第97話 死んだ後が、恐ろしい
俺は、動けなくなった。
信長は、立ち上がり、障子を開けた。湖が見えた。この人は、しばらくそこに立っていた。
「日向守。来い」
膝行して、縁側まで行った。信長は、湖を見ていた。
「日向守。わしは、尾張の小さな家に生まれた。父が死んだとき、家は割れた。弟と、争うた。――そして、殺した」
俺は、身を固くした。信勝様。津田信澄の父だ。
「日向守。わしは、あのとき二十四だった。家を守るには、そうするしかなかった。今も、そう思うておる。――だが。同じことが、勘九郎たちに起きる」
息を呑んだ。
「上様。なにゆえ、そうお思いでございますか」
「わしが、そうしたゆえだ。日向守。わしは、家柄で人を使わなんだ。役に立つ者を、使うた。猿も、それで上がった。それは、良いことだ。家は、強くなる。――だが、家柄で決まらぬなら、跡目も、家柄では決まらぬ」
背筋が冷えた。
(そうか)
実力主義の組織では、後継も実力で決まるべきだ、という理屈が生まれる。なぜ嫡男なのか、と。そして、一番実力のある男が、いる。
「上様。羽柴筑前守どののことを、案じておられますか」
信長は、答えなかった。湖を見ていた。
やがて、別の名を言った。
「――日向守。三河守は、どうだ」
俺は、身を固くした。
「先月、駿河で会うたな。どう見た」
「――待っておられます」
「何をだ」
「――順番を」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。あれは、わしが死ぬのを待っておるか」
「――分かりませぬ。ですが、待つことのできるお方にございます」
「日向守。それは、同じことだ」
その通りだった。待てる者は、待つ。理由が要らない。
「上様。ですが、三河守様は、動かれませぬ。こちらが崩れぬ限り」
「なぜ言える」
「あのお方は、二度、家を失いかけておられます。ゆえに、賭けをなさいませぬ。勝てると分かるまで、動かれませぬ。――そして、勝てると分かるのは、こちらが割れたときにございます」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。ならば、割れねばよいのだな」
「さようにございます」
「――簡単に言うな」
俺は、少し笑った。
「上様。もう一つ、申し上げてよろしゅうございますか。三河守様は、恨みを覚えておられます。二十年前、ご自分に槍を向けた家臣の名を、全部覚えておられます。そして、覚えたまま、使っておられます」
信長の目が、動いた。
「――覚えたまま、使うか」
「さようにございます」
「日向守。わしは、忘れる」
「存じております」
「――どちらが良い」
俺は、答えられなかった。
(――分からぬ)
忘れる者は、恨みを溜めない。だが、約束も忘れる。覚えている者は、約束を守る。だが、恨みも消えない。
「上様。どちらが良いかは、分かりませぬ。ですが、一つだけ、申せることがございます。――忘れるお方は、書かねばなりませぬ。覚えておられるお方は、書かずとも済みまする」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。おぬしは、結局そこへ戻るな」
「さようにございます」
湖の向こうを見ていた。東の方角だ。
「日向守。北条と上杉は、どうだ」
「北条様は、動かれませぬ。関東を固めておられます。上杉様は、動けませぬ。北陸を、柴田様が押さえておりますゆえ」
「では、東は静かか」
「静かにございます。――ただ、それは、こちらが強いゆえにございます」
俺は、続けた。
「上様。東の家々は、こちらを見ておりまする。柴田様の兵の数、滝川様の道、そして――上様のお年を」
「日向守。猿は、賢い。そして、わしに忠実だ。――今は。わしが死んだ後、あれがどうするかは、分からぬ。あれ自身も、分かっておらぬだろう」
俺は、腹の底で受けた。人は、状況で変わる。今、忠実な者が、明日も忠実とは限らない。本人にも、分からない。俺の板が、秀吉の忠誠を表示しないのは、この人が言った通りのことなのかもしれない。
「上様。ならば、いかがなさいますか」
「分からぬ。ゆえに、恐ろしい」
「上様。一つ、申し上げてよろしゅうございますか。『あれがどうするか』は、変えられませぬ。――ですが、『あれが何をできるか』は、変えられまする」
「どういう意味だ」
「筑前殿が、忠実であり続けるかは、分かりませぬ。ですが、筑前殿が一人で天下を取れぬ形にすることは、できまする。一つには、中将様のもとに、力を集めることにございます。ですが、それだけでは足りませぬ。――他の者にも、力を持たせることにございます」
