第104話 誰も、数えていなかった
天正十三年、八月。
『役目の量、定めの覚』は、諸家に配られた。
冒頭に、こう書いた。
――明智家中、三十人のうち、十一人が眠れず。薬を買うため、扶持の米を売る者あり。右、日向守の落ち度なり。
返事は、順に来た。
最初は、丹羽長秀だった。
――日向守どのへ。書付、拝見いたし申した。そして、己の家を数え申した。四十二人のうち、十六人にござった。
(四割近い)
――それがしは、これまで数えたことがござらなんだ。数えねば、見えぬものにござるな。
次は、柴田勝家だった。
――日向守。数えた。北陸は、五十八人のうち、九人だ。
(少ない)
――なぜ少ないか、考えた。冬だ。北陸は、冬に動けぬ。ゆえに、四月ほど、皆、休んでおる。
俺は、唸った。雪で動けない。だから、強制的に休みになる。それが、家中を守っている。
――日向守。おぬしは、休みがないのだろう。近江は、雪が浅い。ゆえに、一年中、動ける。動けるということは、休めぬということだ。
書き取った。
(逆だ)
便利なことが、人を潰している。
次に来たのは、滝川一益だった。
――数え申した。三十七人のうち、二十一人にござった。
息を呑んだ。半分以上。
――それがしの家は、常に動いており申す。伊勢、北陸、東国と。ゆえに、誰も、腰を落ち着けられ申さぬ。
(便利な男の、家中だ)
この人が便利であるということは、家臣も、便利に使われている。
――それがしは、これを恥じており申さぬ。だが、直したいと思うており申す。どうすればよいか、お教え願いたい。
すぐに返事を書いた。
――左近将監様へ。それがしにも、答えはございませぬ。ですが、一つだけ申せることがございます。数えられたことが、既に第一歩にございます。
そして、最後に来たのが、羽柴秀吉だった。書状は、驚くほど短かった。
――日向守様へ。数え申した。百二十人のうち、四人にござる。
手が止まった。
(四人)
百二十人のうち、四人。三分ほどだ。少なすぎる。
「利三。これを見ろ」
利三は読み、言った。
「嘘でござろう。百二十人で四人は、ありえませぬ。中国筋は、いちばん忙しい戦線にござる」
「そうだ。だが、あの男が、こういう嘘をつくか」
利三は、考えた。
「――つき申さぬかもしれ申さぬ。嘘なら、もっとうまくつき申す」
俺は、少し笑った。
「そうだな」
(ならば、なぜ四人なのだ)
答えを、二月後に知ることになる。
◇
天正十三年、十月。秀吉から、二通目が来た。
――先の書状、四人と申し上げ候。これにつき、申し上げたきことあり。それがしの家は、眠れぬ者を、置いており申さぬ。
手が止まった。
(置いていない)
眠れなくなった者を、どうしている。
――眠れぬ者は、役目を替え申す。それでも直らねば、暇を出し申す。
背筋が冷えた。
(切っている)
疲れた者を、外している。だから、数字が良い。
だが、続きを読んで、考えを改めた。
――ただし、暇を出す折は、次の仕官先を世話し申す。そして、扶持を一年分、持たせ申す。
(違う)
単なる切り捨てではない。再就職支援だ。しかも、一年分の生活費つきだ。前世の会社は、早期退職の割増金を三月分しか出さなかった。
――日向守様。それがしは、人を大事にしており申さぬ。使い、そして、使えなくなれば、放し申す。ですが、放つ折に、恨まれぬようにいたし候。恨まれれば、次の者が来ぬゆえに候。
(計算だ)
この男は、情でやっていない。計算でやっている。そして、その計算は、正しい。
――日向守様。一つ、伺いたきことがござる。日向守様は、なにゆえ、疲れた者を置いておかれる。
俺は、答えを探した。情がある。育てた者だ。代わりがいない。だが。
返事を書いた。
――筑前殿へ。それがしは、疲れた者を置いておるのではございませぬ。疲れさせておるのでございます。そして、それを直そうとしております。
――筑前殿。一つ、伺ってもよろしゅうございますか。疲れた者を放たれるのは、正しゅうございます。ですが、なにゆえ、疲れるのでございましょうか。
返事は、一月で来た。
――お尋ね、痛み入り候。そして、答えられ申さず候。
(答えられない)
この男が、そう書いた。
――それがしは、これまで、なにゆえ疲れるかを考えたことがござらなんだ。疲れる者は、弱い者だと思うており申した。ですが、日向守様の書付を読み、数えてみて、思い申した。疲れる者が四人で済んでおるのは、それがしが強いゆえではござらぬ。疲れた者が、既におらぬゆえにござる。
(気づいた)
自分で気づいた。
――それがしは、この十年で、幾人に暇を出したか、数えてみ申した。八十七人にござった。
息を呑んだ。十年で、八十七人。年に、八人以上だ。
――そして、その八十七人が、なにゆえ疲れたかを、それがしは知り申さぬ。一人も、知り申さぬ。
――日向守様。それがしは、これを恐ろしいと思い申した。八十七人、それがしが潰したのかもしれ申さぬ。
俺は、書状を持って、しばらく座っていた。
(あの男が)
