、後はお任せ下さい。我々魔道局職員一同、お二人を応援しておりますので」
「…公表はまだのはずですが」
ラングルトが顔を上げる。
ダナンは苦笑した。
「婚約を知らない職員は、局長がインターン初日からフォルセアさんに片想いをしていて猛アピール中だと勘違いしています」
「…それは、」
思わぬ言葉にラングルトは、ふ、と息を吐いた。
軽く肩を揺らす。
「部下の応援には報いねば」
「期待しています」
ダナンは一礼する。
ラングルトはホーエンを伴い、魔道局から出て行った。
それを見送った職員がまたざわめく。今日は朝から何が起こっているのか。
「ノルマン、何があったの」
シュベリとマトリが局長室に勝手に入ってくる。
「内緒だぞ。フォルセアさんとの婚約に横槍が入って局長が激怒している」
「なんでそんな…」
マトリが顔色を変える。彼はついこの前、フォルセアのおかげで婚約者ができたところだ。
「王都滅びませんよね?」
なのに、出てきた言葉は上司ではなく自分たちの住む場所を心配する言葉だ。
「祈ろう」
ダナンは本気とも冗談とも言えない返事をした。
ラングルトは法務局に向かう。
末端の職員には話すこともできない。
直接法務局局長メンデルス・ダリアのもとへ向かうと、先方は驚いた様子でラングルトを迎えた。
「先触れもなしに失礼いたします、急を要する事態となりました」
ラングルトよりもはるかに年長のメンデルスは、常にない行動で訪ねてきた魔道局局長の様子に眉を寄せた。
「聞こう、何があったんだい」
「まずはダリア局長の名で聖務局シュタイン局長を招集してください」
「…なるほど、奥の部屋で待っていなさい」
聖務局は行政府の部署ながら半分は正教会に属した特別な部門だ。
メンデルスはラングルトを応接室に案内してから、補佐官を呼んだ。
*
全ての準備が整ってラングルトがベルツ伯爵邸に着いたのは翌日、もう日が暮れる頃だった。
前回ここに来たのは、フォルセアとの婚約を伝えに来た時か。
喜ぶ使用人たちとは対照的に前伯爵夫人は不満を顔に貼り付けていた。何事かと文句を言われる前に屋敷を出たので、その後の母親の反応をラングルトは知らない。
何台もの馬車が伯爵邸の門をくぐり、門番と馬丁たちがすぐに出迎える。家令のホーエンが準備をしていたのだろう。
「ラングルト様、どうぞ」
ロイドが馬車の扉を開ける。
馬車から降りるのはラングルトだけだ。他の馬車から人は降りない。少しの間このまま待機することになっている。
「御主人様、お待ちしていました」
ホーエンが玄関で迎える。ラングルトは外套を脱ぐこともなくそのまま屋敷の中へ進んだ。
「母上は」
「部屋におられます。アンをおそばに控えさせております」
アンはホーエンの妻、ベルツ伯爵家に仕えるメイド長だ。ラングルトの乳母でもある。
「今から向かう。他の者は下がらせろ」
「承知いたしました」
階段を登り南の部屋へ向かう。この屋敷で最も景色の良い部屋だ。
ホーエンが扉をノックすると、中からアンが開けた。
「なんですかホーエン?アン、入室の許可は出していませんよ」
「私が出しています」
不機嫌な女性の叱責に、ラングルトが答えた。
急に入ってきた息子の姿に、フレデリカが息を呑む。
「ラングルト…!知らせもなくこの屋敷に来るなんて!」
「私の屋敷に帰るのに知らせがいるとは知りませんでした」
ラングルトはにべもなく返して、部屋の中を一瞥した。
金の刺繍の大きなベルベットのソファはフレデリカが気に入っている調度品のひとつだ。
年齢を経ても美しい前伯爵夫人は、自分のソファの前で立ち止まった息子を睨み上げる。
夫人の部屋の扉を外に出たロイドが廊下側から静かに閉めた。家令のホーエンは部屋に残り、扉の前で控えるつもりのようだ。
メイド長のアンはラングルトに一礼し、フレデリカとラングルトの間に控えた。
三人ともラングルトの来訪に驚いていない、その事に気付いてフレデリカが表情を険しくする。
「私の許可なくモンステラ男爵令嬢との婚約を結んだ事について、弁明はありますか」
ラングルトはソファに腰掛ける母親を冷たい視線で見下ろした。
「は、あははっ」
訪問理由が明かされ、フレデリカは失笑する。
「何かと思えばその事ですか、喜んでもらって良いのですよ。未婚の魔道庫の女性なんて久しく発見されていないのです、貴重な人材を手元に置けて嬉しいでしょう?」
「私はフォルセア・ルドベキア様の婚約者です」
「あんなハズレを引いて何を偉そうに!」
フレデリカが吐き捨てると、
ぶわり。
ラングルトの魔力の気配が濃くなる。
「フォルセア嬢は魔力が無いからと婚約破棄された令嬢よ?あの当時それが社交界でどれだけ噂になったと思っているの!あなたは歴史に名を残す魔道伯爵なのよ、あんな高位貴族の恥さらしを妻にだなんてよくもまあ…!」
