第101話 俺を消す
――上様は、ご自分の死後を書けと命じられた。
――七通の写しができた。備えは、紙の上ではできた。
――だが、線は全部、まだ俺を通っている。
天正十三年、三月。
坂本に戻った俺は、家中の主だった者を集めた。
三十人ほど。利三。秀満。三沢。たき。与三郎。そして、この七年で育った者たち。七年前に同じ部屋に集めたときは、名前と顔が一致する者が、半分もいなかった。今は、全員の役目と、その役目の「なぜ」を言える。
俺は、白紙を掲げた。七年前と、同じことをした。
「これから、明智の家を、もう一度作り直す」
ざわり、と空気が動いた。利三が、渋い顔をした。
「殿。また、でござるか」
「また、だ」
白紙を置いた。
「――今度は、俺を消す」
静まり返った。誰も、何も言わなかった。
やがて、利三が、掠れた声で言った。
「殿。それは、いかなる意味にござる」
「そのままの意味だ。俺がいなくても、明智の家が動くようにする」
白紙を指した。
「七年前、俺は同じことを織田家について言った。上様がおられずとも、織田家が動くようにする、と。そして、それを七年やった。――だが、明智の家は、どうだ」
誰も、答えなかった。
「俺が倒れたら、この家は止まるか。――正直に答えよ」
沈黙があった。去年、堺から戻って馬から降りられなかった夜を、全員が知っている。あれから、この問いは家中の腹の底にあって、誰も口にしなかった。
やがて、三沢が手を挙げた。
「申し上げます。――半分は、止まりませぬ」
「半分、か」
「荷は、止まりませぬ。役目書がございますゆえ。村の裁きも、止まりませぬ」
「では、何が止まる」
三沢は、しばらく考えた。
「――外との話にございます」
俺は、深く頷いた。
(そうだ)
外との交渉を、全部一人でやっている。安土。岐阜。播磨。北陸。土佐。全部、俺が行っている。前世の会社で、取引先の連絡先が全部一人の営業部長の携帯に入っていたのと、同じ形だ。
「三沢。よく言った。――他には」
今度は、秀満が手を挙げた。福知山を預けて、七年になる。丹波の四十二家との書付は、この男が一枚も欠かさず継いでいる。
「申し上げます。――決まりを、新しく作ることにございます。決まりを守ることは、我らにできまする。ですが、新しい決まりを作るのは、殿にしかできませぬ」
俺は、動けなかった。
(そこだ)
これが、最も深い問題だ。運用は、できる。だが、設計ができない。
「秀満。なぜ、できぬと思う」
「それがしには、思いつきませぬゆえ。――『これが問題だ』ということにございます。殿は、いつも『これが問題だ』と仰せられます。それがしには、問題が見えませぬ」
俺は、腹の底で受けた。
(問題の発見)
解決より難しい。解決は、問題が分かれば、誰でもできる。だが、問題を見つけるのは。
「秀満。俺は、どうやって問題を見つけていると思う」
秀満は、答えられなかった。
「誰か、分かる者はおるか」
しばらく、誰も答えなかった。やがて、利三が言った。
「――殿は、聞いておられる。殿は、いつも人に聞いておられる。船頭に、湖のことを。馬飼いに、馬のことを。侍女に、台所のことを。そして、聞いた話から、問題を見つけられる」
俺は、深く頷いた。
(半分は、当たっている)
だが、もう半分がある。
「利三。半分は、当たっている。もう半分は、何だ」
利三は、首を振った。
「分かり申さぬ」
俺は、家中を見回した。
「――俺は、比べている」
(――これも、蜀で覚えた)
あのころ、俺の手元には二つの簿があった。誰が何を言ったかの簿と、誰が何をしたかの簿である。
二つを並べると、言うだけの者と、するだけの者と、両方する者が分かれた。分かれたところが、そのまま人の配し方になった。
――比べるのは、才ではない。並べる手間である。
全員が、俺を見た。
「船頭の話を聞く。馬飼いの話を聞く。――そして、二つを並べる」
書付を出した。荷の覚だ。
「これは、近江と播磨と越前の書付を並べたものだ。並べると、同じところと、違うところが見える。同じところは、どこでも起きることだ。違うところは、その土地の事情だ。――そして、片方にあって片方にないものが」
少し間を置いた。
「――問題だ」