「止まれば終わり」と言った男が。止まって、数えた。
返事を書いた。
――八十七という数を、書き残されましたこと、まことに大きなことと存じます。数えねば、見えませぬ。見えねば、直せませぬ。そして、直さねば、次の八十七が出まする。
――筑前殿。それがしは、あなた様を恐ろしいと思うておりました。ですが、今は、少し違うております。あなた様は、速い。そして、速い者は、置いていく者の顔を見ませぬ。それは、あなた様の咎ではございませぬ。速さの咎にございます。
――ですが、今、あなた様は、振り返られました。それは、速さより、難しいことにございます。
返事は、来なかった。
◇
代わりに、三月後――天正十四年の正月に、報せが来た。
――羽柴筑前守、家中に『役目の量、定めの覚』を出す。
「利三。羽柴様が、使われた」
「さようで。――しかも、書き直しておられ申す。一条、足しておられ申す」
――暇を出したる者について、なにゆえ暇を出したかを、書き記すこと。そして、その書付を、三年、残すこと。
長いこと、見ていた。
(記録している)
これから辞めさせる者の理由を、記録することにした。八十七人分は、もう戻らない。だが、次からは、残る。
(変わった)
いや。首を振った。変わっていない。速いままだ。人を使い、放つままだ。
(だが、記録するようになった)
それだけだ。それだけで、次の八十七人は、少し違う。
――人は、変わらぬ。だが、記すようになれば、少し変わる。記すことは、振り返ることゆえ。そして、振り返る者は、遅くなる。遅くなることは、悪いことではない。
そこで、筆を止めた。
(待て)
(俺は、羽柴筑前守を遅くしたのか)
この男の速さは、織田家の武器だ。それを、俺が鈍らせた。良いことか。分からぬ。
筆を置き、外を見た。
(だが、止まれぬ男が、止まった)
(もし、この男が止まれるなら)
拳を握った。
(上様が死んだとき、この男は、走らぬかもしれぬ)
◇
だが、その年の五月。
播磨から、報せが来た。
「殿。姫路より、飛脚にござる」
利三の顔を見て、俺は書状を受け取る前に分かった。
――竹中半兵衛重治、死す。五月九日。享年、四十一。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
(四十一)
初めて会ったとき、三十六だった。あのとき、板は体力十八と出した。そして、余命表示不可と。
(五年、保たれた)
俺の知っている歴史では、この人は七年前に死んでいる。三木の陣中で。俺が丹波を早く片付け、荷の様式を諸家に配り、秀長が兵糧を回し始めた分だけ、この人の身体は楽になった。それが五年になった。
(――五年)
五年で何が変わったかを、俺は知っている。
『陣中、見様の覚』が生まれた。あの人が「策は水物にござる。されど、目は渡せ申す」と言って、口述した書付だ。今は羽柴家だけでなく、柴田家でも滝川家でも写されている。
(あれは、五年の中で生まれた)
もし七年前に死んでいれば、あの書付はなかった。
「利三。文を書く。――弔いの文だ」
「どちらへ」
「筑前殿と、小一郎様に」
筆を取ろうとして、手が止まった。
(何を書く)
半兵衛は、俺の家臣ではない。俺の師でもない。会ったのは、数えるほどだ。
だが、この人がいなければ、俺の書付は今の半分もなかった。七十三枚を読む者はいない、と言われて、俺は減らすことを覚えた。策は書けぬが目は渡せる、と言われて、俺は「型」というものを知った。
書いた。
――筑前殿へ。半兵衛様のこと、伺いました。それがしは、あの方に、二つのことを教わりました。一つ、書付は減らさねば読まれぬこと。二つ、渡せるのは策ではなく、目であること。
――この二つは、それがしの家に残っております。そして、諸家にも回っております。ゆえに、あの方は、まだ働いておられます。
◇
返事は、二月後に来た。
――日向守様。かたじけのうござる。
――半兵衛は、最後まで書いており申した。死ぬ三日前まで、口を動かしており申した。それがしは、その横で書き取っており申した。
――そして、こう申し申した。「筑前殿。それがしは、策を書き残さぬと申し上げた。だが、日向守どのに会うてから、考えを変え申した」と。
俺は、その一行で、手が止まった。
――「策は、その場のもの。だが、見方は、残る」と。
――日向守様。それがしは、あの男に三十年仕えられると思うており申した。二十年で終わり申した。
最後に、一行あった。
――これで、それがしを止める者が、一人減り申した。
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
(――数えている)
この男は、自分を止める者を数えている。そして、減ったことを、他家の俺に書いてきた。
俺は、書付に書いた。
――止める者は、数えられる。そして、減る。
――減ったとき、当人は気づく。だが、気づいたところで、増やせぬ。
――ゆえに、止める者は、生きておるうちに増やしておかねばならぬ。