金切り声。
フレデリカの激昂は収まらない。
己の息子がどんな表情をしているかも気付かない。
「どうせ侯爵家の権力であなたに無理を迫ったんでしょう、高位貴族なんてそんな人ばかり!だから私はあなたに相応しい相手を探してあげたの!魔道庫よ!彼女の魔力とあなたの才能を受け継いだ子供が生まれれば我がベルツ家の価値はどれほどになるか」
「貴女はベルツ伯爵と自称して、ヤージュ男爵夫人と共にモンステラ男爵に接触しましたね」
ラングルトの硬い言葉に、フレデリカは鼻白む。
だが、すぐに高らかに笑った。
夫が亡くなり伯爵夫人としての権力も失ってから、フレデリカはどんどんヒステリックになってしまっていく。
美しいはずの顔が酷く歪む。
冷静な判断力も、衰えている。
「私はあなたの母なのよ、息子のために妻を探して何が悪いの!」
「侯爵家との婚約はどうするつもりですか」
「そんなの、もっと良い女性が見つかったからと破棄してしまえばいいのよ、あなたは優秀な魔道伯爵よ、誰もあなたに逆らえないわ!」
「よく分かりました、もう十分だ」
ラングルトの声に憎悪ともとれる怒りがにじむ。
「あの方の気高い志も努力もご苦労も何も理解せず、自分の立場の向上のためだけに悪質な手段であの方を傷付けた、その報いを受けていただこう」
「は、何を言っているのラングルト!あなたともあろう子が、あんな小娘に誑かされるなんて」
「もう十分、と言ったはずだ」
突風。
「ヒッ」
ラングルトから放たれた強い風がフレデリカに当たる。パリン!背後の窓が割れる。結い上げられた髪がひどく乱れ、フレデリカは堪らずソファに縋りついた。
「お前ごときがフォルセア様を語らないでいただこう。あの方が汚れる」
「ら、ラングルト」
「ロイド!」
ラングルトは扉の向こうに声を掛ける。すぐに外から部屋の扉が開けられて、行政府の制服を着た者たちがぞろぞろと夫人の部屋に入って来た。
「フレデリカ・ベルツ前伯爵夫人。私は貴女を告訴する」
ラングルトは冷たい声で宣言した。フレデリカは目を剥く。
「ラングルト⁉︎」
「ヤージュ男爵夫人と共謀してモンステラ男爵を呼び出し、男爵邸をベルツ伯爵邸と偽り嘘の身分で娘との婚約を強要。資格もないのに自らをベルツ伯爵と自称し婚約契約書に偽造の署名をした。すでに婚約者がいる息子に二重婚姻を結ばせようとした。ゴシップ紙に捏造した婚約の情報を流し、得た金銭で神官に賄賂を送り婚約誓約書に署名をさせた。更に王家の血を守る崇高な役目を持つルドベキア侯爵家への暴言。これだけ列挙してもまだ足りない、ベルツ家の信用を地に落とし、魔道伯爵としての私の顔に泥を塗り、何よりフォルセア様を傷付けた、その罪を償っていただこう」
「ラングルト!!」
フレデリカが悲鳴を上げる。
「行政府法務局局長、メンデルス・ダリアです。罪状はもうお分かりですね。これよりあなたを拘束し、貴族牢にお連れします」
メンデルスの両隣から職員たちが進み出る。とっさに腰を浮かせ、逃げようとしたフレデリカを素早く捉えると、拘束魔法の掛かった腕輪を付ける。
がくり、フレデリカの力が抜ける。
なのに視線は爛々(らんらん)と、ラングルトたちを睨み上げている。
「許さないわよラングルト、母親に向かって…!」
「私と妹を産んで殴るだけだった人間が、よくもまあ母を名乗るものだ」
背の高いラングルトが床に押さえられた母を見下ろす。
影になった表情からわずかに見える絶対零度の視線に、声音に、フレデリカが声を失い、そうして引き摺られるように法務局の局員たちに連れて行かれた。
階段を降りていく音、ロイドが玄関の扉を開けているのだろう。法務局長が何かを告げている。
ようやく現実を認識したのか、金切り声で叫ぶフレデリカの声だけが屋敷の中に響いた。
反響する声がどんどん遠ざかっていく。
ついに何も聞こえなくなり、ロイドがフレデリカの部屋だった場所に戻って来た。
「お見送りをして来ました」
「すまなかったね」
ホーエンが息子に声を掛ける。全員が放心したような表情をしている。
「御主人様」
アンが気遣わしげにラングルトを労ると、
ふーー、
ラングルトは長い長い息を吐いた。
「ホーエン、アン、ロイド、手間をかけた」
「いえ、我々こそ、大奥様のなさりように気付けず、申し訳ございませんでした」
三人はラングルトに頭を下げる。
手だけでそれを制して、ラングルトはソファへ座り込んだ。
昨日の朝からまだ一日しか経っていない。それでも、長い長い一日だった。
(ああ。…もう、フォルセア様に会いたい…)
ラングルトは疲労に痛む頭を押さえた。