部屋が、静かになった。
「殿。それは、それがしにもできまする」
三沢だった。
「できるか」
「できまする。『荷の覚』は、それがしが作りました。――ただ。それがしは、荷しか比べられませぬ。殿は、荷と、村の裁きと、国衆の話と、上様のお言葉を、全部並べておられます。――それが、できませぬ」
俺は、考えた。
(範囲の問題だ)
三沢は、荷の専門家だ。荷のことは、俺より詳しい。だが、荷しか見ていない。
そこで、気づいた。
(俺は、専門を持っていない)
荷も、村も、国衆も、外交も、全部を中途半端に見ている。どれも、専門家には及ばない。だが、全部を並べられる。前世でも、そうだった。経営企画部というのは、何の専門家でもない部署だった。だから、全部の部署の資料が、机に集まった。
筆を取り、書いた。
――専門を持つ者は、深く見る。専門を持たぬ者は、広く並べる。問題は、並べたときに見える。
三行を、家中に見せた。
「これが、俺のやっていることだ。そして、これは、教えられる。――ただし、一人には教えられぬ。一人が全部を見るのは、無理だ。俺も、無理をしている。――ゆえに、倒れた」
白紙を取り、書いた。
――寄合。
「寄合を、作る。月に一度、家中の主だった者が集まる。そして、各々が見ておることを、並べる」
利三が、首を傾げた。
「殿。それは、評定と何が違いまする」
いい質問だった。
「評定は、決めるための場だ。――寄合は、決めぬ」
全員が、面食らった顔をした。
「決めぬので」
「決めぬ。並べるだけだ。三沢は、荷のことを言う。左馬助は、決まりのことを言う。利三は、家中のことを言う。――そして、それを並べる」
「並べて、いかがなさいます」
「何もせぬ。――ただ、聞く」
利三が、渋い顔をした。
「殿。それでは、時の無駄では」
俺は、少し笑った。
「利三。おぬしは、七年前、同じことを言った。『棚卸しは、戦の役に立ちますので』と」
利三は、しばらく黙って、それから少し笑った。
「覚えておられるので」
「覚えている。そして、あのとき俺は、こう答えた。『数えておけば、足りなくなる前に分かる』と。――今度も、同じだ。並べておけば、問題が起きる前に見える。決めるのは、その後だ」
◇
寄合は、その月から始まった。
最初の三回は、失敗だった。問題は、単純だった。誰も、喋らない。いや、喋りすぎる者と、喋らない者に分かれる。利三が喋る。三沢が喋る。他の二十七人は、黙っている。
四回目で、やり方を変えた。順番に、必ず一つずつ言わせる。「ない」と言うことを、禁じた。
これは、効いた。最初は、皆、当たり障りのないことを言った。特に変わりございませぬ。順調にございます。だが、三回目あたりから、変わってきた。
ある若い家臣が、言った。
「――蔵の鍵のことにございます。近ごろ、鍵を借りに来る者が増えており申す。なぜかは、分かり申さぬ。ですが、去年より、倍ほど」
俺は、書き取った。
(これは、何だ)
分からなかった。だが、並べれば、分かるかもしれぬ。
「誰か、これに関わることを知っておるか」
しばらく、誰も答えなかった。やがて、三沢が言った。
「――荷が、増えており申す。去年より、三割ほど。丹波と、京への荷にございます」
二つを並べた。鍵を借りる者が、倍。荷が、三割増。
(合わない)
「荷が三割増えて、鍵を借りる者が倍になるか」
三沢は、少し考えた。
「――合いませぬ」
「他に、何かないか」
沈黙があった。やがて、たきが手を挙げた。
「申し上げてよろしゅうございますか。――町で、米の値が動いております。下がっております」
俺は、動きを止めた。
三つを並べた。鍵を借りる者が、倍。荷が、三割増。米の値が、下がっている。
(売っている)
「たき。誰が、米を売っておる」
「――侍衆にございます。町の米屋に、幾人か」
部屋の空気が、変わった。
家中の者が、扶持の米を売っている。それ自体は、珍しくない。だが、倍になっている。
「なぜ、売っておる」
たきは、しばらく黙っていた。
「申し上げにくうございます」
「咎めぬ」
「――銭が、要るゆえと」
「何に、要る」
たきは、俺を見た。それから、家中を見た。三十人が、俯いていた。
「――薬にございます」




