第102話 薬を買う侍
俺は、動けなくなった。
(薬)
堺で、宗易が言った言葉を思い出した。近ごろ、眠りの薬がよう売れます。あれは、織田家の家中の話だと思った。俺の家中の話だった。
「たき。どのような薬だ」
「――眠り薬にございます。腹の薬と。そして、酒にございます」
三つを書き取った。眠り薬。腹の薬。酒。
(全部、同じだ)
全部、眠るための薬だ。
家中を見回した。三十人。全員が、俺を見ていた。そして、誰も、口を開かなかった。
その沈黙で、理解した。
(知っている)
全員が、知っていた。誰が、薬を買っているか。そして、誰も言わなかった。俺は、「報告は早いほど手柄」と決めた。だが、これは、報告されなかった。
「知っておる者は、おるか」
しばらく、誰も答えなかった。やがて、利三が言った。
「知っており申す」
「なぜ、言わなかった」
「――恥ゆえにござる」
俺は、動けなかった。
(恥)
薬を買っていることが、恥だ。眠れないことが、恥だ。弱いと、思われる。
「利三。おぬしは、買っておるか」
静まり返った。利三は、しばらく答えなかった。
「――買っており申す」
俺は、目を閉じた。
「いつからだ」
「三年ほど前から」
(三年)
七年前、この男の板を見た。着手速度、九十五。書字、九十九。そして、自分の限界の申告、六。あのとき俺は思った。この男は、限界が来たときに倒れる。倒れるまで、誰にも分からない。
分かっていた。七年前から、分かっていた。そして、七年、聞かなかった。
「なぜだ」
「眠れませぬゆえ」
「なぜ、眠れぬ」
利三は、答えなかった。俺は、待った。
「――殿のことを、考えており申す。殿は、いつ倒れられるか分かり申さぬ。七年前も、倒れられた。去年も、倒れられた。――そして、次に倒れられたら」
声が、掠れた。
「――起きられぬかもしれ申さぬ」
俺は、答えられなかった。
(そうか)
俺は、自分の体のことばかり考えていた。倒れたら、家が止まる、と。だが、家臣は、俺が死ぬことを恐れている。仕組みの話ではない。情の話だ。
「他に、眠れぬ者はおるか」
しばらく、誰も動かなかった。やがて、一人が手を挙げた。次に、もう一人。そして――
数えた。十一人。三十人のうち、十一人。
その光景を、しばらく見ていた。
「皆。手を、下ろせ」
全員が、手を下ろした。
「――俺が、悪い」
部屋が、ざわついた。
「殿ッ。殿のせいでは」
「俺のせいだ。俺は、七年、走ってきた。そして、皆を走らせてきた。――だが、皆が疲れておることを、見ておらなんだ」
平伏しそうになった。だが、しなかった。主が家臣に平伏すれば、家臣が困る。煕子に、教わった。
「だから、これから変える」
白紙を取った。
「寄合の一つ目の話を、これにする」
書いた。
――疲れておる者は、おるか。
利三が、渋い顔をした。
「殿。それは、誰も申しませぬ」
「そうだろうな。ゆえに、聞き方を変える」
書き直した。
――この一月、いちばん忙しかった者は、誰か。
「これなら、言えるか」
やがて、三沢が言った。
「言えまする。『疲れた』と申すのは、恥にございます。ですが、『忙しい』と申すのは、恥ではございませぬ」
俺は、深く頷いた。言葉が違うだけだ。だが、その違いが、決定的だ。面談で「困っていること」を「腹が立ったこと」に変えたのと、同じだ。
書付に書いた。
――「疲れたか」と問うてはならぬ。「忙しかったか」と問え。同じことを聞いておるが、答えが違う。
――人は、弱さを認めることを恥じる。ゆえに、弱さを聞かず、量を聞け。
◇
最初の月、名が挙がったのは、意外な男だった。蔵の書付を扱う、若い家臣だ。俺は、この男の名を、あまり知らなかった。
「なぜ、この者が」
三沢が答えた。
「この者に、全部が集まっておりますゆえ。荷の書付。蔵の書付。村の書付。全部、この者が写しております」
「名は」
「与三郎と申します」
「一月に、何枚書く」
「――三百ほどにございます」
(三百)
「一日に、十枚か。他に、役目は」
「蔵の見回りと、荷の受け渡しと」
額を押さえた。
「与三郎。おぬし、いつ寝ておる」
「夜半には」
「朝は」
「明け六つには起きまする」
(四刻も、寝ていない)
「なぜ、言わなかった」
「役目にございますゆえ」
俺は、動けなかった。
(役目書だ)
俺が作った役目書に、こう書いてある。書付の写しを作ること。量は、書いていない。
背筋が冷えた。
(俺の書付が、この男を潰している)
その夜、役目書を見直した。全二百三。一つずつ見た。「何をするか」が書いてある。「どれだけするか」が書いていない。だから、際限なく増える。そして、誰も気づかない。
――役目には、量を書かねばならぬ。量がなければ、役目は際限なく膨らむ。膨らんだ役目は、人を潰す。そして、潰れるまで、誰も気づかぬ。
◇
翌日、与三郎を呼んだ。
「与三郎。おぬしの役目を、書き直す」
青くなった。
「お、お役御免でございましょうか」
「違う。減らす」
「減らす、と」
「一日に、書付は五枚までとする」
「ですが、それでは間に合いませぬ」
「間に合わぬ。ゆえに、人を増やす」
与三郎は、しばらく黙っていた。
「殿。それは、それがしが至らぬゆえでございますか」
俺は、答えられなかった。
(これだ)
仕事を減らされると、人は「無能だと思われた」と考える。だから、減らされることを嫌う。そして、抱え込む。前世の俺が、そうだった。
「違う。与三郎。おぬしは、よくやっておる。一日に十枚、三年書き続けた。誰にも、できぬことだ。――だが。おぬしが倒れたら、明智の家は止まる」
「それがしが、でございますか」
「そうだ。おぬしが書付を全部写しておる。ゆえに、おぬしが倒れれば、書付が止まる。そして、書付が止まれば、この家は止まる。――おぬしは、それだけ大事な役目についておる」
「そのようなこと、考えたこともございませなんだ」
「ゆえに、人を増やす。おぬしが倒れても、止まらぬようにするためだ」
少し笑った。
「――おぬしを、消す。俺も、同じことをしておる。俺を、消しておる」
与三郎は、しばらく黙っていた。
「殿。それは、寂しゅうございませぬか」
俺は、答えられなかった。
(寂しい)
そう思ったことがあるか。
「――寂しい。だが、寂しいのと、要らぬのは、違う。俺が消えても家が回るということは、俺が休めるということだ。――そして、おぬしが休めるということだ」
「殿。それがし、三年、休んでおりませぬ」
目を閉じた。
「何がしたい。休みが取れたら、何がしたい」
与三郎は、長いこと考えた。
「――思いつきませぬ」
俺は、動けなかった。三年休んでいないと、休み方を忘れる。俺と、同じだ。舟の上で寝転がっても、頭が備中へ行っていた。
「与三郎。ならば、探せ。休みを取って、何がしたいかを探せ。――それが、次の役目だ」
「役目、でございますか」
「役目だ。役目書に、書いておく」
その夜、役目書の与三郎の項に、書き足した。
――書付の写し。一日五枚まで。
――休みに何をしたいかを、探すこと。なぜ:三年、探しておらぬゆえ。




