第105話 明智の跡目
天正十四年、正月。
安土の年賀で、上様が一つの縁組を告げられた。
柴田修理亮勝家に、妹君を嫁がせる。
――お市どのだ。
広間が、ざわついた。俺も、動けなかった。
(――また、人を橋にする)
小谷が落ちて、十三年になる。あの方は、三人の娘と共に、安土で暮らしておられた。
◇
評定の後、呼ばれた。
「日向守。驚いたか」
「驚きました」
「なにゆえだ」
「――市どのは、一度、橋にされております」
俺は、はっきり言った。
「浅井との盟は、市どのを橋にいたしました。そして、盟が破れたとき、落ちたのは市どのにございます。子を、失われました」
「日向守。おぬし、わしを責めておるな」
「責めております」
信長は、しばらく黙っていた。
「――理由を言う。修理は、七十だ。子がおらぬ。あれが死ねば、北陸は割れる。ゆえに、繋いでおく」
「上様。それは、家の理屈にございます」
「そうだ。――日向守。わしは、家の理屈で動く。それは、変わらぬ」
俺は、平伏した。
(――変わらぬ)
この人は、そこは変えない。十年、変わらなかった。たぶん、死ぬまで変わらない。
「上様。ならば、一つ、お願いがございます。――『婚姻の儀、覚書』を、この縁組に使わせてくださいませ」
眉が、動いた。
「あれは、家臣の娘のためのものであろう」
「さようにございます。ですが、市どのにも、要りまする」
「なにゆえだ」
「――十三年前、市どのには、何もございませなんだ。取次役も、約定の紙も、ございませなんだ。ゆえに、小谷が落ちた日、誰も市どのをどう扱うかを知りませなんだ」
俺は、続けた。
「そして、あの覚書は、市どののお話から作りました。作った元の方に、使わぬのは――筋が通りませぬ」
長い沈黙があった。
「――使え」
◇
その月、俺は安土でお市に会った。三度目だ。
四十に近い。だが、背筋は変わっていなかった。
「日向守どの。覚書のこと、伺いました」
「差し出がましきことにございます」
「いいえ」
この方は、静かに言った。
「――嬉しゅうございました」
俺は、顔を上げた。
「十三年前、わたくしには、何もございませんでした。誰も、わたくしをどうするかを決めておりませんでした。ゆえに、生き延びたのは、兄がその場でそう決めたからにすぎませぬ」
「――さようにございます」
「そして今、紙がございます。取次役がおり、約定が書かれ、両家の者が読みまする」
この方は、少し笑った。
「日向守どの。これは、わたくしのためのものではございませぬ」
「と、申されますと」
「次の者のためのものでございます。――わたくしは、次の者にございます」
俺は、しばらく答えられなかった。
◇
覚書の写しを渡すとき、この方が言った。
「日向守どの。一つ、伺ってよろしいですか。――四条目にございます」
俺は、身構えた。
両家が敵となりし場合の条だ。
「『子と共にあるべし』とございます。これは、どなたが書かれました」
「――娘にございます」
「玉どのが」
「さようにございます。嫁ぐ前に、自ら書きました」
お市は、しばらく紙を見ていた。
そして、こう言った。
「わたくしは、決めておりませんでした。ゆえに、その場で決められました。――娘御は、決めておられます」
この方は、紙を畳んだ。
「日向守どの。それが、十三年の違いにございます」
◇
天正十四年、三月。
俺は、五十八になっていた。
その日、煕子が書院に来た。五十二になる。咳は、もう出ない。だが、痩せたままだった。
「あなた様。お話がございます。――明智の跡目のことにございます」
俺は、しばらく黙っていた。
(来たか)
避けていた話だ。この体には、息子がいる。だが、まだ幼い。十を少し過ぎたところだ。
「煕子。光慶のことか」
「さようでございます。十一になりました」
(十一)
俺は、この子と、あまり話していない。七年、走り続けていた。そして、この子は、育っていた。
「煕子。俺は、あの子と、あまり話しておらぬな」
「さようでございます。――年に、幾日でございましょうか」
答えられなかった。
「去年は、十二日でございます」
「数えていたのか」
「数えております」
(十二日)
一年で、十二日。月に、一日だ。玉には「年に一度、会いに行く」と約束した。光慶とは、月に一度だ。同じ城にいて。
「煕子。それは、少ないか」
「あなた様は、どうお思いですか」
「――少ない」
「さようでございましょう。ですが、責めておりませぬ。あなた様は、家の外を守っておられます。家の内は、わたくしが。――ですが、光慶は、あなた様を知りませぬ。あの子にとって、あなた様は、遠いお方でございます。偉いお方だと、思うております。――ですが、父とは、思うておらぬかもしれませぬ」
俺は、腹の底で受けた。
「煕子。俺は、どうすればよい」
「話されませ」
「何を話す」
煕子は、少し笑った。
「――何でも」
◇
その日、光慶を呼んだ。
部屋に入ってきた少年は、緊張していた。背筋が、伸びすぎている。
(信忠様と、同じだ)
型で、立っている。父の前で、型で立つ子は、父を父だと思っていない。主だと思っている。
「父上。お呼びと伺いました」
声も、硬い。
「座れ」
