第100話 この国は、美しすぎる
天正十三年、二月。
俺は、京にいた。
用件は、村井貞勝への書付の引き渡しだった。それは半日で終わった。村井様は、写しを受け取り、無表情のまま「日向守どの。これは、控えの控えにござるな」と言った。そして、「それがしは、動きませぬゆえ」と付け加えた。
その日、京に泊まった。久しぶりに、何もしない日だった。
夕暮れ、町を歩いた。供は、利三だけだ。
京の町は、変わっていた。俺が初めてこの町を見たのは、七年前だ。いや、この体が、だ。俺自身の記憶では、七年前が最初だ。あのころ、京はまだ荒れていた。応仁の乱から百年。焼けた跡が、あちこちに残っていた。
四条の通りを歩いていた。
(家が、建っている)
新しい家が、並んでいる。店が、開いている。人が、歩いている。
「利三。この町は、変わったな」
「変わり申した。七年前は、もっと荒れており申した」
しばらく歩いて、気づいた。
(子供が、多い)
通りに、子供が走っている。路地で、遊んでいる。店先で、手伝っている。
「利三。子供が、多いか」
「多うござる。――戦がなければ、増え申す」
俺は、動けなかった。
(そうか)
七年、書付を作ってきた。荷の記録。役目書。取次の筋目。緊急の覚。全部、紙だ。だが、この子供たちは、紙ではない。
通りに立ち止まった。子供が、俺の前を走り抜けた。笑っていた。
(この子は、七年前には、生まれていない)
この七年、京では大きな戦がなかった。だから、子供が生まれた。そして、育っている。
「殿。いかがなされた」
「いや。――少し、疲れた」
◇
宿の一室で、書付を広げた。だが、書けなかった。
(七年、何をした)
初めて、振り返った。
七年前、坂本の床の上で目を覚ました。明智光秀として。あのとき考えたのは、本能寺を防ぐ、だった。そのために、何をした。
――一年目。棚卸し。妻を救った。
――二年目。丹波の統合。書付の様式。
――三年目。坂本の役目書。功の書。
――四年目。信忠様の教育。
――五年目。羽柴家との交流。半兵衛様、官兵衛様。
――六年目。御馬揃え。列を作った。
――七年目。四国。取次の筋目。そして、緊急の覚。
(多い)
だが、何が変わった。
織田家は、強くなった。荷が遅れなくなった。国衆が離反しなくなった。方面軍が、繋がるようになった。信忠様は、育った。独自判断、二十二から七十。諸将の前で、決められるようになった。
そして、上様が変わった。
――七年前。制度理解、十五。権限委譲、八。
――今。
手が止まった。
(見ていない)
最近、あの板を見ていなかった。見る必要が、なくなっていた。数字がなくても、分かる。
この七年で、上様がやったこと。重き裁可を紙にすると認めた。取次の筋目に朱印を押した。留守の裁きを信忠に認めた。自分の死後の覚を、書けと命じた。
(変わった)
いや。変わったのか。
別の答えに辿り着いた。
(違う。あの人は、変わっていない)
最初から、分かっていた。家が脆いことも。自分が死ぬことも。死んだ後、家が割れることも。だが、言えなかった。そして、誰も聞かなかった。
書いた。
――上様は、変わられたのではない。言える場が、できただけである。
(そうか)
俺がやったのは、制度を作ることではなかった。言える場を、作ることだった。
七年を、もう一度振り返った。四半刻の決まり。報告には必ず返事を書く。報告は早いほど手柄。異を申すことができる。疑いを、書き記す。
(全部、同じだ)
言えなかったことを、言えるようにする。
(前世で、俺は言えなかった)
三十七ページの資料。三度、突き返された。四度目を作りながら、死んだ。あのとき、俺に足りなかったのは、資料ではない。言える場だ。あの会社には、なかった。誰かが「それは違います」と言える場が。だから、社長は一人で決め続けた。そして、俺は死んだ。
しばらく座っていた。そして、気づいた。
(俺は、七年で、自分の会社を作り直したのか)
少し笑った。ずっと本能寺を防ごうとしていると思っていた。だが、俺は、前世をやり直していただけかもしれぬ。
(それは、悪いことか)
(悪くない)
書いた。
――人は、己の傷からしか、学べぬ。だが、学んだことは、他人を助ける。
◇
外を見た。京の夜だった。遠くで、犬が鳴いていた。どこかの家から、赤子の泣き声が聞こえた。生きている音だ。
(この国は、美しい)
いや。首を振った。
(美しすぎる)
自分でぞっとした。なぜ、そう思った。
(全部が、一人に懸かっているからだ)
京が復興したのは、戦がなかったからだ。戦がなかったのは、織田家が強いからだ。織田家が強いのは、上様がおられるからだ。
書き出した。
――上様がおられる。ゆえに、織田家が強い。ゆえに、戦がない。ゆえに、京が栄える。ゆえに、子供が生まれる。
(全部、一本の糸だ)
糸の根元を見た。上様がおられる。ここが、切れたら。手が、震えていた。全部、崩れる。あの赤子も。
(七年、俺は何をした)
書付を作った。制度を作った。信忠を育てた。だが、糸は、まだ一本だ。
いや。首を振った。
(二本には、なった)
信忠がいる。決められるようになった。諸将は、信忠の裁きを重く見るようになった。緊急の覚がある。
(一本半、か)
(まだ、足りぬ)
書いた。
――七年で、糸は一本半になった。残り、幾年あるか分からぬ。だが、二本にせねばならぬ。
(二本で、足りるか)
(足りぬ)
――二本でも、足りぬ。三本、四本と、要る。誰か一人が消えても、動く形にせねばならぬ。
(それは、いつ終わる)
(終わらぬ)
しばらく動けなかった。
(煕子の言った通りだ)
終わらぬものばかり見ておれば、人は疲れます。
書き足した。
――終わらぬ。ゆえに、区切りを作る。
――一つ目の区切り。上様と中将様が、別々に動く形ができること。これは、できた。
――二つ目の区切り。上様が突然おられなくなっても、家が割れぬ形ができること。これは、紙の上ではできた。だが、試されておらぬ。
――三つ目の区切り。
手が止まった。
(何だ)
しばらく考えた。
――三つ目の区切り。俺がおらずとも、この仕組みが続くこと。
(これが、本当の終わりだ)
俺が作った仕組みは、俺が動かしている。俺が消えれば、止まる。それでは、意味がない。
初めて、そのことに気づいた。
(俺自身が、属人化している)
しばらく笑っていた。
(七年かけて、俺は、上様と同じものになった)
円の中心に、点を一つ打った。その隣に、もう一つ、小さな点を打った。信忠。線は、繋がった。だが、二つの点のあいだに、見えない三つ目の点がある。俺だ。線は、全部、俺を通っている。
筆を置いた。外を見た。夜が、明けかけていた。
(あと、幾年あるか)
(分からぬ)
だが、立ち上がった。
(やることは、決まった)
書付を畳んだ。
(次は、俺を消す番だ)
――――――――――
【あとがき】
百話です。長くお付き合いいただき、ありがとうございます。
「この国は、美しすぎる」――京に子供が増えたのは、戦がなかったからです。戦がなかったのは、織田家が強いからです。織田家が強いのは、上様がおられるからです。全部、一本の糸で繋がっています。
次章の題は、「俺を消す」です。




