第98話 その日の書付
天正十二年、十二月。
俺は、書いていた。
――上様、御不慮の折の覚。
題を書くのに、三日かかった。「死」とは書けない。「万一」でも、まだ生々しい。「御不慮」。この言葉が、いちばん角が立たなかった。
中身は、もっと難しかった。まず、問いを立てた。上様が突然おられなくなったとき、何が起きるか。
一、報せが、遅れる。安土から北陸まで三日。中国まで五日。関東まで十日。その間、諸将は知らない。
二、知った者から、動く。これが、いちばん危ない。早く知った者が、有利になる。そして、その有利さを、使いたくなる。
三、誰が当主か、分からなくなる。書類上は、信忠が当主だ。だが、実権は上様が握っている。その上様が消えれば、信忠に実権が移るとは限らない。
四、諸将が、それぞれ動く。誰も、動き方を知らない。だから、自分で判断する。そして、判断が割れる。
四つを書いて、しばらく見ていた。
(全部、情報の問題だ)
報せが遅れる。知った者から動く。誰が当主か分からない。判断が割れる。全部、知らないことから起きる。
そこから、条文を作り始めた。
――第一条。報せの筋目。御不慮の報せは、次の者へ、同じ日、同じ刻に、同じ内容の書状を発すること。中将様。柴田修理亮。羽柴筑前守。丹羽五郎左衛門。滝川左近将監。明智日向守。
(これが、肝だ)
情報を、同時に届ける。誰も、先に知らない。先に知る者がいなければ、抜け駆けはできぬ。
だが、距離が違う。同時に発しても、同時には着かない。三日考えて、こう書いた。
――報せを受けたる者は、受けたる日を書き記し、他の四人へ、受けたることを報ずること。
(相互確認だ)
柴田が報せを受ける。他の四人に「私は受け取った」と知らせる。全員が、誰がいつ知ったかを知る。先に知った者が、隠せなくなる。
――第二条。当主の儀。御不慮の後、織田家の当主は、中将様なり。これは、既に定まりしことにて、新たに決むるものにあらず。
二行目を、重視した。もし「これから決める」なら、そこに争いが生じる。「既に決まっている」なら、争う余地がない。
――第三条。諸将の動き。御不慮の報せを受けたる諸将は、次のごとくすべし。一、今おる場所を動かざること。二、中将様の下知を待つこと。三、下知が来るまで、二十日は動かざること。
(これが、いちばん重要だ)
混乱時に最も危険なのは、動くことだ。軍を動かせば、それが何の意図か分からない。疑心暗鬼になる。
二十日は、長すぎるか。いや。関東まで十日、返事に十日。二十日は、要る。
例外を書いた。
――ただし、敵が攻め寄せたる場合は、この限りにあらず。その場合も、他の四人へ、動きたることを報ずること。
――第四条。上様の御遺骸の儀。
筆が止まった。あまりに生々しい。だが、書いた。
――御遺骸は、いかなることがあっても、探し出すべし。見つからざる場合、それを隠さず、諸将に報ずること。
なぜこれを書いたのか、自分でも分からなかった。だが、必要だと思った。遺体がなければ、「生きているのではないか」という噂が立つ。そして、混乱する。俺の記憶の中の本能寺には、遺体がなかった。
――第五条。諸将の疑いの儀。御不慮の原因が明らかならざる場合、諸将は互いを疑うべからず。
少し首を振った。無理だ。「疑うな」と書いても、疑う。書き直した。
――御不慮の原因が明らかならざる場合、次のごとくすべし。一、疑いを、口にせざること。二、疑いを、書き記すこと。三、書き記したるものを、中将様へ出すこと。
疑うなとは言えない。だが、疑いを、噂ではなく記録にすることはできる。
――第六条。この覚の写しの儀。この覚は、六通を作り、次の者が各々持つこと。中将様。柴田修理亮。羽柴筑前守。丹羽五郎左衛門。滝川左近将監。明智日向守。さらに一通を、上様が持たれること。右のいずれかが失われたる場合、他の者の写しをもって、これを補うこと。
六条。
(足りるか)
足りない。だが、これ以上は書けなかった。具体的に書きすぎると、通らない。この書付は、通ることが第一だ。通れば、後から足せる。
◇
利三に見せた。この男は読み、しばらく黙っていた。
「殿。これは、恐ろしい書付にござる。これを、上様にお出しになるので。――斬られませぬか」
「斬られぬ。上様が、書けと仰せられた。先月、命じられた」
利三は、目を見開いた。
「上様は、何をお考えなのでござろう」
俺は、しばらく答えられなかった。
「利三。上様は、ご自身の死を、考えておられる。五十一だ。そして、常に前線におられる。いつ死んでもおかしくない、と分かっておられる。――そして、死んだ後、家が割れることも」
「殿。ならば、なにゆえ、これまで何もなさらなんだ」
「――言えなかったのだろう。上様が『わしが死んだ後のことを決めよ』と申されれば、家中は、どう思う」
利三は、考えて、青くなった。
「『上様は、弱っておられる』と」
「そうだ。その噂が広まれば、家が揺れる。ゆえに、上様は言えなかった。七年、言えなかった」
「殿が、言われたのでござるな」
「俺が言った。そして、上様は『書け』と仰せられた」
書付を握った。
(そうか)
そのとき初めて理解した。
(待っていたのか)
七年。この人は、誰かが言い出すのを待っていた。自分からは言えないから。そして、俺が言った。「制度理解、十五」の男は、制度を理解していなかったのではない。制度を、自分の口から言い出せなかっただけかもしれない。
◇
その夜、煕子に言った。
「煕子。俺は、七年かかった。上様に、これを言わせるのに」
煕子は、書付を見た。
「あなた様。これは、あなた様がお書きになったものでございましょう。ならば、あなた様が言われたのでは」
「違う。上様が、『書け』と仰せられた。俺は、書いただけだ」
「あなた様。それは、大きな違いでございますか」
「大きい。俺が勝手に書けば、それは謀反の下書きだ。――上様が命じられて書けば、それは家の法だ」
煕子は、頷いた。
「ならば、七年かかったのは――良かったのでございますね」
「そうだな。七年前に書いていれば、俺は死んでいた」
書付を畳んだ。
「煕子。明日、安土へ行く。通れば、俺の仕事は、半分終わる」
「半分でございますか」
「半分だ。残りの半分は――」
言葉を止めた。
(何だ)
しばらく考えた。
「――この書付が、要らなくなることだ。この書付は、上様が突然おられなくなったときのものだ。突然でなければ、要らぬ。上様が、畳の上で死なれるなら、時がある。話す時が、ある。そのときは、これは要らぬ」
「あなた様は、それを望んでおられますか」
「望んでいる。だが、望んでも、そうならぬかもしれぬ。ゆえに、書く」
「あなた様。それは、六年前と同じでございますね。わたくしが病んだ折も、そうでございました。治ってほしいと願いながら、治らなかったときのために、決まりをお作りになりました」
俺は、動けなかった。
(そうか)
いつも同じことをしている。最善を願いながら、最悪に備える。
(それが、俺の生き方か)
少し笑った。
「煕子。俺は、疲れる生き方をしているな」
「さようでございます」
はっきり言った。
「――ですが、そのおかげで、わたくしは生きております」




