第103話 家中が、眠れぬ
天正十三年、五月。
俺は、書付を作っていた。
――役目の量、定めの覚。
中身は、単純だった。
――役目には、量を書くこと。量を超えたるときは、申し出ること。申し出たる者を、咎めざること。
三条目が、いちばん難しかった。咎めない、と書いても、人は咎められると思う。だから、申し出ない。
四条目を足した。
――量を超えたる役目を抱えたる者を見つけたる場合、その上役の落ち度とす。
(逆にした)
働きすぎている者を咎めるのではない。働かせすぎている者を、咎める。これなら、上役が気にする。
◇
だが、書きながら、腹の底に引っかかるものがあった。
(――なぜ、増えた)
俺が作った書付は、どれも仕事を減らすためのものだ。役目書は無駄を削るために作った。荷の覚は遅れを防ぐために作った。取次の筋目は、揉め事を減らすために作った。
それなのに、家中は前より忙しくなっている。
(――道具を入れると、初めは仕事が増える)
前の世で、俺はこれを何度も見た。新しい仕組みを入れる。最初の一年、現場は前より遅くなる。使い方を覚えねばならぬからだ。覚える間は、古いやり方と新しいやり方の両方をやることになる。
その一年で、たいてい潰える。「前のほうが速かった」と言われて、元へ戻す。
戻さずに二年目まで我慢した者だけが、三年目に楽になる。
(――これは、月謝だ)
道具の値ではない。使い方を覚えるための月謝だ。そして、この月謝は、いつも現場が払う。作った者は払わない。
俺は、筆を取った。
――新しき仕組みを入れたる年は、仕事が増える。減るのは、二年目より後である。
――ゆえに、入れたる年に「前のほうが良かった」と言われても、すぐには戻さぬこと。
――ただし、三年経っても減らぬものは、戻すこと。
書きながら、少し笑った。
(――俺は、七年、月謝を取り続けている)
七年目に入って、家中の三人に一人が眠れていない。
(――取りすぎだ)
◇
二月後、効果が出た。申し出が、十七件。
「利三。多いな」
「多うござる。そして、皆、上役が申し出ており申す」
本人ではなく、上役が申し出ている。「この者の役目が多すぎます」と。上役の落ち度になるからだ。
(人は、己のためには動かぬ。だが、己が咎められるとなれば、動く)
十七件を、全部見た。そして、気づいた。
(偏っている)
十七件のうち、十二件が、書付に関わる役目だ。
俺は、動けなかった。
(俺が、増やした)
七年、書付を増やし続けた。役目書。荷の覚。功の書。取次の筋目。緊急の覚。全部、誰かが書いている。
その夜、数えた。明智家で、一月に作られる書付。三沢と与三郎に数えさせた。
――千二百枚。
「三沢。七年前は」
「記録がございませぬ。ですが、百枚もなかったかと」
(十二倍だ)
半兵衛の言葉を思い出した。七十三枚を読む者は、おり申さぬ。減らせ、と。
翌日、寄合で問うた。
「この千二百枚のうち、読まれておるものは、いくつだ」
誰も、答えられなかった。
「では、こうする。――三月、書付を止める」
部屋が、ざわついた。
「殿ッ。止め申せば、家が回りませぬ」
「全部ではない。三月、止めてみる。そして、何も起きなかったものは、廃す」
利三が、少し目を上げた。
「――七年前と、同じにござるな」
「同じだ。七年前、俺は役目を止めてみた。そして、六十七が廃された。――今度は、書付を止める」
三月の試しは、驚くべき結果を生んだ。千二百枚のうち、四百三十枚が、なくても問題なかった。
(三分の一以上)
だが、問題も出た。止めたことで、困ったものが、二百枚ほどあった。一つずつ見て、気づいた。
(困り方が、遅い)
止めてすぐに困るものは、少なかった。一月後、二月後に、じわじわ困る。だから、気づきにくい。門前の掃除と、同じだ。
――役に立つ書付ほど、止めても、すぐには困らぬ。困るのは、一月、二月の後である。ゆえに、三月は試さねばならぬ。
