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30本目の世界線  作者: 大原英一
雷鳴
26/32

24本目

「こちらフジワラとうふ店」

 電話に出たオペレータが言った。この奇妙な屋号こそがパラグライダースの暗号(コード)だった。

「照会して。水戸かず子、IDは**********」


「当該エージェントは未登録です」

 答えはネガティヴだった。アタシの、エージェントとしてのIDは拒否られた。だがこれも想定の範囲内、つぎの作戦に出る。

「仮想IDを発行してちょうだい」

権限(オーナー)名とパスワードを言ってください」

「オーナーはサファイアのひとみ。パスワードは********」

「仮想ID666を発行しました」


 仮想IDとは、エージェントがもしもの場合に取得できる、即席の身分証明のことである。

 アタシたちはミッション中にどんな事態に巻き込まれるかわからない。お金や糧食が尽きることだって、ありうる。

 もちろん、自分の正規IDで組織に支援を要求できればそれがベストだが、いまのアタシみたいに不具合でIDが通らない場合に仮想IDは有効だ。

 ちなみに組織がわの都合で勝手に正規IDが消去されることも、ままあるので、仮想IDの利用頻度はけっこう多いと聞く。

 アタシははじめて利用するし、できれば使いたくなかったけどね!


 そんな状況を想定し、アタシにかぎって言えば、いつもダイアモンドをベルトに忍ばせている。時価100万円はくだらないという代物だ。

 はやい話がそれを売払(うっぱら)って当座の活動資金に充てるというわけ。ダイアを売るにせよどこかに宿泊するにせよ、身分証は要るでしょ?

 とりあえず今夜はもう(おそ)い。エージェント御用達の宝石商も店を閉めているだろうし、発行された身分証(カード)を受け取るのも明日以降じゃないとムリだ。


 当初の予定どおり、アタシは自分のねぐらに帰ることにした。組織の人間ではない、プライベートかず子ちゃんの部屋に。

 もし、この世界線に水戸かず子という女が存在しないのであれば、もとよりアタシのねぐらなどは在るはずもない。

 ダメ元である。たしかめるだけ、たしかめようと思った。


 任務中は現金を持ち歩かないようにしている。移動手段は基本パラグライダーだしね。そのパラがないから、仕方なく凶祥寺まで電車をつかった。パスモは任務中もベルトに入れてある。

 プライベートのアタシは凶祥寺にマンションを借りている。いちおう一等地だし、ふつうのOLさんではまず手が出ない。

 まあ、アタシがふつうのOLさんじゃないことは、読者さんのほうがよくしっているだろう。


 あった。拍子抜けするくらいあっさりと、アタシの部屋は存在していた。

 ベルトから部屋の鍵を出して鍵穴に差し込む。かちり、と音がしてドアがあいた。圧倒的愉悦。こんな当たり前のことが、これほど嬉しいとは。

 ちなみに、マンションのオートロックを解除できた時点で半分(わろ)ていたのだが、部屋に入るまでは不安があった。

 クタクタだった。いまは何も考えたくない。あついシャワーを浴びて(読者サービスよ?)、アタシはベッドに雪崩(なだれ)込んだ。

 もう無理、おやすみなさい。こうしてアタシの、長い長い4月1日が終わった。


 2016/4/2 0:38

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