第99話 六通の写し
天正十三年、正月。
『上様、御不慮の折の覚』は、朱印を得た。
信長は、それを読むのに、半刻かけた。いつもの速さではなかった。何度も、読み返していた。
「日向守。第五条だが。『疑いを、口にせざること』とある。『疑いを、書き記すこと』とも。――これは、何だ」
「疑うなとは、申せませぬゆえ。人は、必ず疑いまする。ですが、口にすれば、噂になりまする。噂は、育ちまする。ゆえに、紙に書かせまする」
「日向守。おぬし、噂を恐れておるな」
「恐れております。――噂で、人が死にますゆえ。丹波にて、それがしは噂を見ました。『日向守は、母を人質に出す』という噂にございます」
「そのようなことがあったか」
「ございませぬ。それがしの母は、疾うに亡くなっております。ですが、その噂は、まことしやかに語られました。――そして、消えませなんだ」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。わしの噂は、聞くか」
「聞きます」
「何と言われておる」
「申し上げにくうございます。――『第六天魔王』と」
信長は、少し笑った。
「それは、わしが名乗った。武田から、書状が来た。信玄が、『天台座主沙門信玄』と名乗ってきた。ゆえに、こちらは『第六天魔王』と返した」
「上様。それは――お戯れにございますか」
「半分はな。だが、噂になった。そして、今も消えぬ」
俺は、深く頷いた。この人も、噂に苦しんでいる。自分で作った噂に。
「上様。お困りでございますか」
「困ってはおらぬ。使うておる。恐れられるのは、便利だ」
(そうか)
自分の悪評を、道具として使っている。恐れられれば、逆らわれない。
「上様。それは、いつまで使えましょうか。恐れは、上様がおられる間だけにございます。上様がおられなくなれば、恐れは消えまする。――そして、恐れが消えたとき、残るのは、恨みにございます」
長い沈黙があった。
「日向守。おぬし、痛いところを突くな」
信長は、書付を取った。
「日向守。この覚だが。一つ、足す」
筆を取り、書いた。
――七、御不慮の後、上様が生前になしたる約定は、すべて中将が引き継ぐものとす。
息を呑んだ。
(これは)
上様が結んだ約束は、全部、信忠が引き継ぐ。宗易が言った「上様は約束を守られる。ただ、約束をなさらぬことが多い」。その数少ない約束が、死を越えて残る。
「上様。これは」
「そのままの意味だ。わしが死んでも、約束は消えぬ」
(四国だ)
長宗我部への約束。切り取り次第。いや、それは既に変わっている。引き継がれるのは、新しい約束だ。
「上様。引き継がれる約定とは、いつのものにございましょうか。上様は、方針を変えられることがございます。四国のように」
「――最も新しいものだ」
「ならば、それを書き残さねばなりませぬ。上様。今、生きておる約定を、書き出させてくださいませ」
「全部か。幾つあると思う」
「分かりませぬ。ですが、書き出さねば、引き継げませぬ。『引き継ぐ』と書いても、何を引き継ぐか分からねば、意味がございませぬ」
「面倒だな」
「面倒にございます。ですが、上様のお頭の中にあるものを、紙にせねばなりませぬ。――七年前から、それがしが申し上げておることにございます」
信長は、少し笑ったようだった。
「日向守。おぬし、七年、同じことを言うておるな。――やる。ただし、条件がある。おぬしが、聞き出せ。わしは、書かぬ。おぬしが問い、わしが答える」
「どれほどの日数を、頂けましょうか」
「――十日だ」
俺は、笑いそうになった。
(また、十日か)
◇
その十日は、俺の人生で最も濃い十日になった。
毎日、朝から夕まで。俺が問い、信長が答える。俺が書き、信長が確かめる。乱丸が、隣で茶を替えた。三日目からは、乱丸も筆を取った。
出てきた約定は、二百三十一。
大名との約定、四十七。国衆との約定、八十九。寺社との約定、三十四。商人との約定、二十二。家臣との約定、三十九。
(二百三十一)
全部、この人の頭の中にあった。誰にも、共有されずに。
十日目、信長が言った。
「日向守。もう一つある。――思い出せぬものが、ある。幾つか、忘れておる。だが、忘れておることは、覚えておる」
俺は、動けなかった。
(怖い)
何かを約束したことは覚えている。だが、内容が思い出せない。最も危険な状態だ。
「上様。それは、幾つほどでございましょうか」
「十か、二十か」
「どうすれば、よろしゅうございましょうか」
「――向こうが、覚えておるだろう」
(そうだ)
約束は、双方が覚えている。片方が忘れても、もう片方は覚えている。
「上様。ならば、こういたしましょう。この二百三十一を、諸家に見せまする。そして、こう問いまする。『これ以外に、上様と約したことはあるか』と」
「日向守。それは、危ういぞ。ありもせぬ約定を、申し立てる者が出る」
「分かっております。ですが、それでも、聞かねばなりませぬ。まことの約定が、埋もれておるゆえにございます。埋もれた約定は、上様がおられなくなったとき――『反故にされた』と言われまする」
長い沈黙。
「日向守。やれ。ただし、申し立てられたものは、わしが確かめる。わしが覚えておらぬものは、認めぬ。――だが、聞くだけは聞く」
(これで、十分だ)
全部を認める必要はない。聞く場があること自体が、大きい。
◇
その日、安土を出た。
書付を、六通、写した。『上様、御不慮の折の覚』全七箇条。『上様御約定書』全二百三十一件。
五通を、諸将へ送った。柴田修理亮。羽柴筑前守。丹羽五郎左衛門。滝川左近将監。織田中将信忠。残る一通は、俺が持った。
いや。手を止めた。
(もう一通、要る)
七通目を写した。
「利三。これを、村井様へ」
「村井様は、六人に入っておられませぬが」
「入っておらぬ。だが、あの方は、京の記録を全部持っておられる。そして、あの方は、動かぬ。柴田様は北陸、羽柴様は中国、滝川様は東国。皆、戦の場におられる。――だが、村井様は、京から動かれぬ。何が起きても、京におられる」
「殿。それは、いざというときの、控えにござるか」
「そうだ。五人が全部失われても、村井様が持っておられる」
◇
その夜、書院で一人だった。写しを、目の前に置いていた。
(七通)
(これで、備えができた)
いや。首を振った。
(紙が、できただけだ)
紙は、読まれなければ意味がない。その日が来るまで、誰も読まない。誰も、読みたくない紙だ。
その紙を、しばらく見ていた。そして、思った。
(この紙が、一度も使われぬまま古びること)
筆を取り、書いた。
――それが、いちばん良い。