◇
六月。この結果を持って、安土へ行った。
「日向守。おぬし、書付を減らしたのか。なぜだ」
「家中が、潰れますゆえ。――家中の三人に一人が、眠れておりませぬ。そして、薬を買うために、扶持の米を売っております」
長い沈黙があった。
「日向守。それは、おぬしの家だけか」
その問いを、待っていた。
「分かりませぬ。ですが、堺の商人が、こう申しておりました」
宗易の言葉を伝えた。茶器が減り、眠りの薬が売れる。二年ほど前から。
「二年前」
「御馬揃えの、少し前にございます」
「日向守。なぜ、二年前からだ」
「分かりませぬ。ですが、心当たりはございます。――織田家が、大きくなりすぎたゆえかと存じます。七年前、織田家は畿内と、その周りにございました。今は、北陸、中国、東国、四国にまで広がっております。――ですが、家臣の数は、三倍にもなっておりませぬ」
「一人あたりの役目が、増えたと申すか」
「さようにございます。そして、それは、それがしのせいでもございます。それがしが、書付を増やしましたゆえ。役目書。荷の覚。功の書。取次の筋目。全部、それがしが作りました。――そして、諸家に配りました」
「日向守。それは、悪いことか」
「半分は、良いことにございます。書付のおかげで、荷は遅れませぬ。国衆は離反しませぬ。――ですが、書付は、人が書きまする。そして、書く者は、疲れまする」
長い沈黙。
「日向守。ならば、どうする」
「三つ、ございます。一つ。書付を減らすことにございます。三月止めて、困らぬものは、廃しまする。二つ。役目に、量を定めることにございます。そして、量を超えた者を見つけたら、その上役の落ち度といたしまする。三つ」
少し間を置いた。
「――家臣を、増やすことにございます。今の家臣の数では、この国は治められませぬ」
「誰を、増やす」
「侍だけでは、足りませぬ。――書付を書くのに、槍は要りませぬ。要るのは、字にございます。ゆえに、字の書ける者を、身分を問わず使いとうございます」
長い沈黙があった。俺は、額を畳につけたまま、待った。
(これは、大きい)
この時代、行政は武士がやる。町人や百姓は、使わない。だが、それでは足りぬ。
「日向守。おぬし、それを己の家でやったか」
「やっております。たきという女がおります。町の出にございます。字は、六年前から習いました。今は、坂本の町と城を繋ぐ役をしております。――そして、家中の者が気づかぬことを、拾うております」
「日向守。女を使うか」
「使うております」
「家中は、何と申す」
「最初は、反対いたしました。ですが、今は、誰も申しませぬ。――役に立ちますゆえ」
信長は、しばらく黙っていた。それから、少し笑ったようだった。
「わしと、同じことを申すな。わしは、家柄で人を使わなんだ。役に立つ者を、使うた。――おぬしは、それを、もう一段進めておる。褒めておらぬ。だが、面白い」
そして、言った。
「日向守。書け。今、申したことを、全部だ。――そして、諸家に配れ。柴田にも、猿にも、丹羽にも、滝川にも」
「お認めになりますか」
「認める。ただし、一つ、条件がある。――おぬしの家の数字を、入れよ。三人に一人が眠れぬ、と申したな。それを、書け」
俺は、しばらく黙っていた。
(恥を、晒すことになる)
自分の家中の三分の一が眠れていない。それは、統率の失敗だ。
「上様。それは、それがしの恥にございます」
「そうだ。だが、書け。――数字がなければ、誰も動かぬ」
俺は、動けなかった。
(そうだ)
「家中が疲れている」と書いても、誰も自分事にしない。だが、「三人に一人が眠れていない」なら、自分の家を数えたくなる。俺が三沢に「見えるようにする」と言ったのと、同じだ。今度は、俺の恥を見えるようにする。
「書きまする」
「日向守。――恥を晒す者は、強い」




