第96話 寂しい人
安土。
大広間ではなかった。この日、上様は俺を、湖に面した小さな部屋に通した。七年前、円と点の図を見せた部屋だ。乱丸が、茶を置いて下がった。
俺は、書付を出した。
――上様御不在の折、中将様が決めてよきこと。全九箇条。
信長は、読んだ。いつも通り、速い。
だが、七条目で止まった。
――急を要する兵の動き。ただし、千まで。
「日向守。なぜ、千だ」
「中将様が、そう決められました。それがしは、五千と書きました。中将様が、『五千は多い』と申されました」
「なぜだと申した」
「『五千動かせば、それは戦だ』と。『戦を始めるのは、父上の役目だ』と」
信長は、書付を膝に置いた。しばらく、動かなかった。
「日向守。勘九郎は、他に、何か言うたか」
俺は、少し迷った。そして、腹を決めた。
「申されました。――『父上が知らぬことを、増やしたくない』と。『父上は、全部を頭に入れておられる。それが父上の強さだ』と。『わしが勝手に決めれば、その分、父上の頭から抜ける。抜けたところで、父上は誤られる。ゆえに、全部報ずる』と」
長い沈黙があった。俺は、額を畳につけたまま、待った。
「日向守。顔を上げよ」
信長は、書付を見ていた。こちらを見ていなかった。
「――あれは、そんなことを考えておるのか」
「さようにございます」
「日向守。おぬし、勘九郎に、わしのことを何と教えた」
「教えておりませぬ。何も、申しておりませぬ。――むしろ、それがしが、中将様に教わりました」
「何を教わった」
「上様のことにございます」
部屋が、静かになった。
「――申せ」
俺は、迷った。
(言うのか)
危険だ。だが、言わねば、何も変わらぬ。
「中将様は、こう申されました。――『父上は、寂しい人だ』と」
静まり返った。
(斬られるか)
長い沈黙があった。異様に、長かった。
「日向守。他に、何と言うた」
顔を上げずに、続けた。
「『誰にも分かってもらえぬと思うておられる』と。『そして、それは、たぶん当たっておる』と。『父上は、速すぎて、誰も追いつけぬ。ゆえに、いつも一人で決めておられる』と」
額を畳につけたまま、最後の一言を言った。
「――『気の毒だと思う』と」
沈黙が、続いた。どれくらい経ったか。
「日向守。顔を、上げよ」
顔を上げた。
信長は、こちらを見ていた。その顔に、何もない。いつも通りの無表情だった。
だが、目が違った。いつもの、眠たげな目ではなかった。何かを、抑えている目だった。
「日向守。おぬし、わしを気の毒だと思うか」
俺は、しばらく考えた。そして、正直に言った。
「思いませぬ。それがしは、上様を恐ろしいと思うております。七年、そう思うて参りました。――ですが、中将様のお言葉を聞いて、思いました。それがしは、上様を、見ておりませなんだ。上様を『仕組み』として見ておりました。上様が倒れたら、どうなるか。上様がお忘れになったら、どうなるか。それしか、考えておりませなんだ。――上様が、どうお思いになるかを、一度も、考えておりませなんだ」
長い沈黙。
「日向守。――当たり前だ。家臣が、主の心を案じてどうする。そんなものは、要らぬ」
「申し訳ございませぬ」
「――だが。勘九郎は、家臣ではない。あれは、息子だ。息子が、父を気の毒だと思うのは」
言葉を切った。しばらく、黙っていた。
「――勝手にすればよい」
俺は、動けなかった。
(照れている)
この人が。
信長は、書付を取った。
「日向守。これは、認める。ただし、一つ、足す」
筆を取り、書いた。
――十、右のいずれにおいても、中将は、明智日向守に問うべし。
息を呑んだ。
「上様。これは」
「そのままの意味だ。勘九郎が決めるとき、おぬしに聞け、ということだ」
「お待ちくださいませ。それは、危のうございます。それがしと中将様が、近すぎることになりまする。上様は、以前、それを案じておられました」
四国のことを言った。俺と長宗我部が近すぎることを、この人は案じた。同じことだ。
「日向守。覚えておるか。『疑わずに済む形にしておくのが良い』と、わしは申した。――今、書いたのが、それだ。おぬしと勘九郎が、隠れて話せば、疑われる。だが、わしが『問え』と書けば――それは、命令だ」
俺は、動けなかった。
(そうか)
俺を縛るものではない。俺を守るものだ。俺が信忠に助言することは、事実として既に起きている。隠せば、密談になる。命令として明文化されれば、職務になる。四国では、俺と元親の近さを「離す」ことで処理した。今度は、俺と信忠の近さを「書く」ことで処理した。同じ人が、二つの手を持っている。
「上様。ありがたく存じます」
「礼を言われる筋ではない。おぬしを使うておるだけだ」
俺は、少し笑った。
「中将様も、同じことを申されました。『わしが、そなたを使うておるのだ』と」
信長は、しばらく黙っていた。
「――似ておらぬと思うておったが。少しは、似ておるか」
胸が動いた。この人が、息子との共通点を口にしたのは、初めてだ。
退がろうとしたとき、声がかかった。
「日向守。一つ、聞く。――わしは、いつ死ぬと思う」
俺は、動きを止めた。
(何だ)
この人が、そんなことを聞くのは、初めてだ。
「分かりませぬ。――ですが、いつ来ても、よいようにいたしております」
「日向守。それは、不敬だぞ」
「申し訳ございませぬ」
「――だが、正しい。わしは、いつか死ぬ。そして、たぶん、突然だ。戦の最中か、道の途中か。――畳の上では、死なぬだろう」
俺は、動けなかった。
(分かっている)
自分の死に方を、予想している。俺が知っている死に方と、たぶん同じ形で。
「上様。恐ろしくは、ございませぬか」
信長は、しばらく黙っていた。
「――恐ろしい。死ぬのが、ではない」
書付を見た。
「――死んだ後が、恐ろしい」