光慶は、座り、俯いた。
俺は、しばらく何も言わなかった。
(何を話す)
思いつかなかった。用意していなかった。用意せずに人前に立つのは、玉を見送った朝以来だ。
「光慶。近ごろ、何をしておる」
「学問をしております。四書にございます」
「面白いか」
光慶は、しばらく黙っていた。
「――役目にございますゆえ」
胸が痛んだ。
(与三郎と、同じことを言う)
「光慶。面白いかと聞いておる」
少年は、顔を上げた。戸惑った顔をした。
「面白い、でございますか」
長いこと、考えた。
「――分かりませぬ」
俺は、少し笑った。
「正直だな」
「申し訳ございませぬ」
「謝ることではない。俺も、分からぬ。俺は、四書を面白いと思うたことがない。だが、役に立つ。面白くなくとも、役に立つものはある」
少し考えて、聞いた。
「光慶。おぬしは、何が面白い」
少年は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「――申し上げてよろしいのですか」
「言え」
「――舟にございます」
「舟」
「はい」
少し、早口になった。
「湖の舟にございます。舟の底の形で、速さが変わりまする。坂本の舟は、底が平らにございます。ですが、堅田の舟は、底が尖っております」
「なぜだ」
「堅田は、沖へ出ますゆえ。沖は、波が高うございます。底が尖っておれば、波を切れまする」
俺は、唸った。
(知っている)
湖のそばに七年住んでいる。だが、舟の底の形など、考えたこともなかった。去年、湖の真ん中で寝転がった舟の底が、平らだったか尖っていたか、俺は覚えていない。
「光慶。それを、誰に聞いた」
「船頭にございます。去年から、時々」
俺は、しばらく黙っていた。
(この子は、俺と同じことをしている)
船頭に、聞いている。誰も、教えていないのに。
「光慶。なぜ、船頭に聞く」
「――父上が、そうしておられると聞きましたゆえ」
俺は、動きを止めた。
「誰から聞いた」
「母上にございます。『父上は、誰にでも聞かれる』と。『そして、聞いたことを、必ず書き留められる』と。――『それが、父上のいちばん強いところだ』と」
俺は、動けなかった。
(そう言っていたのか)
七年、俺が家にいない間、この人は子にそう話していた。俺が書いて、煕子が話した。玉のときと、同じだ。
「光慶。おぬしは、書き留めておるか」
少し照れくさそうにした。
「書いております」
「見せてくれるか」
「――拙うございます」
「構わぬ」
持ってきたのは、綴じた紙だった。開いた。
舟の絵が、描いてあった。底の形が、何種類も。その横に、書き込みがある。
――坂本の舟。底、平ら。荷を多く積める。沖には出られぬ。
――堅田の舟。底、尖る。速い。荷は少ない。
めくった。櫂の形。帆の形。
(比べている)
坂本と、堅田を。誰も、教えていない。
「光慶。比べて、何が分かった」
「どちらが良いということは、ございませぬ。坂本の舟は、荷を運ぶには良うございます。堅田の舟は、急ぐには良うございます。――使い道が、違いまする」
深く頷いた。
(分かっている)
優劣ではなく、適性で見ている。十一で。俺が信忠に「父上の速さは学んで身につくものではない」と言うまでに、四年かかった。
「光慶。よく分かった。これは、良い書付だ」
光慶は、少し赤くなった。
「父上。一つ、伺ってよろしいですか。――父上は、明智の家を、わたくしに継がせますか」
正面から、聞いてきた。
「――分からぬ。だが、逃げておるのではない。光慶。継がせるかどうかは、俺が決めることではない」
「では、誰が」
「家中だ。跡目は、俺が指すことができる。だが、家中が従わねば、意味がない」
書付を出した。七年前から書いてきたものだ。
「光慶。これを読め。中将様のことが、書いてある。中将様は、七年前、誰にも従われておらなんだ。家中は、上様の顔色を見ておった。だが、今は違う。中将様が決められたことに、諸将が従う。――なぜだと思う」
「中将様が、決められたゆえでしょうか」
「そうだ。決めて、それが当たった。そして、家中が、それを見た。――光慶。おぬしも、同じだ。俺が指名しても、家中は従わぬ。おぬしが決めて、それが当たったとき、家中は、初めておぬしを見る」
「父上。わたくしは、まだ十一にございます」
「そうだ。ゆえに、今は、決めなくてよい。だが、一つだけ、やっておいてほしいことがある」
舟の書付を指した。
「これを、続けよ。そして、いつか、これを家中に見せよ」
「笑われませぬか」
「笑われる。『若様は、舟の絵を描いておられる』とな。――だが、その笑いは、三年で止む。三年続ければ、誰も真似できぬゆえだ。光慶。人は、続けられぬ。一年は、続く。二年も、続く者はおる。――だが、三年続ける者は、稀だ」
書付を返した。
「三年続ければ、それは、おぬしのものになる。――そして、誰も、それをおぬしから取れぬ」
光慶は、書付を抱えて、部屋を出た。廊下で、足音が一度止まり、それからまた続いた。
その夜、帳面に書いた。
――三月。光慶と、半刻話した。舟の話。俺は、舟の底の形を知らなんだ。
煕子の帳面なら、今日の欄に、こう書くのだろう。
――十三日目。