「どういうことだ」
「上様。今、織田家には、方面軍が五つございます。柴田様。羽柴様。丹羽様。滝川様。そして、それがし。もし、上様が突然おられなくなれば、この五人は、どう動きましょうか。――誰も、動き方を知りませぬ。ゆえに、皆、自分で考えまする。そして、いちばん速く動いた者が、勝ちまする。――そして、いちばん速いのは、筑前殿にございます」
「日向守。ならば、どうする」
「動き方を、決めておくことにございます。上様がおられなくなったとき、誰が何をするか。それを、先に決めておきまする。――そして、五人全員に、同じものを渡しまする」
長い沈黙。
「日向守。それは、わしの死を前提にした書付だな」
「さようにございます」
「不敬だぞ」
「不敬にございます。ですが、上様が、先ほど仰せられました。『死んだ後が、恐ろしい』と。――ならば、備えるしかございませぬ」
長い沈黙があった。
「日向守。――書け。わしが死んだとき、誰が何をするか。それを、書け」
俺は、深く平伏した。
(通った)
いや。命じられた。
「上様。一つ、お尋ねしてよろしゅうございますか。なにゆえ、それがしに命じられます」
「――おぬしが、いちばん得をせぬゆえだ。柴田に書かせれば、柴田が得をする形になる。猿に書かせれば、猿が得をする形になる。だが、おぬしは、勘九郎が得をする形を書く。――そして、それは、わしの望むところだ」
俺は、動けなかった。
(利害だ)
この人は、俺を信頼しているのではない。俺の利害が、自分の利害と一致していると判断している。それは、信頼より確かだ。
「上様。それがしが、中将様を裏切ることは、お考えになりませぬか」
信長は、少し笑ったようだった。
「考えた。だが、おぬしには、できぬ。――おぬしは、書きすぎた。おぬしの書付は、諸家に回っておる。柴田にも、猿にも、丹羽にも。皆、おぬしが何を考えておるか、知っておる」
俺は、動けなかった。
(そうか)
七年、書いてきた。写しを配ってきた。それは、俺自身の縄だ。俺が何を考えているか、全員が知っている。だから、突然別のことをすれば、すぐ分かる。俺は、自分で自分を縛った。
「上様。それは、いつからお気づきでございましたか」
「最初からだ。七年前、おぬしが円と点の図を持ってきた日だ。あの日、おぬしは、自分の考えを紙に書いて、わしに見せた。普通、家臣はそういうことをせぬ。腹の内は、隠すものだ。おぬしは、隠さなんだ。――あの日から、わしはおぬしを使うと決めた。隠さぬ者は、扱いやすい」
俺は、笑いそうになった。七年、正直に書いてきた。それが、信頼を得た理由だった。そして、それは、利用されやすいという意味でもある。
「上様。それがしは、扱いやすうございますか」
「扱いやすい。――だが、七年、扱っておるが、まだ底が見えぬ。日向守。おぬしは、隠さぬ。だが、分からぬ。なぜ、そこまでするのか。――それだけが、分からぬ」
俺は、答えられなかった。
(言えるか)
俺は、未来を知っている。この人が本能寺で死ぬことを知っていた。言えない。
「上様。それがしは、病で倒れた折、夢を見ました。織田の家が、崩れる夢にございます。京が燃え、諸将が争い、また戦が続く夢にございます。それがしは、その夢を忘れられませぬ。――七年、忘れられませぬ」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。それは、夢か」
俺は、腹を決めた。
「分かりませぬ。夢かもしれませぬ。――ですが、それがしには、まことのことに思えます」
長い沈黙があった。
「日向守。――わしも、見る」
顔を上げた。信長は、湖を見ていた。
「――同じ夢だ」
俺は、何も言えなかった。
この人は、俺が知っている「歴史」を知らない。本能寺の名も、六月二日の日付も、知らない。だが、京が燃え、諸将が争い、戦が続く形は、見えている。二十四で弟を殺した男には、その形が、自分の家に何度でも起きることが分かっている。
俺は、未来を知っていた。この人は、構造を知っていた。同じ夢を、別の場所から見ていた。
湖の上を、舟が一艘、渡っていった。荷の舟だ。三沢の帳面に載る舟だ。
「日向守。書け」
「――は」
「そして、書いたものを、わしに読ませよ。――わしの夢と、合うておるかを、確かめる」
俺は、平伏した。
七年前、この人は「その紙の続きを持ってこい」と言った。今日は、「わしの夢と合うておるか」と言った。紙が、この人の夢の側に、初めて届いた。




